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元捕虜の訪日記録

日本政府招聘によるアメリカ兵元捕虜の来日
(2010年9月12日〜19日)

笹本 妙子

来日の経緯

2010年9月12日〜19日、第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となり過酷な生活を強いられたアメリカの元捕虜6人とその家族・遺族計14人が、日本政府の招聘(事業名「日本人とPOWの友好プログラム」)で来日しました。この実現までには長い道のりがありました。

アメリカでは1999年にカリフォルニアの州法が改正され、第二次大戦中にドイツ及びその同盟国により強制労働させられた被害者が、捕虜を奴隷の如く使用して利益を上げた企業に対し、補償や謝罪を求めることができるという法律ができ、元捕虜のレスター・テニー氏(今回の訪日団長)らが使役された日本企業を相手に訴訟を起こしました。しかし、この訴えは2003年に米最高裁で棄却され、裁判の道は閉ざされてしまいました。テニー氏らはその後も様々な運動を続けてきましたが、成果を見ず、また日本政府がイギリスやオランダなどを対象に行ってきた元捕虜・家族招聘プロジェクトからも除外されてきました。

しかし昨年5月、元捕虜などで構成される「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」(略称ADBC)の総会に藤崎一郎駐米大使が出席して謝罪したことを契機に、状況が大きく進展し、戦後65年目の今年、アメリカ元捕虜・家族の招聘が初めて実現したのです。

1週間の旅程には、政治家との面会、収容所跡地や英連邦墓地訪問、大学での講演会など沢山の行事が盛り込まれていましたが、POW研究会は「捕虜 日米の対話」「元捕虜・家族と交流する会」とともに、外務省に対し、収容所跡地などへの同行と市民交流会の開催を申し入れ、実現することができました。

到着の翌日、岡田前外務大臣は一行と面会し、政府を代表して真摯な謝罪の言葉を述べました。これは画期的な出来事で、元捕虜・家族の方々も長年の苦しみから解放された思いだったようです。もう1つの目的だった企業からの謝罪は得られませんでしたが、多くの日本人と出会い、交流し、素晴らしい旅だったと、皆さん口々におっしゃっていました。ほとんどが90歳近いご高齢ながら、さしたるトラブルもなくお元気で帰国されたのは何よりでした。

来日メンバー

(1)Lester Tenney(レスター・テニー)氏(90歳)と夫人/訪日団長
バターン死の行進→オドネル収容所→カバナツアン収容所→「トコ丸」→ 福岡第17分所(大牟田・三井炭鉱)

(2)Joseph Alexander(ジョセフ・アレグザンダー)氏(84歳)と夫人
ミンダナオ島で降伏→東京本所(品川)→東京第2分所(川崎扇町)→東京本所(大森)

(3)Edward Jackfert(エドワード・ジャックファート)氏(88歳)と夫人
ミンダナオで降伏→「鳥取丸」→東京第2分所(川崎扇町)

(4)Donald Versaw(ドナルド・ヴァーソー)氏(89歳)と令嬢
カバナツアン収容所→クラーク基地→「日昌丸」→福岡第7分所(二瀬炭鉱)

(5)Robert Rosendahl(ロバート・ローゼンダール)氏(89歳)と子息
バターン死の行進→奉天収容所

(6)Earl Martin Szwabo(アール・マーティン・スツワボ)氏(89歳)と夫人
コレヒドールで降伏→パラワン島→「マテマテ丸」→名古屋第5分所(四日市)

(7)Janice Thompson(ジャニス・トンプソン)氏/子孫グループのリーダー
 父Robert Thompson(88歳): コレヒドールで降伏→ビリビッド収容所→「鴨緑丸」撃沈→「江の浦丸」撃沈→「ぶらじる丸」→門司→奉天収容所

(8)Nancy Kragh(ナンシー・クレイグ)氏/POWの遺族(娘)
 父Clarence H.White:バターン死の行進→「鴨緑丸」撃沈→「江の浦丸」撃沈で死亡

日程

12日(日)東京着(東京泊)

13日(月)米国ルース大使面会/岡田外相面会/福山官房副長官面会/国際基督教大で講演(東京泊)

