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元捕虜たちの証言集

リチャード・ブレイスウェイト氏
語り継ぐ証言:父は「サンダカン死の行進」を生き抜いた

日時:2014年10月22日
場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス

はじめに

「元捕虜・家族と交流する会」主催で豪元捕虜の皆さんの話を聞いたあと、参加者の有志で元捕虜のユーウィンさんに同行して来日したリチャード・ブレイスウェイトさんの話を2時間近くじっくり伺いました。彼の父親ディック・ブレイスウェイト氏は「サンダカン死の行進」の途中で脱走し、かろうじて生き延びた6人のうちの1人です。息子のリチャードさんは、父が母に語った話を、母から仔細に聞きだすとともに、様々な資料を丹念に調べ、この事件の全容をつかもうと努めてきました。

「サンダカン死の行進」はオーストラリアの戦争史において、最大の残虐事件であると言われています。サンダカン捕虜収容所と死の行進での捕虜の死亡率は99.75%で、2400人のうち生存できたのは、脱走に成功した、わずか6人でした。この過酷な事実が日本ではほとんど知らされないまま、戦後70年が過ぎようとしています。この知られざる「サンダカン死の行進」の話を、今回、生存者の息子さんから直接伺えたのは、大変貴重な機会でした。

話は対話形式をとりましたが、POW研究会のホーム・ページに掲載するにあたっては、英文は話のままですが、日本語訳では、読みやすくするために、話の内容を損なわないようにしながら、形式を多少変えて編集しました。さらに理解を深めるために若干の脚注を加えました。

ブレイスウェイトさんの話が、「サンダカン死の行進」を知る上で少しでもお役に立てれば幸いです。またブレイスウェイトさんには貴重な時間を割いてお話しいただき、感謝いたします。

2015年5月 POW研究会 有志翻訳・編集者一同

入隊、そしてシンガポールへ

私の父はブリズベーンで育ちました。そしてニューサウスウェールズ州のニューキャッスルに住んでいた時に他の多くのオーストラリア人と同じように砲兵隊に入隊しました。オーストラリアは第一次世界大戦のあと非常に疲弊した状態に陥ったので、誰も第二次世界大戦には乗り気ではありませんでした。親戚が戦死したという人もたくさんいました。

そうした状況の中で、ヨーロッパ戦線は拡大していき、多くのオーストラリア人にとっては「イタリアが枢軸国に加わるようなことになったら、軍隊に入るよ」というように何か動機を待っていました。私の父にとってもまさにそれがきっかけで、1940年7月に入隊しました。そして結局彼が入隊した砲兵隊は開戦前の1941年8月にシンガポールに送られました。

オーストラリア陸軍第8師団はマレー半島南部に駐留していたので、初めの頃の北部の戦闘には参加せずにすみました。ご存知と思いますが、日本帝国陸軍第25軍がマレー半島を南下して来たので、父たちは日本軍と交戦し始めて1か月ほどで、撤退を余儀なくされました。それからはただただ撤退を続けました。日本軍は中国の戦闘で鍛えられていて本当に強力な軍隊でした。

一方、連合軍側は実のところ訓練中の軍隊でした。英軍はインドから回されてきた軍隊で本当にお粗末な訓練しか受けていませんでした。彼らはマレー半島に着いてから訓練を受ける予定だったので軍隊としては欠陥だらけでした。英軍はあまり多くの戦闘機を送りこんで来ませんでした。だからシンガポールを含むマレー半島は日本軍の進攻を許し陥落して、父たちは捕虜となりました。

サンダカン捕虜収容所と台湾人監視員

捕虜となり、日本軍の軍事目的の工事に加担することは最悪の事態でした。その中でも大規模なものに勿論泰緬鉄道があったわけです。そのためにタイ側やビルマ側に捕虜たちの一団を移送し始めました。そしてボルネオにはオーストラリア軍捕虜の2つのグループ、英軍捕虜のひとつのクループが移送されました。これは実のところ日本の航空隊が蘭印*1 と日本との間やその他の基地に軍用機を移動させる時の中継基地となるような飛行場をボルネオ島北部のサンダカンに作るためでした。ですから日本軍は滑走路が2本ある相当大きな飛行場を作りたかったわけです。

最初捕虜収容所の監視員はすべて兵士でした。日本軍はニューギニアの軍をボルネオに移動させて捕虜収容所の監視にあたらせました。それで、戦闘で疲弊した部隊を交代で少し休ませることができたのです。しかしこのような体制はほんの数か月しか続きませんでした。日本軍は米軍の潜水艦の攻撃によって膨大な数の輸送船を失ったからです。このような体制を続けられなくなったので、監視員を募集するようになります。ボルネオの場合は台湾から募集しました。*2 それが志願兵であるかどうかは別の問題として、善良な者ばかりではありませんでした。中には軽犯罪を犯したような乱暴者もいて、最下級の仕事である捕虜の監視の任務に就かされるということもありました。

英語でフォルモサ*3 と呼ばれていた台湾は当時は日本の植民地でした。捕虜監視員というのは軍隊で最も低い階級で、一等兵以上に昇進することはなかったと思います。将校や下士官がすべて日本人だったので、このような台湾人監視員の扱いも酷いものでした。従って台湾人監視員はそのうっ憤を捕虜たちに向けたのです。彼らは志願兵だったとは思いますが、植民地ですから、強制に近いと言っていいでしょう。台湾の若者たちはほとんどキャリアを積むということができなかった状況の中でこういう形で日本軍に入ることはある意味では出世の道だったのでしょう。90年代に制作されたとてもよくできたドキュメンタリーの中でユキ・タナカ*4 が、彼らの何人かにインタビューしていました。

過酷な作業と地下活動の始まり

 捕虜収容所は主に現地の住民によって建てられました。サンダカンの町から、およそ19キロ西に位置していました。もともとはそこからさらに3~4キロ北西にあった飛行場に向けて道路をつくろうとしていました。ですからまず最初の仕事は草木を伐採するのが普通ですが、実際はそうはしませんでした。ボルネオ島には平地はほとんどなく、滑走路を作るためには、少しでも平らな場所があるとその土地の両端まで土をいれて平らにしなければなりません。それで膨大な量の土を運ばなければならなかったのです。その仕事はすべて手作業で実行されました。線路があって土を運ぶじょうご型の貨車もありましたが、すべての作業は酷暑の中でつるはしとシャベルでやらされました。

