POW研究会トップ活動報告元捕虜の訪日記録日本政府招聘によるオーストラリア人元捕虜・抑留者の来日 2012-10>オーストラリア人元捕虜・抑留者と日本の市民との交流会 2012-10
 
元捕虜の訪日記録

オーストラリア人元捕虜・抑留者と日本の市民との交流会
(2012年10月4日)

ウィリアム・H・シュミットさん
Mr. William H. Shumitt

ご紹介いただきましてありがとうございます。私はオーストラリア人です。ですので、ゆっくりお話をして、通訳の方に私の話を皆さんに届けていただきたいと思います。多くの方は英語に通じていらっしゃるかとは思いますが。始めに、お祝いを・・・元捕虜・家族と交流する会を称賛したいと思います。日本政府によって日本へ招聘されることが決まった3か月前に初めてこの会について知りました。

恐らく、陸軍での生活からお話ししたいと思います。私はオーストラリア陸軍に1940年の初期に入隊しました。訓練の後、中東へ派遣され、ヴィシー・フランス政権下でドイツ軍と戦いました。

1941年1月(註:正しくは12月)に、日本が宣戦布告をした際、私はここにいらっしゃるハムリーさんと共に中東から戻ってくる船にいました。オーストラリアに帰れるのだと思っていましたが、残念なことに、ジャワに方向転換させられ、ジャワ島で日本軍の捕虜となりました。私は3月9日に捕虜となりましたが、シンガポールの第8師団とは別でした。島に散らばった小さなグループごとに捕まり、別々の収容所に入れられました。ジャワで約1年過ごした後、結局タイへ送られることになりました。

不運にも(タイへの)中継地点のシンガポールで多くの者が赤痢にかかり、それはコレラのようなものでとても致命的でした。私が一緒に移動していたグループはタイに行きましたが、私はシンガポールに残りました。

我々は毎日シンガポールの空港建設の仕事に従事させられました。私がチャンギ収容所に着いて早い段階で私はチャンギ刑務所へ移送させられ、そこで残りの捕虜生活を送りました。悲劇的だったのは捕虜の死亡率です。栄養失調や医薬品は非常に多くの死を引き起こし、捕虜となった21000人余りのうち、8000人が収容所で亡くなりました。我々はもちろん過酷な状況下で労働させられました。

振り返ると、戦争が進むにつれ、日本は海上の支配権を失い、シンガポールに米を持ち込むことが不可能になっていました。我々が刑務所の中で飢えていただけでなく、地元住民や、恐らく日本軍も食糧を得ることができていなかったと思います。

私は収容所生活中にマラリアにかかり、何度赤痢や他の病気にかかったかわかりません。しかし、幸運なことに、生き残ることができました。今振り返ると、日本人に対していかなる悪意も抱いたことがありません。私に起きたことを忘れることはできません。捕虜生活のことを忘れることなどできるのでしょうか。しかし、日本人に対して憎しみを持つことに関しては、とうの昔に私は忘れました。全ての嫌なことは過去に追いやりました。人を憎み続けることは何も慰めにならず、無駄で意味がないことだと気づいたのです。

私が陸軍から除隊し、職場に戻った時、捕虜生活の日々を過去に葬りました。過去を振り返ることは何も意味がないと思います。人生は前を向くことです。皆様方は私たちとは異なった文化をお持ちです。徐々にではありますが、でも確かに、我々はお互いの文化を学んでいます。オーストラリアでは多くの人々が、日本人は戦時中に何が起こったのか学校で教わるべきだと文句を言っています。しかし、言うことは簡単ではありますが、オーストラリアでもオーストラリア人の子供たちに戦争について何も教えていません。ですので、他者を指さして「戦争について教えろ」と非難するのは無意味なことです。私たちの子供たちも教わっていないのですから。いずれにせよ過去を振り返ることは時間の無駄だと私は思います。