14日(火)収容所跡など各自の希望地訪問(地方泊)

15日(水)京都へ移動(京都泊)

16日(木)霊山観音訪問/京都観光(京都泊)

17日(金)国際IC推進議員連盟で講演/共同記者会見/外務省主催送別会(東京泊)

18日(土)横浜英連邦墓地/市民交流会(東京泊)

19日(日)離日

岡田外務大臣の謝罪:13日(月)

一行が到着した翌日の13日午前、岡田外務大臣は外務省で彼らと面会し、「皆さんは非人道的な扱いを受け、ご苦労されました。日本政府を代表して心からお詫び申し上げます」と謝罪した。テニー氏は「このような機会を歓迎したい」と謝意を述べる一方、「強制労働させた企業は65年間沈黙を守っている」と、企業側も謝罪するよう求めた。

このニュースは、国内外の多くのメディアで報道され(文末にリスト掲載)、また、岡田外務大臣は自らのブログでこの時の感想をこう綴っている。

「……65年間の思いを抑えることが出来ず、感情を露わにされた方が多かったのですが、そのお話を聞かせていただきながら、私は、“同盟国である米国の皆さんが、これだけの日本に対する思いを持って65年間生きてこられた。もっと早く、日本国政府として何とかできなかったのか”という気持ちがしてなりませんでした。……(中略)……もちろん、この元捕虜の皆さんは大変厳しいことをおっしゃいましたが、同時に、頻繁に日本に来て日本人の若者との交流を続けておられる方や、あるいは、会合が終わったあと一緒に写真を撮ったのですが、そのあとに、わざわざ私に対して“非常に過酷な日本兵もいたけど、優しい素晴らしい日本兵もいた”ということを語ってくれた方もいました。……(中略)……そういうことがあったということを、日本人1人ひとりがきちんと認識しなければならないことを、改めて感じた次第です。」

各人の希望地を訪問:14日(火)〜15日(水)

テニー夫妻

同氏は「バターン死の行進」を経て大牟田の福岡第17分所に収容され、三井三池炭鉱で使役されたが、同地は1度再訪しており、今回は愛媛県松山市訪問した。68年に交換留学生としてテニー氏宅にホームステイしてから40年間家族ぐるみで交流し、昨年亡くなった田坂徹氏の墓参のためである。「捕虜日米の対話」の伊吹由歌子さんが同行。テニー氏は田坂氏との交流を通して、日本の文化や生活習慣を知り、反日感情を解いていったという。墓参の後、田坂未亡人と共に道後温泉など松山観光。

同氏の体験については、著書『バターン 遠い道のりのさきに』(当サイト内紹介記事へ)や、ウェブサイト「捕虜 日米の対話」(サイトへジャンプ)を参照。

田坂氏のお墓にお参りするテニー夫妻(提供:伊吹由歌子)

アレグザンダー夫妻・ジャックファート夫妻

 <14日>

両氏がいた川崎の東京第2分所跡と山梨県忍野村の元シベリア抑留者を訪問。POW研究会の長澤のりと笹本妙子が同行。両氏の体験についてはWebsite「捕虜 日米の対話」、東京第2分所の実態については当サイト記事(PDFへジャンプ)を参照。

川崎ではまずジャックファート氏が使役されていた昭和電工川崎工場を訪問。当時同工場に学徒動員され捕虜と一緒に働いた竹内浩一郎氏も同行。門の前でCNN、TBS、毎日新聞の取材に短く応じた後、同社の事務所で総務部長と面会。総務部長から同社の業務内容の説明があり、当時の写真などを見せてもらった後、ジャックファート氏が捕虜として働いたときの様子(アンモニアの製造に関わり、大変危険な作業で、何人かが火傷したこと、職場のチーフはとても良い人であったこと、空襲の時は日本人だけ逃げて、捕虜たちは取り残されたことなど)を話し、こう訴えた。「昭和電工に対しては悪い思い出は持っていないが、我々にアメリカを攻撃する武器を製造させたこと(同工場では肥料や爆薬を製造。捕虜を武器製造に従事させることはジュネーブ条約違反)に対し、謝罪してほしい。貴社のようなトップクラスの企業が謝罪することは、他社の謝罪も促すことになる。我々は金銭的補償を求めているわけではなく、単に謝罪を求めているだけである。今もつらい記憶に苦しんでいる人たちを苦しみから解放し、和解を進めていきたい。このことをぜひ会社の上層部に伝えてほしい」。これに対し、総務部長は「承知しました」と答えた。それから工場内をざっと案内してもらったが、ほとんどが様変わりし、ジャックファート氏が見ても思い出すものはなかったようだ。