捕虜収容所の所長は後に大尉になりますが、星島進中尉でした。彼は港湾技師でしたから、作業の管理者としては有能で、現場の状況を把握していたと思います。彼はかなり背が高く、183センチほどもありました。最初工事は順調に進み、労働条件もそれほど悪くはなかったのです。それから1943年に入って(捕虜たちによる)地下活動が進行してゆくのです。

この地下活動が事態をかなり違った方向へと向けることになったのです。地下活動というのはジェームス・テイラーという名前のオーストラリア人の医師が始めたのですが、彼は脱走者ではなく、地元の住民たちを対象に自宅で診療行為を続けることを許されていました。そしてその彼が食料と医薬品を密かに捕虜たちに差し入れ始めたのです。

収容所は2種類ありました。ひとつはイギリス人の民間人抑留所で、植民地を支配していたイギリス人はサンダカン沖のバハラ島*5 の民間人抑留所に収容されました。それから豪軍第8師団の捕虜収容所です。多くのオーストラリア人はイギリスの植民地体制の一部でしたが、テイラー医師は捕虜ではなく地元で働く民間人でした。

彼は直接捕虜と接触はできませんでしたが、仲介者を通して活動していました。彼は地元のコミュニティでとても好かれていることを良く知っていました。そして、日本軍が占領した時には地元にすでにある住民の管理体制を一定程度そのまま採用することも知っていました。地元民の一部は日本人に忠実であり、また別の一団は様々な理由でイギリス人に忠実でした。

*1【訳者注】蘭印とはオランダが宗主国として支配したほぼ今日のインドネシアに当たる植民地国家「蘭領東印度」の略称で、英語ではDutch East Indiesと呼ばれていた。オランダのこの地域の支配は16世紀にはじまり、20世紀初頭には全域を掌握、オランダ国軍とは別の6万5000人を擁する蘭印軍もあった。1942年の日本軍進攻により300年に及ぶオランダの支配は終了し、インドネシア成立に向けての独立戦争の始まりともなった。 ▲本文へ戻る

*2【訳者注】台湾が日本の植民地だった時代に「皇民奉公会」(日本の大政翼賛会の台湾版)が1941年に結成され、捕虜監視員の募集の窓口となった。 ▲本文へ戻る

*3【訳者注】フォルモサ(Formosa)はポルトガル語で“美しい”という意味。1542年、ポルトガルの船乗りが海から台湾を見て”Ilha Formosa” (美しい島)と言ったのがヨーロッパに広まった。 ▲本文へ戻る

*4【訳者注】田中利幸元広島市立大学教授。オーストラリア国立大学の特別研究員時代に出した「知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか」(大月書店 1993年)英書Hidden Horrors(Westview Press 1996)は、日本軍のオーストラリア人に対する残虐行為を戦後半世紀という時点で世に知らしめることとなった。 ▲本文へ戻る

*5【訳者注】バハラ島(Berhala Island)第二次大戦前、ボルネオがイギリス統治下だった時代、バハラ島は主に中国、フィリピンからの移住労働者の検疫所として使われた。その反対側にはハンセン病患者が隔離されていた。その後検疫所として使われていた建物が日本軍の民間人抑留所となった。民間人がクチンに移送された後、1945年3月、シンガポールから移送された豪捕虜たちがサンダカン捕虜収容所に移送される6月までの3か月間、ここに仮収容された。 ▲本文へ戻る

捕虜収容所地下活動のリーダー:ライオネル・マシューズ大尉

警察は特にイギリス人に忠実でした。バハラ島の民間人抑留所に抑留されている地元の元警察署長のライス・オックスレイは地元の警官たちに捕虜収容所内に展開している地下活動のリーダーであるライオネル・マシューズという男の指示に従うように命令したのです。かくして、ライス・オックスレイはかつての部下をオーストラリア軍将校の配下に置くような体制を作りました。これで事態が進展する準備ができたのです。

テイラーはオーストラリア人でしたが、イギリスの植民地軍のために働いていました。大英帝国のために働くオーストラリア人は沢山いました。それは若者にとってはわくわくする冒険でした。最初は食料や医薬品を密かに送り込む仕事でしたが、やがて商売に発展してゆきました。つまりある捕虜が「もういらなくなった軍服のコートがあるから売りたい」と言って、仲介者に頼むと現地の住民に売ってお金に変え、それで食料を調達するということができるようになったのです。このような物々交換が地下活動の一部となりました。ライオネル・マシューズは非常に勇気ある兵士でした。彼はマレーでの戦いで後に勲章を授かりました。彼は捕虜の身分にあまんじるような男ではありませんでした。ライオネル・マシューズのような人間は収容所にじっとしていることには我慢できず普通脱走するか、あるいは戦いの早い段階で戦死するんですが、彼はこの収容所を反乱の場にすることを選んだのです。

密かに食料を持ち込んだり、医薬品を持ち込んだりということは重要なことで、捕虜収容所なら大体どこでもある程度はあったことです。他にはラジオを組み立てる部品を密かに持ち込むということもありました。とんでもないものから工夫して何かを作ってしまう技術を持っている人間がいるものなんです。例えば試験管から電球を作ってしまうといったことです。そんなわけで彼らはラジオを作りました。そしてこれも世界のニュースを知るという意味で非常に価値あるものだったのです。インドの英語ニュースにチューニングして主にヨーロッパ戦線の状況を知ることができます。太平洋戦線についてのニュースは、長時間かけてもほとんど聞けませんが、それでも捕虜たちの士気を保つためには効果がありました。

このようなラジオは勿論隠していました。それはどこの収容所でもあったことでしょう。それからが全く新な段階へと発展してゆきました。というのは彼らは武器をため込み始めたのです。最終的にはライフル100丁、機関銃3丁、弾薬も大量にため込みました。それらは全て収容所の外に隠して暴動に備えていたのです。かれらはまた送信機も作りました。暴動を起こす準備が整った時、助けを呼ぶこともできます。連合軍に連絡して補給を要請したり、空から投下して貰うこともできます。クレージーと思われるかも知れませんが、本当に起ったことなのです。