我々は月曜日に来日し、歓迎されおもてなしを受けました。非常に素晴らしいおもてなしです。本当にとても素晴らしいです。皆様方はとても献身的で親切に接してくださっています。私は東京に来たのは初めてですが、これほど大きな都市で、清潔感があること、そして皆様の文化や礼儀にもとても驚きました。全く申し分がありません。本当にありがとうございました。この後にまたお話しする機会があることを願っています。ありがとうございました。

コリン・ハムリーさん
Mr. Colin Hamley

歓迎していただきましてありがとうございます。私の話を伝えるために、こうしてここに来ることができましたことを嬉しく思います。私の友人のビル(ウィリアム・シュミット氏)とは異なり、捕虜として我々に起こったことについて私はとてもとても苦々しく感じております。私はビルが話したよりはむしろ悲しいお話をこれからすることになります。

日本の侵攻に抵抗するため、そしてオランダ軍を援護するためにジャワに上陸し、3500人のオーストラリア兵と共に私は1942年3月に日本帝国陸軍の捕虜になりました。それはひどい屈辱、虐待、隷属状態、飢餓、そして医療処置の拒絶といった試練の始まりでした。状況は年が長引くにつれ徐々に悪化していきました。

我々は1942年10月にシンガポールに船で移送させられました。貨物船の船倉に詰め込まれ、全く身動きできない状況でした。食糧や水も少ししか与えられませんでした。船倉の暑さは強烈であり、多くの捕虜が赤痢に苦しみました。我々は皆非常に不快でした。

6日間の船旅の後、シンガポールに着きました。非常に劣悪な状況であったため、多くの者が治療を受けるために病院へ直行しました。一人の者が、恐らく一人だけだったと思いますが、その途中で亡くなりました。そして、1943年2月にまた出発しました。今回はビルマに向けてであり、タイから415キロにわたる悪名高い鉄道の建設工事に奴隷労働者として働かされるためでした。

これは気違いじみた計画であり、非常に多くの捕虜や奴隷の如く徴用された市民の命が犠牲になりました。1943年6月、同じく泰緬鉄道で働いていた兄のドンが私の収容所から60キロ離れた他の収容所で亡くなったと聞きました。彼は22歳の誕生日の2日後に栄養失調、マラリア、そして赤痢のために亡くなりました。私にとって非常に酷な知らせでした。彼の埋葬に立ち会うことも叶いませんでした。

鉄道での作業量は状況に応じて落ち込みました。雨季の開始と共に激しい雨が絶え間なく6か月間降り続きました。道は通り抜けが不可能であり、食糧供給は十分なものとはほど遠いものでありました。そしてマラリア、赤痢、コレラ、ペラグラ、脚気、そして恐ろしい痛みを伴う熱帯性潰瘍といった病気が蔓延しました。このような状況下で、多くの者は裸足、靴は朽ち果て、衣服はぼろ切れ同然の状態で働かなければなりませんでした。恐らく我々が身に着けていた唯一の物はフンドシだけでした。

多くの者が熱帯性潰瘍のために足を失いました。適切な麻酔薬なしに切断手術が行われ、衛生状況はひどいものでした。医療品は最低限もしくは一切なく、多くの場合我々は日本兵にお金を払って医療品を得なければなりませんでした。労働するだけの元気があった者の数が減り始め、病気の者も作業へと駆り立てられました。そのため死亡率が劇的に上がり始めました。

我々が日本帝国陸軍の手によって苦しんだこの残虐行為、乏しい配給、適切な医薬品の拒否、瀕死状態の者まで作業部隊として作業へと駆り出されたこと、これらに正当性はありません。我々は皆比較的若かったので、もし妥当な管理がなされていたならば、不本意なことではありますが、より効率的な労働力になっていたでしょう。そうはならず、何千人という多くの者がまるで全く価値の無い者のように、不当に命を捨てられました。