次に、東京第2分所が設置されていた三井埠頭に向かう。門を入ってすぐ左の古い事務所ビルは、戦中の捕虜の集合写真のバックにあった建物と酷似しているが、同社は訪問を受け入れず、構内に立ち入ることも拒絶した。ジャックファート氏は門外から構内を撮影し、再び報道陣の取材に応じた。

その後、日清製粉(この構内に東京第24派遣所があったが、45年6月末に閉鎖。東京第2分所が45年7月25日の空襲で破壊された後、その空き家に捕虜たちが移動し、ここで終戦を迎えた)を外側から眺めて、川崎訪問は終了。

午後、山梨県忍野村の渡辺時雄氏(93歳。バターンに駐留した後、満州に派遣され、戦後はシベリアに抑留)を訪問。同氏は自分で育てたトウモロコシで歓待。両者の接点はないのだが、「平和な時代になったからこそ会えた」と面会を喜び合い、お互いの戦地や強制労働の体験や、戦争の無意味さ、体験を語り継ぐことの大切さなどを語り合った。

 <15日>

アレグザンダー氏のいた大森収容所跡を訪問。POW研究会の長澤のりが同行。同氏が捕虜になったのはわずか15歳。彼はこれまでも何度か来日し、長澤の案内で大森収容所跡地も訪ねたことがある。

収容所は当時埋め立てられたばかりの人口島にあったが、戦後大きく変貌し、目の前の運河は競艇場となり、収容所のあった辺りには観客スタンドが建設されて、当時を偲ぶものは何もない。唯一ゆかりのものと言えば、競艇場事務所脇に立つ「平和観音像」だけである。傍らの由来記を見て、両氏は自分たちの苦難の物語が書かれていると信じて疑わなかったようだが、実は「平和島は先の大戦相手国の俘虜収容所があったところ、戦後はわが国戦犯が苦難の日々を送った謂わば『戦争と平和の因縁の地』……」と記されているのみである。

大森収容所については、笹本妙子著『連合軍捕虜の墓碑銘』(当サイト内紹介記事へ)を参照。

昭和電工で当時の写真を見せてもらう
ジャックファート氏とアレグザンダー氏(中央)

山梨県忍野村にて渡辺氏(右)と語り合う
ジャックファート氏とアレグザンダー氏

ヴァーソー氏・お嬢さん

同氏がいた福岡県飯塚市の福岡第7分所(日鉄二瀬炭鉱)跡を訪問。「捕虜 日米の対話」の徳留絹枝さん同行。彼の体験についてはウェブサイト「捕虜 日米の対話」(サイトへジャンプ)を参照。

福岡第7分所には米、英、蘭の捕虜約600人が収容されており、ヴァーソー氏は深さ500〜1000mの坑内で、ダイナマイトで破砕した石炭を掻き出し地上に送り出す作業に従事させられた。炭鉱は閉鎖されてしまったが、唯一残る門の前で、当時を知る池主さんという男性と対面した。当時15歳だった池主さんは、終戦直後、B29から収容所に救援物資がパラシュート投下された時のエピソードを語り、ヴァーソー氏もその時の喜びや住民と物々交換した思い出を語った。2人は市歴史資料館を訪ね、採炭作業の模型などを見学。ヴァーソー氏が「炭鉱ではいつも“グワンジャン”と言われていた。いまだに意味がわからない」と言うと、池主さんが「それは“ご安全に”。相手が誰であれ気遣う炭鉱の挨拶です」と教えた。

池主氏(左)と思い出を語り合うヴァーソー氏
(提供:徳留絹枝)