普通と違うことが2点あります。ラジオから得られた情報は、収容所の近くや、収容所の中で働いている人、警官たちによって民間人抑留所や周囲の村社会などに広がっていったのです。その結果その附近のコミュニティは支配者の日本人たちよりよほど詳しく世界の戦況について知っているというわけです。それはこの地下活動が無事機能していた間のことです。こうした情報がそこら中に出回っていたので、日本人たちは勿論ラジオの存在を知っていましたが、実際どこにあるのかということについては知りませんでした。はじめ彼らはラジオは収容所の外にあってニュースが収容所の中に伝わってくるのだと考えていました。彼らは随分長い間、何が起っているのかはっきりとはわからないまま、用心深く事態を把握する努力を続けて、あちこちとかぎまわっていました。しかし、この拡大する一方の地下活動の一部をなす現地人たちが脱走の手助けをするようになって、日本軍としては我慢の限界に達しました。

脱走事件と憲兵隊の大攻勢

 その後、8人が脱走するという大事件が起きます。それまでも脱走はありましたが、手伝った現地人はお金で買収されると脱走者を裏切りました。ですから全ての場合、数か月すればお金で現地人を買収して彼らを再度捕獲できました。初め彼らは罰を与えられ、この罰が段々厳しいものになっていきました。しかし地下組織が脱走を成功させ、とうとうこのオーストラリア兵士8人は船でフィリピンに渡りゲリラに加わり、日本軍と交戦するに至って、深刻な事態と認識されるようになります。

そして、ついに1943年7月、憲兵隊が収容所の内外合わせて200人余りを逮捕しました。私の父のようなタイプの多くはいずれにしろ関係していませんでした。彼の場合ラジオがあるらしいことや、地下組織があることは知っていましたが、それらには関わっていませんでした。父はいつもうつむき加減におとなしくしていてトラブルには近づかないようなタイプでしたし、他の捕虜のほとんどがそのように振舞っていました。生き残るには行いを慎むことが最良の方法だと考えていたのです。

そして、7月以降取り調べが進んで、勿論拷問によって、あらゆる情報が浮上して明らかになり、関係者もどんどん増えました。例えばラス*6 ですが、お聞きになっている通り、幸いにも彼は裏切られずに済みました。多くの人々が自分は拷問されても口を割らなかったと言っているのを知っていますが、恐らく本当に拷問に屈しなかったのはライオネル・マッシューズだけでしょう。彼は本当に強い男でした。日本軍の菅辰治中佐*7は「あいつほど勇敢な男に会ったことがない。最後まで口を割らせることができなかった」と言ったそうです。そしてこの事件の罰として、6人ほどを除いて全ての将校がクチン捕虜収容所に送られました。従って約150人の将校が収容所から移送され、ニ等兵、一等兵、伍長などの下級兵士だけがサンダカン捕虜収容所に留めおかれました。

将校が居なくなり、収容所全体がさらに過酷な場所となり、状況はすっかり変わってしまいました。オーストラリア兵とイギリス兵は別々にされました。それにイギリス人はオーストラリア人よりずっとおとなしくしていたので、もっとましな扱いを受けました。オーストラリア兵の扱いは非常に厳しくなってしまいました。食料は減らされ、星島は捕虜たちを何とか働くことはできても、自分に歯向かうほどの体力を保てないようにしました。

*6【訳者注】ラスはラッセルの愛称。ラッセル・ユーウィン(Russell Ewin)ブレイスウェイト氏自身が付き添ってこの時(2014年10月)来日した元オーストラリア捕虜。サンダカン捕虜収容所のあとクチン捕虜収容所に送られた。 ▲本文へ戻る

*7【訳者注】菅 辰次中佐 1942年6月から終戦までボルネオ捕虜収容所の総指揮官。ワシントン大学で英語を学ぶ。クリスチャンであった兄の影響を受けた。収容所ではよく女子収容所の教会に行き、後ろの席で礼拝していた、と言う証言もある。1945年9月16日ラブアン島で豪州軍事裁判にかけられる5日前に自殺。59歳。 ▲本文へ戻る

死の行進の始まり

状況は大変厳しくなりましたが、彼らはまだ生存していました。それほど多くの人々が死んだわけではありません。皆、かなりタフになっていました。しかしアメリカ軍がフィリピン南部を攻略し、フィリピンに空軍基地を建設し、ボルネオを戦闘機と爆撃機の両方で空襲し始めると、様相は再び変りました。米軍は1944年10月からサンダカンを攻撃し、もっぱらサンダカンの飛行場を爆撃して使い物にならなくしました。そして捕虜たちは飛行場の滑走路の修復作業に駆り出され、大勢の捕虜が空襲のため死にました。それから、1月になると日本軍は捕虜への食料支給を止めました。しかし捕虜たちは非常用として貯めることを許されていた、わずかばかりの米をいくらかは蓄えていました。でも捕虜たちは非常に急速な割合で死んで行きました。

最初の死の行進が行なわれたのは1月の終わりです。ある程度体力のある、捕虜たち約450名がラナウへ向かって行進させられました。私はこの話の細かいところは大幅に省略していますが、この最初のグループには、日本軍の一個大隊が同行しました。つまりほとんど捕虜一人に対し監視兵一人が同行したわけです。そのため彼らは非常に厳しく監視されていました。しかし基本的には、それは純粋に捕虜をボルネオのある場所から別な場所へと移動させる企てでした。戦略上の命令は、サイゴン*8 に置かれた南方軍総司部の寺内寿一陸軍大将から出されたものでした。寺内はボルネオの日本軍のほとんどを、ボルネオ東部から西部へと移動させる、という命令を出したのです。それで田中利幸氏が言うように、また彼が本にも書いたように、大変な数の日本兵が命令に従って移動し、そのうち約9500名もが行軍中に死にました。ただ島の片側から反対側へ移動するというだけのためにです。そして日本の民間人約500名も同様に移動させられました。私はある日本人の秘書の日記を見つけましたが、彼女はボルネオのジャングルをサンダル履きで歩き始めたのです。