鉄道で兄を失ったことは、日本帝国陸軍、そしてその残虐性とごく普通の人間性の欠如に対する私の見方に今日に至るまでいつも強く影響を与えています。それに加え、私の母は行方不明者として報告された2人の息子の収容状況について日本の当局から何の確認も聞かされず、2人の息子を亡くしたも同然でした。彼女の死は私たちがどこにいるのか、生きているのかもわからない悲しみによってもたらされたものだと私は信じています。

しかしながら、我々が捕虜になってから今はもう70年、少なくとも2世代が経とうとしています。皆様方は非常に異なった文化をお持ちであることに私は気づきました。皆様の政府はこの訪問を可能にしてくださり、我々に寛容さを示して下さいました。ここに感謝いたします。そして、到着した時よりもよりよい変化と共に皆様方の国を離れることができるよう願っています。また、皆様方の国が平和のために尽くされてきたことを称賛いたします。ジャワに上陸した私の大隊の900人のオーストラリア兵のうち、今存命なのは15人だけです。そして彼らはもちろん90歳をとうに過ぎております。

私の体験を話す機会を与えてくださいましたことを感謝申し上げます。ありがとうございました。

エルサ・フランシス・ハットフィールドさん
Mrs. Elsa Francis Hatfield

こんにちは。私は中国の上海で生まれ、幼少期のほとんどをそこで過ごしました。日本軍が中国に侵攻する1937年までヨーロッパ人にとって生活はとてもよいものでした。しかし、上海は日本軍の航空機によって爆撃されました。1941年末期に、イギリス領事館は全てのイギリス国民に対して退去を勧告しました。

母と妹は残り、私は420名を乗せたS.S.Anway?で避難することになりました。船は1941年12月上旬に上海を発ち、1941年12月8日、香港を出た翌日に日本がマラヤに侵攻しました。彼らはその前日に真珠湾を攻撃していました。 私たちの船はフィリピンのマニラに行先を変更し、いかりを降ろしたところで日本軍の航空機に攻撃されました。埠頭につくと旅行鞄一つで下船しましたが、私たちの知らないうちに船は私たちをマニラに置いたままオーストラリアへと出帆していきました。3週間毎日空爆が続いた後、アメリカ軍が静かに去っていたことを知りました。

2日後、ゲストハウスから聖トーマス大学へと移動させられ、そこにいた約4000人の方と合流しました。当時私は18歳のティーンエイジャーで、世の中についてあまり知りませんでした。これから何が起こるのか不安でいっぱいでした。

私たちは大きな机の上で寝なければなりませんでした。30人から35人の女性が一つの教室に集まりました。男性と女性は隔離されて収容されました。私たちに与えられたのは1日2回の食事でしたが、朝食にはゾウムシ入りのおかゆ一杯とココナッツミルク、そして夕飯はシチューのようなものでした。年が経つに連れ、状況は徐々に悪化したので、そのような食事を懐かしく思い返したものでした。

聖トーマスで1年過ごした後、私は他の人々とロス・バノスにある農業大学へと移動させられました。大学の田畑の中に竹とむき出しの地面でできた粗末な宿舎が30棟以上建ち、塀で囲まれていました。それぞれの宿舎には100人が収容され、門限は6時でした。トイレの建物以外は電球はありませんでした。

私たちの健康状態はみるみる悪化しました。多くの者が脚気、赤痢、疥癬、下腿潰瘍に苦しみました。医薬品は利用できなかったため、時折、何時間も痛みを我慢しなくてはいけませんでした。1943年まで、死者は平均で1日に1名でしたが、1945年には死亡率は2倍になりました。食糧を求めて収容所から逃亡した男性は捕まり、即座に撃ち殺されました。食糧と生き延びることが私たち全員の関心の全てになりました。私は日本人に対して非常に激しい敵意を抱きました。私たちの自由を奪っただけでなく、私たちを餓死させる計画が成功つつあったからです。

