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太平洋戦争と横浜の外国人 —敵産管理と敵国人抑留—

太平洋戦争と横浜の外国人 —敵産管理と敵国人抑留—

小宮 まゆみ

要旨

国際貿易港横浜を抱える神奈川県には、戦前から多くの外国人が住みついていた。しかし太平洋戦争開戦が迫る1941年7月、日本政府は通称「資産凍結令」を公布し、英米人の財産処分、事業の収益取得、通貨の受託、貸付金の回収、預け金の引き出し等をすべて禁止した。収入の道を閉ざされた英米系企業は撤退し、多くの外国人が引揚げて行った。しかしそれでも300人程度の英米系外国人は、日米開戦時の横浜に残留していた。彼らは戦争中「敵国人」の烙印を押され、苦難の生活を強いられることになる。

まず開戦と同時に、18歳以上の男子は全国一斉に「敵国人抑留所」へ抑留された。神奈川県では横浜市中区根岸の競馬場と新山下町の横浜ヨットクラブが抑留所となり、英米人だけでなくオランダ人やギリシア人も含む計93名が抑留された。

開戦後の12月22日「敵産管理法」が制定施行され、外国人の動産、不動産などの財産は売却され、最終的に横浜正金銀行の「特殊財産管理勘定」という特別な口座に入れられた。1ヶ月500円までの通貨の使用と、1ヶ月1000円までの預金引き出しは許されたが、収入の道を閉ざされた上での財産封鎖は、抑留対象になっていない外国人の生活をも不安に陥れた。

1942年9月敵国人抑留の対象が拡大され、それまで抑留されていなかった女性と高齢者のうち、教師・宣教師・修道女・保母が抑留されることになった。そのため横浜のミッションスクールに残留していた、女性宣教師や修道女は全員抑留された。彼女たちはやがて横浜から東京の抑留所に移され、また男子の抑留者は1943年6月横浜から北足柄村内山に移された。

1943年12月、横浜の外国人にさらに抑留拡大が行われた。自宅に残っていた無職の老人や、家庭婦人、子どもまでが、厚木市七沢の温泉旅館に移され、監視を受ける集団生活を送ることになったのである。

戦争末期には食糧不足などから、抑留生活は更に厳しいものとなった。男子を抑留した内山の抑留所では、49名中5名の抑留者が亡くなった。女性や高齢者を抑留した七沢の抑留所は、1945年5月に秋田県雄物川町へと移転させられたが、32名中6名が亡くなった。

横浜の外国人には幕末の開港以来横浜に根を張った貿易商や、地域の教育に尽くした宣教師が多かった。身近な隣人であり恩人でもあった外国人の、戦時下の苦難について、史料と聞き取り調査に基づき丁寧に検証した論文である。

なおこの論文は、山川出版社より2007年に刊行された『神奈川の歴史をよむ』に掲載されたものである。

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