移動は島の北部のサンダカンから内陸を横切って、さらに少し西に行ったラナウまでです。その距離は途轍もなく遠いわけではありませんが、*9 うっそうとしたジャングルの荒れ地でした。最初の行進は、そこで動けなくなった捕虜たちが撃ち殺されるという事態となってしまいました。しかしそこにはまだ少しばかりの尊厳がありました。つまり、人々は単に行進の後ろに取り残され、そしてただ撃たれるだけなので、殴り殺されるとか何かよりはまだましでした。私はその数字を正確には思い出せませんが、約三分の二の捕虜たちがラナウにたどり着きました。その後彼らは、内陸に駐屯している日本軍に供給するための米を運ぶ作業に使役されました。

*8【訳者注】太平洋戦争において、東南アジア(南方)方面全陸軍部隊を統括する総軍として、1941年11月6日に編成された。 ▲本文へ戻る

*9【訳者注】サンダカンーラナウ間約260キロ。 ▲本文へ戻る

第2回目の死の行進

サンダカン収容所では、事態は悪化し続けました。5月29日夕刻には第2回目の死の行進が始まり、私の父も参加させられました。以下についてはすべての人が賛成してくれる必要は無いのですが、私の考えでは、この2回目の行進で捕虜全員を殺そうとする明白な計画がありました。この行進は確実に殲滅を目的としていたのです。大量の人間を一度に殺すことは困難ですが、これからお話するように移動の命令を出すだけで沢山の人々を殺すことが容易になるのです。その方法とは、彼らをかなりの速度で移動させるということでした。そしてもちろん、病気で歩けないような、食事も満足にしていないような捕虜を、より速く移動させれば、彼らはどんどん死んでいきます。そういう方法だったのです。捕虜たちは食料を運ばされましたが、何日間もそれで持ちこたえるための食料だと言い渡されていました。しかしほとんどの食料は行進の途中で没収されてしまいました。そして日本軍は自国の兵士に没収した米を食べさせ、そのおかげで日本兵は生き延びる、という計画だったことが後で明らかになりました。監視兵のうち死んだ日本兵は比較的少なく、おそらく行進の途中で16人程度だったでしょう。これは第1回目の行進での死者に比べてずっとずっと少ないです。つまり実のところ、それは捕虜の命を代償にすることによって、日本軍兵士を生き残らせるという計画だったのです。

今や移動させられる捕虜たちは、その行程をたとえどんなに頑張っても、結局は死ぬしかないものだと悟りました。そして捕虜全員を殺すことを確実にするためには、そのやり方が、多分好都合なものであることも見て取ったのです。それで行進について行けなくなった捕虜たちは撃たれたり、銃剣で突き殺されたりしました。毎朝何人もの捕虜たちが、ただ座り込んでもうこれ以上歩けないと言って隊列から取り残され、友人たちは彼らと握手をし、出発すると、その背後で彼らが撃たれる銃声を聞くのでした。

人間と言うものは、もともと他の人を助けられるように出来ているものでした。しかしこのような過酷な過程は、本当に人間性を奪うものとなって行きました。そして私の父は、これは彼の経験で最も辛い部分なのですが、それまで尊敬していた人々が、人間性を失って行くのを見ました。そこには食べ物をめぐる仲間同士の争いがあり、狂って行く人々がいたのです。それは父のその後の人生にずっと残り続ける記憶だった、ということです。彼はその記憶にひどく苦しめられました。

生存をかけた脱走

捕虜たちは死にかけると、それから後は当然ながら向う見ずにもなって行きました。彼らは脱走が生存のチャンスをもたらすのではないかと悟りましたが、しかし多分それは無理だろうとも思いました。それで何が起こったか、私の父に起こったことはこうです。彼がつるつる滑る小さな急坂を登ろうとした時、泥で滑って登る力が無くなり、それ以上登れなくなってしまったのです。それでも彼は木の枝をつかんで何とか引っ張り上がろうとしましたが、前進することは出来ませんでした。監視員が彼の背中を小銃で殴りました。父は倒れ、監視員はさらに小銃で殴りつけ、軍靴で蹴りつけ、父は何とか顔を逸らして、顔が陥没するのを避けました。男は父を殺そうとしました。その時父はかろうじてそれを耐え抜き、何とか起きあがったちょうどその時、友達がそばに来て「頑張れ、ディック、君ならできる」と声をかけくれたのです。父は「俺は生き抜いて見せるぜ、ボブ」と答えました。彼は最後尾に来た捕虜仲間のおかげで、人生の終わりにならずにすんだのです。

この出来事は私の父に大きな恐怖を与え、もし行進を続けていけばきっと死ぬだろう、という強い警告にもなりました。彼はこれから先の数時間で死ぬことになる、つまり列に遅れないでついていくことができなくなっていたのです。彼はこれ以上行進を続ける体力がなくなっていました。そして、殺されるよりジャングルの中で死んだ方がましだと決めて、逃亡の機会を待つようになりました。そしてその機会は山道が谷を下る場所に来た時に訪れました。そこには大木が倒れており、彼はその大木を登って越えなければなりません。もちろん誰だって障害物に近づいて乗り越えるまでの間はスピードが遅くなり、そして乗り越えて向こう側へ行ったらスピードを上げるでしょう。だから、彼はちょっとの間、監視員の視野から外れることに気がつきました。そこで彼はジャングルへ走り込んだのです。しかしたちまち巨大な木の幹に突き当たってしまいました。そこで彼は死をよそおって倒れて横にならねばなりませんでした。見つからないように死んだふりをしたのです。

彼はそこにじっとしていましたが、その時マラリヤからくる咳が出てそうになりました。マラリヤにも赤痢にも罹り、ほとんどの人がそうでしたがあらゆる病気に罹っていました。そして彼はもうそれ以上咳を抑えられませんでした。咳は体をぐいと動かし、座って背筋を伸ばした姿勢になりました。ちょうどその時、監視員が通りかかって、彼の咳を聞き、その姿を見たのです。監視員は小銃を持ちあげて狙いを付けました。しかし撃たないで銃を下し、歩き去りました。なぜそれが起こったか、誰に分かるでしょうか。似たようなことは数多くありましたが、…それは確かに最も死に近い瞬間でした。