1945年2月23日の朝、6時の点呼のために宿舎の外に並んでいると、9機の米軍機ダコタの音が聞こえました。そして、130人のパラシュート部隊が発砲しながら降下してきました。私たちは自分たちのベッドの下や塹壕に飛び込みました。そして米海軍の水陸両用トラクターの大集団がバイ湖を横切り、収容所のフェンスを突き倒しました。そしてフィリピン人ゲリラの大群が収容所を急襲しました。数分間の銃撃戦の後、ほとんどの日本軍監視兵が殺されたか逃走しました。

米軍第82空挺師団、そしてアメリカとフィリピンの将校に導かれた地元ゲリラによる襲撃は2107人の民間人と抑留者を救出しました。コニチ(小西?)所長は解放の日は収容所にいませんでした。そのため、彼と地元の駐屯部隊にひどい復讐が加えられました。

1945年2月23日の解放を経、私はオーストラリアに向かい、イギリス軍の存在を意識するようになりました。そして入隊し、1945年9月にインドに赴任しました。我々は4人一組でチームを組み、大きな食堂車を運転し、お茶やサンドウィッチを軍に給仕しました。

そして、ビルマ女性援助部隊(WASB---Women’s Auxiliary Service Burma)の一員として日本に行く機会がやってきました。(参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Women's_Auxiliary_Service_(Burma))これはイギリス連邦占領軍(BCOF)の英国及びインド師団に付属された派遣団です。日本では高知のクィーンズ・オウン・キャメロン・ハイランダーズ連隊に配属されました。

そして将来の夫となる人に会いました。彼は軍の職員でした。私が日本で生活している間、広島に行く機会がありました。そして原爆のすさまじい影響を目の当たりにし、日本の人々も苦しんでいるのだと気づきました。結婚後、私たちは呉の日本家屋に住み、私はとても幸せでした。親切な日本人に出会い仲良くなりました。生活はとても素晴らしく、さらに喜ばしいことに私は妊娠いたしまして、母になることを楽しみにしておりました。私は自然分娩をしましたが、私たち夫婦にとって残念なことに私たちの小さな男の赤ちゃんは10時間しか生きることができませんでした。彼は私たちの唯一の息子でした。彼は横浜に埋葬されました。今回、初めて息子の墓参りをする機会と、遠い昔にこの美しい国で過ごした楽しい記憶を思い返す素敵な機会を日本政府が与えて下さったことを大変感謝しております。私が日本に派遣されなければ、64年以上も結婚生活を共にしている素晴らしい夫に出会うこともなかったでしょう。

これらは全て遠い遠い昔の話です。私には後悔はありません。今私は年老いまして、日本人に対して敵意は抱いておりません。皆様の国が将来にわたり平和と幸せでありますように。そして、一言付け加えたいと思いますが、とても素晴らしい東京や横浜を皆さんは築いてきました。これは私たちが皆様方から学ぶべきことであります。それでは、皆様のお幸せをお祈り申し上げます。

コリン・ニール・ベグリーさん
Mr. Colin Neil Begley

避けられないことではありますが、私の話は皆様が私の仲間から聞いた話とはだいぶ異なった話になります。なぜならば真珠湾が攻撃された1941年12月8日の運命の日、地球の反対側では12月7日でありましたが、その日は私がいた中国北部の天津は月曜日でした。私は英語の名前で育ったものですから、英語の都市名を使うのをお許しください。

私は天津グラマースクールに通っていました。私は9歳で、私の両親は当時香港に住んでいました。姉、兄と私は寄宿舎で暮らしていました。その朝、学校へ行く途中、日本兵が学校の外で監視をしており、私を中に入れてくれませんでした。もちろん私は知らなかったのですが、第二次世界大戦、つまり第二次世界大戦の太平洋戦線が開戦されており、私は間接的に巻き込まれたのです。日本軍は学校を日本兵の宿舎に使うために没収したかったのでした。そのため、彼は私たち全員に家に帰るようにと告げました。

残念ながら私の両親は香港にいましたので、私たち兄弟にとって両親のいる香港へ行くことは不可能でした。幸運なことに、北京にいる我々の友人が私たちを引き受けてくれることになりましたので、日本軍は私たちを移送し、と言いますか天津まで貨物列車で連れて行き、そして北京に移動しました。そこで私たちは自宅監禁にあいました。自宅監禁がどのようなものであったのか、詳しくは述べませんが、赤十字社が我々のことを聞きつけました。日本には赤十字社がありますか?皆さんは赤十字社をご存じですか?