ローゼンダール氏・ご子息

同氏は「バターン死の行進」を経て、満州の奉天(現・瀋陽)に送られ、日本国内の収容所にいたことはなかったので、大分県別府で温泉を楽しんだ。進駐軍時代の思い出の場所だったらしい。

同氏の捕虜体験については、NYタイムズ記事(NYTサイト内記事へリンク)参照。

スワボ夫妻

14日には名古屋のNGO「ピースあいち」と交流、15日には同氏が使役された石原産業四日市工場(名古屋第5分所)を訪問。四日市にはPOW研究会の福林徹が同行。

同氏は事前の調査で「名古屋の三菱で働いた」と申告していたことから、外務省は名古屋の三菱電機訪問を計画していた。しかし、名古屋の三菱電機で捕虜が使役されていたという事実はなく、POW研究会と「捕虜 日米の対話」が調査した結果、収容所は名古屋第5分所、使役されたのは石原産業四日市工場と判明した。同氏はこの工場で銅の精錬の仕事に従事していた。

石原産業は、昨年同じく米捕虜のハイムバック氏を迎えた経緯もあり、スワボ夫妻を丁重に迎え、工場内や慰霊碑を案内し、懇談した。

同氏の体験や今回の旅への感想は、帰国後取材を受けた地元紙の記事(NYTサイト内記事へリンク)参照。

石原産業構内の慰霊碑に花束を捧げたスワボ夫妻
(提供:福林徹)

ジャン・トンプソンさん・ナンシー・クレイグさん

両氏の父上たちは共に悲劇の輸送船「鴨緑丸」で日本に移送されたが、トンプソンさんの父は生き延びて奉天で終戦を迎え、クレイグさんの父は「鴨緑丸」撃沈の後に乗り継いだ「江の浦丸」が台湾の高雄に停泊中、米軍の空爆により死亡した。ということから、両氏は、多くの捕虜たちが「地獄の航海」の末にたどり着いた門司港訪問を希望した。

門司では、収容所(福岡第4分所)の隣に住んでいたNさん(89歳)と面会した。収容所はYMCAの建物が使われていた。彼女の父は造船工場を経営し捕虜を使役していたため、彼女は、捕虜たちが隊列を組んで工場に行進してくるのをよく見ていた。トンプソンさんが「父は、門司到着後体力が回復すると、死亡した仲間の遺体を火葬場に運んだが、その途中、年配の夫婦から両手に一杯のタマネギをもらったそうです」と話すと、Nさんは、当時日本では野菜はとても貴重なものだったと語った。終戦後、収容所に救援物資が投下されると、捕虜たちはNさんの実家にそれを持ってきてくれ、「我々は今は友だちだ」と言ったという。Nさんは戦中に結婚し、その写真を見せてくれた。彼女は伝統的な結婚衣装を着ていたが、夫は官給品の質素なスーツ(国民服?)だった。

両氏はその後、多くの捕虜が下船した門司港と、日本各地への移送の起点となった門司駅を見学し、翌日はヴァーソー夫妻と合流して太宰府天満宮を見物した。

鴨緑丸と門司については、笹本妙子著『連合軍捕虜の墓碑銘』(当サイト内紹介記事へ)を参照。

京都の霊山観音訪問:16日(木)

15日夕方に京都で合流した一行14人は、翌16日、霊山観音(第2次大戦中に死亡した連合軍捕虜全員の名簿を保管)を訪問。「捕虜 日米の対話」の徳留さんと伊吹さん、POW研究会の福林徹と西里扶甬子が同行。

同寺への連絡不足で事情を知らない僧侶が対応したため、米捕虜のカードは見られたものの、名簿のケースの鍵が見つからなくて取り出せないというトラブルも。江の浦丸で死亡した父のカードを見つけたクレイグさんは、感極まって泣き出した。その涙について、彼女は「2歳半で別れた父の記憶はなく、たとえ見つかっても、とりたてた感慨はないだろうと思っていた。こんなにイモーショナルになるとは自分で予想していなかった。戦後は、国は勝ったのだからハッピーであるべきで、悲しみを表現することが許されなかった。特にシングル・マザーとして2人の子を育てる母のもと、子供時代は悲しむことを禁じられていた。やがて私はフェミニズムの運動にも参加して、頑張ってきた。その抑圧された悲しみが噴出した」と語った。