最後の隊列が通り過ぎてから数時間たった後、彼は起きあがって、その朝彼の後から隊列を離れた二人の友人を探しに行きました。その友人たちは多分死んだのではないかと推測してはいましたが、もし出来れば彼らを見つけたかったのです。そこで彼は日本兵が一人でやってくるのに出くわしました。彼はその日本兵を殺したい、と思いました。その出来事を説明するには、それしか言いようがありません。後になって彼は「それは殺すか殺されるか、どっちかだったんだ」と言っています。しかしもっと早い時期の彼の話によれば、彼は待ち伏せをし、その男を激しい怒りの爆発で殴り殺しているのです。彼はひたすら木の枝やこぶしで殴りました。それは復讐でした。父はそういうことをしたことを恥じていました。彼はその男を殺す必要は無かったのに、その時は狂気に駆られていたのです。その男は武装しておらず、銃も食べ物も持っていませんでした。多分ひどく病んでおり、父が言うには、あまり自分たちと変わらないような状態だったようです。父はそんなことをしたことを悔やんでいました。

彼はまるで輪を描くように2-3日の間そのあたりをさまよい歩いたようです。彼は死に近づいていました。体重は体調の良い時の半分以下になっていました。それはもうすっかりやせ細って、空腹のまま孤独にさまよい続けたのです。もはや空腹さえも感じなくなり、死の初期段階に来ていました。全身の体毛は抜け、しかし感覚だけは研ぎ澄まされていました。彼の体は、生に留まろうとまさに戦っている何かの力によって、生存のギリギリの段階にいました。そして幻覚を感じ始めました。

こんな健康状態では、生きるにはあまりにも恐ろしい場所に違いないのですが、その上ある夜、赤火蟻(アカヒアリ)という猛毒の蟻に襲われたのです。そいつらは、真っ暗闇の中で彼の足に噛みつき始めました。彼は群れをなして襲ってくる蟻どもから何とか逃れようと一晩中費やしました。それがどんなにひどいことか、想像を絶するものがあります。そして翌朝には彼は精根尽き果てていました。この蟻は夜行性で、日中は地中にもぐって姿を消してしまうのでした。彼はひたすらさまよっていたんだと思います。彼はそうは言いませんが、実際の状態はそんなだったのではないかと思います。そしてついに彼は死を迎え入れるために座り込みました。脳が栄養不足などで活動を停止する間際に、登山家などもそんなことを言いますが、幻覚が始まるのです。声が聞こえ始めます。それはこういう声です、「座れ、休め、お前は出来ることを皆やった、諦めろ」そう言うのです。そしてもう一つ別な声が言います。「進み続けるんだ」声は人を苛みます。30分ほどたちましたが、彼は死んではいませんでした。そして声はこう言いました。「起きろ、進むんだ。お前はこんな所で死ぬんじゃない」それで彼は起きあがって、ついにそこから抜け出しました。

原住民に助けられる

そこには大きな川が北に向かって流れていました。それは日本軍の、古くて伝統的なやり方の主要な連絡経路になっていました。そしてボートが川をのぼったり下ったりしていました。そこには原住民の船があって、一人の男が川の向こう側で魚を獲っていました。そこで父はその原住民に向かって「マラシニ」と呼びかけました。マレーシア語で「こっちへ来い」という意味です。それでその男は、川の反対側に座っている父を、長い間じっと見ていました。男たちがどんな様子だったか、思い起してみて下さい。みんながまるで狂人のようでした。日本兵も、現地人も、捕虜も、みんな髪もひげも伸び放題で、体は汚れきって、ぼろ服を着て、皆がこんな様子でした。原住民の男は、ここにいるこの男は日本兵なのか、それとも何者なのか、一生懸命見極めようとしたのです。その男はとても慎重でしたが、ついには川を渡って父を助けようとしました。そして、このあたりにはたくさんの日本兵がいるからと言って、取りあえず父を彼の村へ連れて行ったのです。

そこにいた男たちの間ではいろんな言葉がゆきかっていました。マレー語、日本語、英語それに地元の彼らの言葉でした。だから彼らが、最初に欧米人の連合国軍兵士と遭遇した時は、何語をしゃべるのか分からず、お互いに意思の疎通が出来ませんでした。ともかく、父が日本軍の物資配分の通過点にいたので、彼らは父を助けて村に連れて行き、かくまいました。父が連れていかれた小屋には、隠し部屋がありました。それは彼らが日本兵から米を隠すための場所でした。その米置き場を壁で仕切って、そこに父を隠したのです。父は例のマラリア性の咳をしていました。それで村人は、通過する日本軍の偵察隊に父のことがたちまち発覚してしまうのではないかと、とても心配しました。彼らはひどく怯えて、父を見つからない様にそこから外へ逃がすことに、非常に熱心でした。父は、「いいか、ただ食料を少しくれりゃいいんだ、そうすりゃすぐに出ていく」と言いました。彼らは父の骸骨のようになった、あばら骨にそっと触れて、「あなた死にますよ」と言いました。

さて、これからお話する部分は、私が今年になってから分かったものですが、そこにはフィリピン人のラレト・パドアという男がいました。彼は日本軍とトラブルを起こしてサンダカンから逃げ、この川沿いに住むダヤク族に助けられたのです。ご存知のようにマレーの地元民はイスラム教徒です。戦前から彼(ラレト・パドア)を知っているダヤク族は、「大丈夫、我々がおまえ(ラレト・パドア)を日本軍からかくまってあげるよ。ただしおまえは、すべてにわたって我々の生き方を受け入れなければならない。イスラム教を受け入れ、我々の言葉を覚え、なんでも我々と同じようにするのだ」と言いました。そして彼はうまくその通りにしました。そうして彼は父が逃亡の次の段階に進むための手助けをすることが出来たのです。ラレト・パドアはアブドゥル・ラシード(Abdul Rasheed)という名前で行動していました。イスラム教徒の名前を持っていたのです。

私はイスラムの人々が日本軍の占領下でいかに対処したのかということに非常に興味を持ちました。飛行場で働いていたジャワ人労務者のキャンプがありましたが、かつてそこにいた老人たちの話を聞くと、彼らは過酷な体験の中で祈ることをやめ、信仰心を完全に失ったと言います。それは、人間性を失っていく過程でよく起こることの一つでした。クリスチャンであれ、イスラム教徒であれ、どんな宗教でも、人は人間性を失っていく過程で宗教を信じなくなってしまうのです。