赤十字社が、私の両親を収容されている香港のスタンリー刑務所から解放し、上海に連れてくるよう日本当局へ陳情しました。同時に、私の両親は赤十字社を通して、私たちと再会するために私たちを北京から上海に一緒に連れて来るように、あるスイス国籍の方に陳情していました。

その旅は丁寧な言葉で言うならばとても「興味深い」ものではありましたが、1942年の暮れのクリスマスの直前に我々は上海に着き、両親と再会したと申すだけで十分でしょう。

私たちの両親は私たちが死んでいると思っていました。なぜならば、彼らは私たちをオーストラリアに送るため、天津から香港に向かうある特定の船に乗るようにと私たちに電報を送っていたのですが、その船は爆撃され、沈められ、生存者は誰もいなかったのです。そしてもちろん、彼らは私たちがその船に乗っていたと思い込んでいたのです。しかし、我々はその電報を受け取っていませんでした。

この時点で上海の全ての収容所は満杯であり、そのため私たちは上海から揚州に送られました。つまり、上海の埠頭で船に乗せられ、川を下り、長江を遡上していったのです。そしてそこで船から荷船に乗り換え大運河を揚州まで遡上しました。

揚州の収容所には650人いまして、4家族が5メートル四方の一つの部屋を共有しました。我々16人がその部屋で寝なくてはいけませんでしたので、あまり広い部屋ではありませんでした。収容所の話はあまり詳しくはお話ししません。

信じがたいことに、約3か月ごとに収容所の監視兵が交替しました。彼らのうち私たちを本当にひどく扱った者もいれば、非常に優しく親切な人もいました。ですので、嫌な監視団の時は、早く交替してくれと願い、いい監視団の時はお願いだから交替しないでくれ、と思っていました。私たちは毎朝、日本兵の前を行進しなくてはいけませんでしたが、何時に日本兵がやってくるか、いつ監視兵が視察にやってくるかによりました。40度を超す暑い日の場合、私たちは朝の6時から彼らが到着する昼下がりまで立っているかもしれませんし、雪が降り地上に2、3メートル積もっている時は数時間も取り残されました。

食糧配給もとても限られたものでした。我々が得たのは一日一人米一杯、小さいカブ一つ、煮た菊の葉だけでした。流水は無く、一人につきバケツ1杯半の水を配給されましたが、洗い水専用で、飲むことはできませんでした。そして1日につき一人同量の水を飲み水として配給されました。

収容所には医薬品はありませんでした。私は大変ひどいマラリアにかかりました。隔週の金曜日の午後、2時から2時15分の間に必ずマラリアにかかったものでした。時計を合わせていたかのようでした。マラリアは戦争が終わっても約10年間続きました。

しかし、ある日終戦の日が来ましたが、誰も我々に教えてくれませんでした。収容所の壁伝いに兵士が歩いてきて、私たちがいた収容所は揚州市のちょうど角にあったのですが、兵士が市の壁伝いに歩いてきて、私たちに大声で呼びかけました。それは中国兵でしたが、「そこで一体何をしているんだい?」と。私たち子どもが「僕たちは捕虜なんだよ」と言いますと、彼は戦争は2週間も前に終わったと言いました。私たちは「誰も教えてくれなかったよ」と言うと、彼は持っていた新聞を丸めて石に括り付け、壁の向こうから私たちに投げてくれました。私の父は中国語が読めましたので、私はそれを父に持っていくと、父はそれを読んで、収容所の代表者の所に持っていきました。2人の代表者は収容所の所長に戦争は終わったと告げにいきました。所長は「そんなこと私は知らなかった」と言いました。