ジャックファート氏は「戦争による勝者はいない」と語り、「特に鴨緑丸や江の浦丸の犠牲者は自国の飛行機の攻撃で死んでいる」と苦渋の色を浮かべた。

霊山観音にて父親のカードを見つけたクレイグさん 後ろはカードボックス
(提供:伊吹由歌子)

国際IC議連講演会/外務省主催送別会など:17日(金)

国際IC議員連盟講演会

参議院議員会館102会議室にて。出席者は元捕虜・家族14名、IC議連会長の羽田孜元首相、衆参議員11名、矢野経団連元事務局長、外務省関係者など。司会は藤田幸久議員。「捕虜 日米の対話」、「元捕虜・家族と交流する会」、POW研究会より計7人が傍聴。

団長のテニー氏が、今回の招聘と政府の謝罪に謝意を表した後、訪日メンバーの紹介と自身の捕虜体験を語り、「三井、三菱、日本車輌、川崎重工など、我々を使役して虐待した企業は謝罪すべきである」と訴えた。

外務省主催送別会

一行が宿泊しているホテル「ザ・プリンス・パークタワー東京」にて。POW研究会より7人が出席。

主催者の武正外務副大臣、テニー氏やジャックファート氏などのスピーチの後、外務省が厚労省から入手した捕虜銘々票などが元捕虜・家族に手渡されたが、全員分が見つかったわけではないらしい。

ヴァーソー氏の捕虜銘々票

パーティの後、皆でヴァーソー氏の部屋を訪ね、彼の捕虜銘々票を見せてもらう。POW研究会では今、オランダ捕虜の銘々票の翻訳に取り組んでいるが、形式は同じながら、記入内容が大分違う。ヴァーソー氏の銘々票では「特記事項」の欄に、身長、体重、顔や耳や鼻の形、髪や肌や目の色、入れ墨など身体的特徴が記されており、フィリピン内の移動に関する記述では、収容所名ではなく「第22飛行団第8飛行場中隊」「第22飛行団第31飛行場大隊」などと日本軍の組織名で記されている。ヴァーソー氏の腕には、銘々票の記述通り、蝶の入れ墨があった。

英連邦墓地訪問:18日(土)

英連邦墓地訪問

一行14人大型バスで到着。POW研究会メンバー2人が出迎え、ニューズウィークとTBSが取材。

英連邦の墓地だが、納骨堂には48人のアメリカ人が眠っており、その大半が「鴨緑丸」撃沈、「江の浦丸」撃沈を生き延び、「ぶらじる丸」で門司に到着した直後に亡くなった人々である。父が江の浦丸で死亡したナンシー・クレイグさんは、小暮のインタビューに答え、こんな話をした——「父は医師で、彼女が3歳までフィリピンで一緒に暮らした。母は父について何も話してくれず、訊ねても話したくないという身振りで拒否した。父の遺灰がなかったためお墓が作れず、10年前に母が亡くなって軍墓地に埋葬したとき、墓碑に父の名を刻んだ。2000年頃父がカバナツアン収容所で撮った写真を見つけ、一緒に写っている人を捜しだし、初めて父を知る人から話が聞けた。父は日本に来たことがないのに、日本に来た私がこんなに感情的になるなんて思いもしなかった」。

アメリカ人捕虜48名が眠る納骨堂(提供:小暮聡子)

アメリカ元捕虜・家族と交流する会:18日(土)

【主催】POW研究会/捕虜 日米の対話/元捕虜・家族と交流する会

【時間】第1部:14時〜15時半/第2部:15時半〜17時

【会場】東京都港区芝公園2-4-1芝パークビル地下1階「AP浜松町」Cルーム

【参加者】ゲスト14人+主催者・参加者・メディア関係者70人=84人

【通訳】徳留絹枝・伊吹由歌子 【司会】笹本妙子 

<第1部>

POW研究会共同代表の福林より挨拶——岡田外相が政府を代表して謝罪したが、これで問題が解決したわけではない。今日は元捕虜の方々の声に耳を傾け、我々に何ができるかを考える機会としたい。 ・訪日団長テニー氏の挨拶とメンバー紹介。

