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長澤のり会員 受勲

2009年4月28日、まばゆい初夏の日差しの中、東京のオランダ大使館にてPOW研究会会員の長澤のりさんがこれまでの日蘭の為の地道な活動を称えられ、オランエ・ナッソー勲章を受章しました。

叙勲式は大使公邸にて大使夫妻、公使、また大使館職員立会いの下、心温まる雰囲気の中で行われました。オランダ人画家の絵の前で、ドゥ・ヘーア駐日オランダ大使は「レンブラントと同世代によるこの絵のように、物事には光と陰があります。陰に光が当たるとあたりはもっと明るくなります。長澤のりさんは、多くの人々が関わりを好まないこの陰に光を投げかけ、蘭捕虜やインドネシアの抑留所生活者等、沢山の人の心を癒してこられました。本日はベアトリクス女王様に代わり、東京の大使館をあげて長澤様のこれまでのご努力にオランダ王国からの感謝の意を表し、オランエ・ナッソー勲章を授与致します。」とスピーチをされ、列席されたご家族にも大変な栄誉、POW研究会にとりましても特別にうれしい出来事となりました。

長澤さんは人材豊富な当研究会の中でも、戦争体験のある数少ない会員の一人。様々な形で私達を常に感化してくださる素晴らしい会員です。長澤さんとオランダとの関わりは十数年前、福岡県水巻町にあるオランダ人捕虜の慰霊碑(十字架の塔)を訪ね、現地のボランティアの黒河博さんの案内を受けたのがきっかけでした。ここは、元々は戦争中、近くの水巻収容所で死亡した捕虜の墓地でしたが、戦後遺骨は祖国の遺族の元に戻りました。1985年、元捕虜の初めて来訪の知らせに、黒河さんは雑草に覆われ荒れ放題になっているのを見て、外地で戦死したご自身の兄に思いを馳せて心を痛め、清掃を始め、以来、それを続けておられます。しばらくして来日されたDolf Winklerさんがその後毎年のように訪日されていることを知り、感銘を受けた長澤さんとWinklerさんとの交流も始まりました。既に米元捕虜等と親交を結んでいた長澤さんにとり、860名余りのオランダ人捕虜が日本国内で死亡の事実は衝撃でした。特に、その多くがインドネシアから輸送された人々であった為、ご自身のお父様も一時仕事をされていた国であることから彼等のことは特別なものとなりました。後に、水巻町はこの地を美しく整備し、オランダ人死亡捕虜全員の名前を銅板に刻み、今では町とオランダとの交流が盛んになっています。

外務省が毎年オランダから招聘する、戦争中インドネシアでの抑留所生活を余儀なくされた民間のオランダ人達、そして日本兵を父に持つ混血児達、この二つのグループにも長澤さんは程なくして会う機会を得、戦争の深く暗い影に気づかされました。17世紀に始まるオランダの植民地化で、インドネシアに長年暮して来たオランダ人達にとり、日本の侵攻は驚愕の事実であり、男たちは捕虜収容所から泰緬鉄道建設等に駆り出され、また不足した労働力補充の為、危険な海域を経て日本国内130箇所にあった捕虜収容所に移送され、工場・造船所・鉱山などでの使役で、辛酸を嘗めました。一方、残された婦女子は抑留所入りで困難な生活や屈辱を味わい、戦後の解放を喜ぶ間もなくインドネシア独立戦争が起こり、気候風土も異なる未知の『本国』オランダへと追われることになりました。幼児期を抑留所で過ごした人達でさえ、深く刻まれた恐怖心は未だに癒えることが無く、また日本兵を父に持つ混血児の多くは父の名前を知らず、今も尚、父に一目会いたいと希う姿には胸が痛くなります。明らかにわかる東洋系の顔立ち・姿かたちに、母のオランダでの再婚者からは疎まれ、暴力を受けることもあったそうです。心身ともに傷を持つこのオランダ人たちのことも忘れてはならないものとなりました。

オランエ・ナッソー勲章は6等級からなり、人々に突出して良い影響を与え、社会に長年貢献した人に与えられるもの。長澤さんの優しく包み込むような笑顔とお人柄で、これまでどれほど多くの人達が心の苦しみを軽減されたことでしょう。私達は長澤さんを誇りに、尚一層邁進したいものです。

田村佳子 報告

写真提供:オランダ大使館

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