とにかく、話を短くしますと、その2,3週間後にアメリカ兵が数人やってきましたので、私たちは解放されるのかと思ったのですが、解放されませんでした。何故なら彼らは武器を日本軍に引き渡し、我々と同じように捕虜になったのです。そしてその後イギリス兵がやってきて、下品な言葉を使って申し訳ないのですが「畜生!一体全体ここでは何が起こっているんだ」と言いました。彼はその後日本軍の監視兵の武装解除をし、アメリカ兵に武器を返し、我々のための食糧をパラシュートで落とす飛行機を手配しました。そして、上海へ我々が戻るように手配をしました。それらには2,3週間かかりましたが、その後船に乗り、上海から香港へ行きました。

そして我々は香港に着きましたが、香港からオーストラリアに戻ることができませんでした。なぜならば、香港からイギリスに行く船ばかりで、オーストラリアに行く船がなかったのです。ですので、私たちは香港で立ち往生し、香港を離れることができませんでした。ある日、父がオーストラリア空軍の方と話をしている際、我々の状況について話すと、その方は「あなたとご家族をオーストラリアに連れていくための空軍の飛行機を私が手配しますよ」と言ってくれたのです。

では、時計を約40年早送りしましょう。私たちはソロモン諸島にいました。私はそこでコンピューター産業に従事していました。ソロモン諸島の政府のためにコンピューター装置の準備を担っていました。そこにオーストラリアから会計士が来て、私にコンピューターについて聞いてきました。そして、彼は「あなたは今まで中国にいたことはありますか?」と言うものですから、私は「はい」と答えました。すると彼は「戦後香港にいましたか?」と聞き、私は「はい」と言いますと、彼は「私があなたのオーストラリアへの帰国便を手配した空軍の将校です」と言いました。ありがとうございました。

スーザン・アラードさん

(ウィリアム・H・シュミット氏の娘)

ありがとうございます。私の父はチャンギの捕虜で、ここで捕虜生活を終えました。私は戦後に生まれました。父が帰国して約16か月後に私が生まれましたので、戦争に関しての記憶は全くございません。

私はとても幸せな幼少期を過ごし、素晴らしいな父と母に恵まれました。私たちは裕福ではありませんでしたが、愛に満ちていました。それが私が覚えていることです。しかし、始めの数年間、短期間だったと思うのですが、父が悪夢にうなされ母をヘッドロックするのを母は耐えなくてはいけなかった、と母が言っていたことを覚えています。彼女がそのことについて話していたのは数回のことです。

時は過ぎ、母が「シンガポールに行きたい」とある日言いました。すると父は、汚い表現で申し訳ないのですが、「一体全体なんのために行きたいんだ! 私は3年間もあの地獄の収容所で過ごしたんだ」と言いました。それは1991年の出来事でした。

1991年、父はオーストラリア政府と共に、シンガポール陥落50周年にシンガポールへ送る大派遣団を組織しました。母の願いがようやく叶ったのです。その時から父のシンガポールへの熱愛が始まりました。母は2001年に亡くなりましたが、その半年後には、「さぁ、シンガポール陥落60周年に合わせてシンガポールに行くぞ」と言い、弟、妹、父そして私はとても素晴らしい時間を過ごすことができました。

弟と私は幸運なことに、チャンギ刑務所でパスポートを預け、身の回りの物を全て会議室に残し、チャンギ刑務所の中に入ることができました。私は父が3年半過ごした場所を目の当たりにしました。セメントで作られた監房の真ん中に、捕虜が座るために高くなっているセメントのブロックがあり、(その上で寝たため)彼らの肩はタコだらけになってしまいました。しかしながら、刑務所から出ました。父や他の捕虜の方々はチャンギ村と言うところで待っていましたが、歩いて父に近づくと、涙が溢れ、ありがとう、というので精いっぱいでした。その経験によって私はとても謙虚になりました。二度と忘れない経験です。