ジャックファート氏の捕虜体験——ミンダナオで捕虜となり、日本へ。収容された川崎の第2分所は米軍の空襲で破壊され、仲間22人が死亡した。POW研究会の調査により、死亡した仲間の名前を知ることができた。素晴らしい仕事に感謝。我々も故郷の町にPOW博物館を作った。

子孫グループ代表のトンプソン氏の挨拶——日本人は捕虜の問題についてほとんど知らない。これを知ってもらうために、あなた方の手助けが必要。

若い世代からの「捕虜について何も知らなかったことが恥ずかしい」との発言を受け、元捕虜側から「日本の学生も米国の学生もあまり知らない。だからこそ教育の中で教えていかなければならない」等。

モンゴルに抑留された元日本兵の体験談を受け、満州に送られたローゼンダール氏が、「奉天収容所では400人が死んだ。終戦後、関東軍の兵士が北に送られていくのを見た。ソ連軍は残虐だったという」等。

テニー氏が日本人の残虐さの原因を分析すると(コミュニケーションや異文化への理解がなかった)、トンプソンさんが父のエピソード(親切な日本人もいたこと)を紹介。

学生から「日本人の異文化理解は、今は変わったと思うか?」との質問に、「大きく変わった。今ここに我々がいることもその証拠。それには満足しているが、企業が謝罪していないことは、我々のまだ癒えない傷だ」とテニー氏。

謝罪について。アレグザンダー氏は使役された川崎の鉄工所を訪ね、社長から口頭での謝罪を受けたとき、嬉しくて泣いたこと、ジャックファート氏は、今回昭和電工は丁寧に対応してくれたが、三井埠頭と日清製粉には入れてもらえなかったこと、テニー氏は経団連に手紙を出したが返事をもらえなかったことを話す。

賃金について。テニー氏は全くもらわず、ジャックファート氏とヴァーソー氏は郵便貯金に回され戻ってこなかったと語る。

<第2部>

徳留さんより、今回のプログラムが実現するまでの経緯(外務省との交渉など)について説明。

トンプソン氏が製作した2,3分のプロモーションフィルムを視聴。捕虜たちの実態を写した様々な写真やスケッチ——食べ物を求めての行列、飢えの中で思い描いたレシピ本、辛い仕事から逃れるためにわざと自分の腕や脚の骨を折ったこと、国立公文書館の所蔵フィルム(奉天の捕虜解放)の中に、父の姿を見つけたこと等。

クレイグ氏は江の浦丸で亡くなった父の体験を話し、「父のことを知らずに育ったが、15年前から調べ始め、ずいぶんわかるようになった」と語る。

若い世代からの質問を受け、トンプソン氏は「父の体験を知ったとき、こんな酷いことがあったのかと、これをドキュメントすることを計画した。父について調べることが自分の存在意義だと思う。今後、日米の学生をつないでテレカンファランスを行いたい」等。クレイグ氏は「ADBC子孫グループがアメリカの高校にオンラインで資料提供するつもり」等。

年配の参加者から、「日本のシベリア抑留者のこともアメリカの人々に知って欲しい」との意見を受け、徳留さんが、テニー氏がシベリア抑留者と親密な交流があることを紹介、司会からもジャックファート氏とアレグザンダー氏が山梨のシベリア抑留者と対面したことを紹介。

「国際法違反に対し、裁判に訴えるつもりはないのか?」「謝罪を得て、裁判は諦めたのか?」との問いに、トンプソン氏は「謝罪は自分たちの人生の最終章における大事な出来事。補償については今のところ考えていないが、理想的には企業が教育のための資金援助をしてくれればと思う」と答え、徳留さんは「テニーさんたちが謝罪と補償を求めた裁判は棄却され、深い失望感に陥ったが、それを乗り越え、お金ではなく正義と名誉のために闘ってきた。それを今さら補償をとけしかけるのは残酷。ある企業は毎日新聞の“なぜ謝罪しないのか?”との問いに“まだ補償の問題が心配だから”と答えたというが、それはとても不誠実な態度」と語る。