米軍による救出、帰還

ラレト・パドアは英語を話せる唯一の人間で、父と村人たちをつなぐ人物でした。彼は村人たちを組織し、父を川の河口まで20時間かけて連れて行くことにしました。そこには米海軍が頻繁に来ているリバラン(Libaran)島があり、そこが彼らの目的地でした。彼らがそこに着いたちょうど翌日、2隻の米海軍のPTボート(哨戒魚雷艇)*10 が通りかかったのです。

このアメリカ兵たちは、呼び止められると近くにやってきました。彼らは、地元民が日本兵捕虜を自分たちに引き渡そうとしていると思ったのです。地元民は多数の日本兵を尋問用に米軍に連れてきていましたから*11 。アメリカ兵たちはボートの上から小舟を見下ろして声をかけ、父が二言三言答えると、気が付きました。「何てこった、オージーじゃないか!」「オージー、何が欲しいかね?」。父は言いました。「1パイント*12 のビールをくれないか!」当時、父も地元民も日本兵もみな髭や髪が伸び放題で見分けがつかない状態でした。私は若い頃長髪でしたが、父がなぜそれを好まなかったのか理解できませんでした。でも、後でわかりました。彼はこの恐ろしい時期のことを連想したのです。

アメリカ兵たちは、日本軍の要塞を攻撃に行くところだったので、サンダカン沖にあるフィリピン領のタウイタウイ(Tawi Tawi)島にある彼らの基地に父を連れて行きました。米軍が1945年1月、2月にフィリピンの主要地を奪還して以来、父は崩壊しつつある日本軍から逃れてきた最初の人間でした。そして、状況は大変悪化し、混乱していました。彼らは父のために小規模な記者会見を開きました。今起こっている出来事について父が話したことがどのような効果があったのか、私にはよくわかりませんが、そこには様々な国の将校たちが集まっていました。父が米軍に救出されたのは6月15日、奇しくも彼の誕生日でした。以来、彼はアメリカ人にとても好意を持つようになりました。

記者会見は、バンギバンギ(Banggi Banggi)島*13 の港に停泊していた米軍の船の上で行われました。列島の中にある比較的大きな島です。そこは良好な退避地で、日本海軍がフィリピンとの戦闘で使っていましたし、米軍も同様に使いました。父は米兵たちと一緒にそこの病院に入院しました。その時の体重は68ポンド(約40キロ)でした。それから父は、フィリピンの南に位置するモロタイ*14 のオーストラリア軍前進基地に飛行機で送られました。ニューギニアの北西のハルマヘラ群島の1つで、1942年に日本軍が占領しましたが、1944年に米軍が制圧し、基地として使っていました。

父はDC3機でモロタイに送られましたが、誰もボルネオで何が起こっているかは知りませんでした。父は5週間半にわたって情報部の取り調べを受けましたが、彼らはボルネオでの出来事にはあまり興味を持たず、誰がその捕虜収容所にいたのか、誰が死んだのかを知りたがりました。というのも、オーストラリアで「私の息子に何があったのでしょう?」と尋ねてくる親族の人たちに返答しなければならなかったからです。だから、彼らはそのことに一番興味があったのです。彼らは父を質問攻めにしましたが、父が肺炎に罹って死にそうになったので、やっと尋問をやめました。

父は6月の第3週から7月末までそこに留め置かれ、病院船でオーストラリアに帰還しました。シドニーに着いたのは、広島に原爆が投下された2日後のことでした。つまり8日、長崎に原爆が投下される前日でした。

*10【訳者注】ブレイスウェイト氏はこのPTボートの艇長を捜し出し、彼からPTボートの写真全部の提供を受けている。元艇長は2013年死去。 ▲本文へ戻る

*11【訳者注】ブレイスウェイト氏は、米軍に連行されてきた惨めな日本兵捕虜の写真を多数入手している。 ▲本文へ戻る

*12【訳者注】1パイントは英では約570ミリリットル。 ▲本文へ戻る

*13【訳者注】ボルネオ島北端の沖合にある島。 ▲本文へ戻る

*14【訳者注】【訳者注】インドネシア領のハルマヘラ諸島の一つ。 ▲本文へ戻る

終戦後―父の使命、母との出会い

私はもちろん父を理解しようと努めましたが、彼は強いトラウマを持っていたので、気難しい父親、気難しい人間でした。医師たちは、「あなたは多分あと2,3年しか生きられないでしょう」と言いました。極限の戦争体験をした人たちに対して一般的に医者が言うことだと思いますが、もしあなたが28歳で、あと2年しか生きられないと言われたなら、あなたは残された時間で何をしますか? 父は自分が知っている人々や収容所で知り合った人々の家族にたくさんの手紙を書きました。それが自分の第一の使命だと考えたのです。第二の使命はボルネオの人々を助けることで、彼らを援助するお金や衣料品や食糧を届けてほしいとオーストラリア政府に働きかけました。というのも、ボルネオは戦争で全面的に破壊され、荒廃していたからです。父がラレト・パドアから「我々を助けてくれ」という手紙を受け取った時、父は彼に大変な恩義を感じていたので、すぐにボルネオ支援の行動を起こしました。それは、私も同じくボルネオに返そうと思ってきた恩義でもあるのです。

父は収容所にいた仲間たちの家族や親せきを訪ねて歩き、2回目の「死の行進」の時に亡くなった親友の妻にも会いに行きました。彼は彼女に言いました。「あなたは私のことをご存じないでしょうが、私はあなたのご主人のことをよく知っていました。彼にはいろんなことがありました」。彼女は自分の夫が帰ってきたら看病するつもりでいました。夫が心身ともに病んでいるだろうと思い、対処の仕方を勉強していたのです。その彼女に父はプロポーズしました。彼女が「でも、あなたはまだ私にキスさえしていないじゃない」と言うと、彼は「それは正しい行為ではないでしょう。だってあなたは私の親友の奥さんなんですから」と答えたそうです。彼女には子供がいませんでした。彼らは1946年半ばに結婚し、そして47年7月に私が生まれたのです。