2007年、「さぁ、またシンガポールへ行くぞ。今回は旦那さんや奥さんも連れてきなさい」。ということで、私たちはまたシンガポールへ行き、さらに今から約一年前にも「またシンガポールに是非戻りたい」 ということで彼はシンガポールへ行ってきました。どうもありがとうございました。私たちをご招待いただきありがとうございました。

ヴァレリー・ジーン・ハムリーさん

(コリン・ハムリー氏の妻)

皆さんありがとうございます。私たちが今聞いたように、戦争はとても悲劇的で悲しい出来事です。私も実は2人の従兄弟をなくしました。2人はニューギニアにおりまして、一人は殺されました。私が思うに、彼はジャングルで部隊を率いており、日本軍の狙撃兵に撃たれたのだと思います。もう一人の従兄弟は発疹チフスで亡くなりました。彼はまだ20歳でしたのでとても残念でした。コリンが生き延びたことはとても嬉しいことです。彼の体験は悲しいものですが、彼は決して哀れな人ではありません。

コリンが生き延びたことを本当にうれしく思います。なぜならば、私たちは60年以上幸せな時を共に過ごしているからです。私たちは州電気委員会(SEC)で働いていた時に出会いました。そして1952年10月11日に結婚しまして、我々が日本に滞在中の来週の木曜日が結婚60周年記念になります。

コリンは戦争のことについてあまり語りませんでした。私もそのことについては触れませんでした。自分たちに起きたことなど誰も聞きたくないだろうと彼が言っていたからです。忘れようとしていたのかもしれません。彼が戦争について語り始めたのはつい最近のことです。私たちには3人の息子、3人のかわいい義理の娘、そして7人の素晴らしい孫がおります。

コリンはとても健康に努めてきました。息子たちが小さい頃は、彼はスカウトのリーダーで、よくハイキングに行きました。また、休みの日には運動グループに入って山をハイキングしに行きました。私たちは今でも散歩をしますが、かつてはランニングをしていました。コリンはマラソンに6回出場し、とてもいい成績を修めました。私たちは今でもボウリングをしたり、ローン・ボウリングですけれども、ボウリング・クラブの人が、重要な選手がいなくなっては困るので、日本には行かないでくれと言ったぐらいです。とにかく、いい人生を送ってきました。コリンの体験は残念ですが、彼は悲しんでいません。彼は絶対忘れないでしょうし、許しもしないでしょう。でも信じてください、彼は素晴らしい人です。ありがとうございました。

ジューン・パトリシア・マーティンさん

(エルサ・フランシス・ハットフィールドさんの妹)

こんにちは。私はエルサの妹です。エルサがマニラに抑留された時、私たちは彼女に何が起こったのかわかりませんでした。しかし、数か月後、母、弟、私は上海に抑留され、状況はとても厳しくなりました。母は姉のことを心配し、弟はいつも逃げようとしていたので、母はそれらのことでとても苦しんでいました。子どもとして私は少し恵まれない状況にあったと思います。私は教育を受けることができませんでした。3年半、学校に通えなかったのです。そして学校に一緒に通った友人のほとんどとは、その後一度も会っていません。収容所でのほとんどの時間、私はいつも日本兵に怯えていました。彼らはとても荒々しく見えましたし、銃剣を持っていたのです。遠くからでも彼らが歩いてくる音が聞こえました。監視兵のほとんどは、何人かはとてもいい人もいましたが、一番最悪だったのは韓国警察の人たちでした。彼らはひどかったですが、たった6か月だけでした。

戦争も終わりに近づいてくると、沢山のちらしが落とされたのを覚えています。そして爆撃が続き、ある日、シェンノート少将と彼のフライング・タイガース(註)が私たちを救出にやってきました。フライング・タイガースのメンバーの一人であり、グループのリーダーであったピーター・チェン大尉がやってきて、戦争は終わりだ、君たちはもう帰ることができる、と言ったものの、誰も信じませんでした。(註:日中戦争時に中国国民党軍を支援したアメリカ合衆国義勇軍の愛称だが、実質は義勇軍の名を借りた米国の対日戦闘部隊)