「捕虜の方々は原爆のお陰で自分たちの命が助かったと言うが、日本側の微妙な感情も理解して欲しい。アメリカの教育で原爆のことを教えて欲しい」との意見に、トンプソン氏は「少なくともアメリカの学生は原爆について学んでいるが、日本の学生は捕虜のことを知らない」と答え、「この1週間は素晴らしい日々。歴史的な第1歩を踏み出した。このプログラムを今後も継続し、捕虜の歴史を知らしめる努力を続けたい。そのために日本の若者の力が必要。連絡を取り合って一緒にやっていこう」と訴える。

会計より、カンパが9万円近くあり、会場費が賄えたとの報告。

「元捕虜・家族と交流する会」事務局の有光氏より挨拶——今回は外務省作成のプログラムのため、市民との関わりに戸惑いがあった。来年以降は市民サイドの声ももっと反映させたい。

挨拶する元捕虜・家族14人(提供:福林徹)

様々な世代が参加(提供:小暮聡子)

報道

※記事へのリンクは無効になっている場合があります。

国内メディア

<9/13 Japan Times> (記事へリンク
Former U.S. POWs arrive in Japan on government invitation

<9/13 朝日新聞> (記事へリンク
「バターン死の行進」外相として初の謝罪 元米兵捕虜に

<9/13 毎日新聞> (記事へリンク
大戦下強制労働:元米兵捕虜が来日…岡田外相「おわび」

<9/14 Japan Times> (記事へリンク
Okada apologizes for U.S. POWs' treatment

<9/14 信濃毎日>
和解への扉開かれた 「バターン死の行進」を経験したレスター・テニー氏

<9/14 信濃毎日>
岡田外相「非人道的だった」もと米兵捕虜に謝罪

<9/15 毎日新聞> (記事へリンク
元米兵2人とシベリア抑留の渡辺さん、忍野村で対談 捕虜体験共有

<9/15 毎日新聞> (記事へリンク
戦後65年「強制労働 企業は謝って」福岡・飯塚の炭鉱跡 89歳元米兵が訪問

<9/15 The Asahi Shimbun> (記事へリンク
Japan apologizes for Bataan Death March

<9/16 愛媛新聞> (記事へリンク
日本への憎悪、親友が変えた 「バターン死の行進」元捕虜来日

<9/16 ブログ> (記事へリンク
元米兵捕虜ピースあいちを訪れる

<9/17 京都新聞>
死者名簿親族の名に涙 旧日本軍捕虜の元米兵、遺族ら京に

<9/17 毎日新聞> (記事へリンク
元米兵捕虜:強制労働を強いた企業へ謝罪求める旅

<9/17 毎日新聞> (記事へリンク
元米兵捕虜公式招待で来日 外相謝罪、強制労働の企業は沈黙 和解へ政と民に温度差

<9/17 The Mainichi Daily News> (記事へリンク
Ex-POWS touring Japan disappointed at not receiving apologies from firms over slave labor

<9/17 産経新聞> (記事へリンク
「強制労働関与の企業も謝罪を」元米捕虜

<9/19 TBSニュース> (記事へリンク
旧日本軍捕虜の米兵ら、戦後65年の訴え

<9/19 毎日新聞> (記事へリンク
紙ふうせん:「グワンジャン」炭鉱の人情 米元捕虜との思い出話に花 福岡・飯塚市

海外メディア

<9/13 Wall Street Journal>  (記事へリンク
Former U.S.POWs visit Japan as first-time guest

<9/13 Wall Street Journal ;Video Clip> (記事へリンク
U.S. POWs want Japan apology

<9/12 AP> (記事へリンク
Japan foreign minister apologizes to US POWs

<9/13 Youtube> (記事へリンク
Former US POWs seek apologies from Japan

<9/15 CNN> (記事へリンク
American POWs seek acknowledgment

<9/24 Wheeling Intelligencer>
Japan apologizes to WW2 POWs / Local veteran witnesses long-sought atonement (Jackfert interview)

<9/27 St.Louis Beacon> (記事へリンク
Florissant man a former POW in World War 2 returns to Japan to accept a nation's apology (Szwabo & Thompson interview)