トラウマとの闘い、母の支え

父は非常にトラウマに苦しみ、とてつもなく恐ろしい悪夢を見ました。彼はその悪夢の中で、よく母を絞め殺そうとしました。日本人を絞め殺す夢を見ていたのです。彼は繰り返しこの夢を見ました。母はベッドから転がり出るのが上手になり、明かりを点けて父を落ち着かせました。父はまた、ベッドの虫に悩まされるようになりました。ベッドの中に虫がいて彼を噛むと言うのです。もちろん、そこには虫なんかいないのですが。そんな時彼はいつもベッドのシーツを取り換えるようにと言い張りました。「君は、僕の想像だと思っているのだろう? でも僕の体を見てごらん」。彼の体は本当に噛み跡で覆われていたのです。それは心身症によるものだったのですが。

父はまたチェーンスモーカーであり、タバコを吸いながらたくさん汗をかいていました。彼は自分が体験した非道な行為を、頭の中から振り払うことができなかったのです。彼の友人知人たちはみな飢えや病気で亡くなりました。彼は自分が生き残ったことに非常に罪悪感を持っていました。チェーンスモークをするときは、やがて煙で意識を失います。そして意識を取り戻すと気持ちがちょっと落ち着いてくる。そういう時に母が彼と話をするのです。そのお蔭で、彼のチェーンスモークは次第になくなり、健康を取り戻しました。彼は大分リラックスできるようになりました。母は父と話をするときは、ボルネオで何があったのかをよく聞きました。これは全くアドバイスされたことではなく、彼女はボルネオでの出来事を知りたかったのです。そして話をすることはどちらにとっても良いことでした。父は「それについては話したくないよ」とは言えませんでした。彼女は自分の友人の妻だったのですから。彼女はよく「それで、ジョー・ブラウンに何があったの?」などと、いろいろな人のことを聞きました。彼が「ああ、それは君は知りたくないだろう」などと言っても、彼女が「いいえ、知りたいのよ。私は彼の姉妹ととても仲良しだったんですもの」と促すと、彼は恐ろしい話を彼女に語りだすのです。

というわけで、私は大変トラウマに満ちた家庭に生まれました。私は当時のことはあまり覚えていませんが、異常を知ってとても神経質な子供として育ちました。母の母親は彼女によく言ったそうです。「あなたは子どもを持たない方が良いわ。あなたたちは2人とも、戦争であまりにもおぞましい体験をしているから、子どもに対してフェアになれないでしょ。だから子どもを持っちゃだめよ」。私はこのような環境で育ったのです。でも、2歳下の妹と4歳下の弟が生まれた頃は、最悪の時期が過ぎていましたので、彼らは私のような体験は全くしていません。

父の夢はニュースペーパー・ショップ*15 を持つことでした。それで彼らは店を買い、非常に長時間仕事に没頭しました。戦争について考えずに済むように。彼らはそうやって10年間わき目もふらずに働き続けました。しかし彼はやがて仕事を続けることができなくなりました。そしてまた取り乱し始めたのです。

ニュースペーパー・ショップを営んでいた時には、玩具やその他いろんなものを販売していましたが、日本製品は全く置いていませんでした。私たちも家の中で日本製品を持つことは許されませんでした。今でいえば中国製品みたいなもので、終戦直後はオーストラリアにも安い日本製品がどっと入ってきていたのです。

*15【【訳者注】雑誌や新聞、文房具、駄菓子、玩具などを売っている店。日本のキオスクに似ているがもっと大きく、本屋のようだが本は置いていない。 ▲本文へ戻る

36年目のボルネオ行きと【秘密の儀式】

父は高等教育を受けてはいませんでしたが、とても聡明な人でした。彼は戦争の憎しみをすべて忘れることができたと思った時、1981年*16 にボルネオに行きました。その旅は退役軍人の組織が企画したものです。まずフィリッピンに行ってマニラの墓地で行われた慰霊祭に参加しました。その間はずっと立ちどおしだったのですが、日本人の観光客を乗せたバスが止まって、日本人が降りてきて墓地の中央を歩き始めたとき、それを見た父は全身激怒に覆われ、憎しみが洪水のように押し寄せてきました。何もすることができないほど怒りに満ちて、激怒で体中が震えていました。日本人に対する怒りは消えたかと自分では思っていたのですが、そうではなかったのです。それから数年はその苦しみと闘っていました。そして、ついにその怒りを忘れるための【自分だけの儀式】を見つけたのです。

晩年は、父は憎しみは破壊的なことだと理解していましたが、当時は全く日本製品を買ったり、持ったりしませんでした。でもその彼が日本車を買ったのです。もっとも人目をひくものですよね。自動車販売店に行った時に、若い日本人の男性が対応して、父は自分の知っている、なまかじりの日本語で話しかけました。それがそれほど悪くはなかったんです。そのセールスマンは「日本に何年か住んでいたんですか?」と聞いたので、父は、「いいや、私は3年半、あんたの国の外にある“別荘”に住んでいたんだよ」と言ったのです。

些細なことですが、それが彼が辛い戦争体験を忘れる【儀式】だったんです。そのセールスマンを軽く弄ぶことで、憎しみを忘れることができたんですよ。父のその【儀式】と同じように、ほかの捕虜たちの中にも自分だけの 【忘れることができた瞬間】があったと聞いています。たとえばウェアリー・ダンロップ大佐*17 が終戦直後のタイで、日本軍が降伏した後、負傷した大勢の日本兵がビルマから帰ってきた時に、他の日本兵から無視されていた兵隊がいました。ウェアリー・ダンロップは彼のところに行って、もちろん嫌ってはいたのですが、無意識のうちにこの負傷した、憎たらしい敵国の不潔な兵士に手を差し伸べたのです。「この時にすべての憎しみは自分の中から消え去った」と彼は言いました。父親の場合はしばらく時間がかかりましたが、彼が【儀式】 と呼ぶ 【憎しみを忘れることができた瞬間】 は偶然に起こるか、あるいは自分で作るものだと思います。

日本のセールスマンとの間の話の続きですが、そのセールスマンは「こいつは何言ってるんだろう?」と思っていたに違いないと思います。父は彼を弄んでいたんですよ。彼を馬鹿にして遊んでいました。この会話は父にとっては日本人に向かって軽い冗談を言って、遊ぶことが出来るぐらい自分の心は日本人に対する憎悪から解放されていたという意味でした。日本人のセールスマンは気まずくなって別のスタッフに代わってもらいましたが、父はその車を結局買ったんですよね。そしてその話をとっても楽しそうに話していました。とにかく彼は日本人に勝ったんです。そして日本に対する自分がもっていた憎しみを克服できたんです。彼は“日本車を買っても平気だった”。それが何より大切なところだったんです。その経験が大きな突破口になったのです。彼は非常にフェアーな人間でした。私たち子供に日本人やほかの人たちを憎むような教育をしなかったのはとてもよかったことです。前にも言ったように彼はとても聡明で道徳的な人間でした。