戦後、姉を見つけるのに時間がかかりました。しかしある日、姉が車に乗り、ドライブウェイを上って帰ってきたのを覚えています。私が母に向かって叫ぶと、皆が走って出てきました。それがあなたが戻ってきた時よ。それはとても素晴らしい瞬間でした。私たちの弟は若くして亡くなりました。彼が60歳の時でした。

皆様に感謝申し上げたいと思います。私たちはとても素晴らしい時間を過ごしています。皆様とても親切でお手伝いくださっています。

べリンダ・エイプリル・ベグリーさん

(コリン・ニール・ベグリー氏の妻)

皆様もうお察しの通り、私の夫はとても楽観的な人です。彼はとても立ち直りが早いとも言えます。彼は彼を妨げるものを許しません。そして彼の人生の哲学は、与えられた機会は全て掴まなくてはいけないし、そしてそれを果たすためについていかなくてはいけない、ということです。彼の幼少期の回復力が、こういった彼の特徴を作り上げたのかはわかりませんが、もしそうだとしたならば、戦争が彼にもたらした唯一の良かった点ではないでしょうか。

残念ながら収容生活はいくつかの悪影響を彼にもたらしました。一つは身体的健康です。9歳から13歳まで彼は栄養失調と非常に深刻なマラリアに苦しみました。そして、それは彼の人生に渡って継続的な内科的疾患を引き起こしました。しかし、彼はそれらを挫折と捉えていません。

もう一つの悪影響は教育に関してです。恐らく彼が一番後悔していることだと思います。彼が囚われの身である時、収容所そしてそれ以前から彼の教育はとても断片的であり、戦争が終わった時に彼は13歳でしたが、約4年間正式な教育を受けていない状況にありました。

彼がオーストラリアに戻った時、オーストラリアの教育システムは彼の状況に対応することができませんでした。彼は13歳でしたが、彼らは彼の教育レベルは恐らく5歳レベルであろうと考えました。そして彼の実際の年よりも何歳も年下のクラスに彼を入れたのです。彼はそれを激しく嫌がり、その結果、16歳になるとできるだけ早く学校を去りました。

しかし、彼はいつも教育に価値を置いていました。息子に教育をできる限り追い求めるよう励ましました。そして、息子の功績を非常に光栄に思っています。息子は現在、白血病の分野で国際的に認められた著名な研究科学者です。70歳になってハッピーエンディングが待っていました。ニールは大学教育に進む機会に恵まれまして、オーストラリアの大学に進み文学士を取得しました。全ての科目で優等生になり、クィーンズランド州で首席卒業生になりました。オーストラリア全体では7番目にトップの卒業生でした。

ニールがこの友好の旅のメンバーに選ばれた時、日本滞在中に特にしたいことは何か聞かれました。彼は広島に行き、終戦時に彼と同じく子供であった日本の人々に会いたいと申しました。そうすれば、お互いに話し、尊敬を抱くことができると思ったからです。日本政府はご親切にもそのような手配をしてくださり、その確認の連絡が来た頃、禎子の話について聞きました。原爆が落とされた時に2歳で、その後白血病を発症した広島の小さな少女のことです。彼女は折鶴を千羽折れば彼女の願いが叶う、回復すると聞かされます。しかし、残念ながら千羽鶴が完成する前に彼女は亡くなりました。彼女の学校の友人たちは世界平和を願い折鶴を折り続け、千羽鶴を完成させます。ニールはこの話をオーストラリアの子供たちにも伝えたいと思い、ブリズベンの多くの学校を訪れ、この話を伝え、鶴の折り方を教えました。私たちが広島へ持っていき、原爆の子の像に捧げるため、ブリズベンの子供たちは1000羽以上の折鶴を作りました。

ニールと私はこうして日本に来る機会を与えていただいたことを二人ともとても感謝しています。元捕虜との友好を促進しようと決断していただいた日本政府を称賛したいと思います。ありがとうございます。

(佐久間美羊 訳)

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