*16【訳者注】ブレイスウェイト氏は後述の上野逸勝の本の解説で、1981年3月、上野氏も旧兵士とともにこのボルネオの慰霊祭に参加していた、と述べている。また、「二人とも軍隊での上官に対しては非常に批判的だった」と書いている。上野氏は2003年他界。 ▲本文へ戻る

*17【訳者注】サー・アーネスト・エドワード・“ウェアリー”・ダンロップ。(1907-1993)第二次世界大戦時、1942年2月、ジャワで日本軍の捕虜となった。その後一時シンガポールのチャンギ収容所に移送され、そこから泰緬鉄道に送られ強制労働をさせられた。軍医だったダンロップは医薬品が極端に不足し、虐待や、食糧不足で過酷な状況の中、勇気ある、強いリーダーシップを発揮した。彼は思いやりのある医者として、生還後も捕虜の物理的精神的な支援を続け、元捕虜の間だけでなくオーストラリアの国民的英雄となった。ウェアリー(weary)は子供のときからのニック・ネームで、誰でも知っているタイヤ・メーカー Dunlop Tyresのtyreは疲れるという意味のtireと同じ発音(米語ではタイヤという意味でもtireが使われている)なので同じ意味のwearyを使ってWeary Dunlop(くたびれダンロップ)と呼ばれていた。 ▲本文へ戻る

戦争には勝者も敗者もない

ウエノ・イツヨシ*18 が自身の著書「An End to A War」でボルネオでの体験を書いています。私は父の話は母親から聞いて、それを参考に上野さんの本に解説を書きました。おなじ戦争を体験した、父親と上野さんにはそれほど違いはありません。もちろん異なる部分もありますが、多くの共通点もあります。上野さんの死の行進の描写は貴重で、ボト(Boto)*19 での日本人野戦病院の叙述はとても悲惨なものです。*20 ある日本兵が脳マラリアに罹って気違いのようになり一日中「もしもし、もしもし」と言って電話をかけるつもりで声を出し続けたり、自分の頭を床にねじ込んでぐるぐるまわったり、狂気に満ちた恐ろしい状況を書いています。いかに戦争が人々を狂気に陥れるか、これらの描写は本当に恐ろしいものです。父には自分の経験を思い出して上野さんのように書くのは無理でした。何度か書こうと思って書き始めたものの、辛くなっていつも諦めることになったのです。ほとんど私が話している事は母親から聞いた話です。母親は父が唯一信頼できる、心を許した人でした

*18【訳者注】日本兵の一人だった上野逸勝が1945年、北ボルネオの死の行進での体験を本にした「北ボルネオ密林」死の行軍600キロの真実 ― 一兵士の記録」英文タイトル「An End to A War」翻訳ミカ・レイリー、編集・解説 リチャード・ブレイスウェイト。編集者であるブレイスウェイト氏の言葉の一部を紹介する。「戦争中に、英領北ボルネオで死亡した豪英軍の捕虜については多くの本が出版され、より詳細にわたり、語られてきた。(中略)それらの出版物はオーストラリア人がヒーローであり、オーストラリア人の視点に立ち日本人は感情もない無意味な残虐さにとりつかれた、血も涙もない人種であるように語られている。ある人たちには慰めになろうが、事情はもう少し複雑なようである。」 ▲本文へ戻る

*19【訳者注】「サンダカン死の行進」ルートの中間地点あたりにある日本軍の野戦病院 ▲本文へ戻る

*20【訳者注】上野逸勝著「An End to A War」(59ページ)から抜粋:「灯火の全くない暗闇のなかで、周辺の静寂を破り、突然凄まじい叫び声が、悪魔の呪いのように聞こえてくる。発狂した患者は意味のないことを、あるいは高く、あるいは低く叫ぶ。(中略)一晩中“もしもし、”と電話をかけているうちにおとなしくなったのでゆすってみたら冷たくなっていたもの、軍刀をやたらに振り回して切りつけるので、危険だからと皆で抑えてジャングルの木に縛り付けておいたら、そのままあの世に旅だった将校。床に頭を芯にしてぐるぐるまわりをする人、床の木を鼠のようにがりがり齧り、口から血を出しながら死んでいくもの等、毎夜の狂人協奏曲が、暗闇のジャングルの中で繰り広げられる。」 ▲本文へ戻る

東京裁判出廷を拒否

父は東京裁判に、サンダカン死の行進の証人として出廷する予定でした。完全にその内容を把握しているわけではありませんが、父は母親に「俺は行きたくもないし、行かない」と言ったようです。彼はその理由を結局は言いませんでしたが、彼の性格からして、多分軍から何を言うべきか指示されたくなかったのだろうと思います。自由になりたくて、軍から少しでも早く解放されたかったんでしょう。彼は他人から「あなたは、ああしなさい、こうしなさい」と言われるのは嫌だったんです。戦争裁判と言うのはすべてが正しいわけではありませんし、それは勝者の裁判なのです。

東京裁判で証言するために脱走した6人のうち2人が日本に行きました。でも一人は結局現れませんでした。日本には行ったのですが、明らかに彼は証人としてふさわしくありませんでした。もう一人は非常に興味深い人物でした。彼は多くのオーストラリア人からは日本軍の協力者と思われました。ご都合主義者で、要所要所で日本人とはうまくやっていました。そのためいつも特別多くの食糧を手にしていました。収容所ではエンジニアの仕事をしていました。たとえばトイレのバケツを作るなど、スキルが必要な仕事を担当していました。彼は非常に自己主張が強い人間で、その彼が証人として出廷した人です。

鮮明な記憶力と強靭な精神

父親はとても記憶力が良く、自分の経験の細部にわたってよく覚えていました。彼の生涯を通して頭の中でフラッシュバックが起こり、テレビで何かを見ているときに突然視線が遠くなって、意識はボルネオに戻っているのです。母親は夫のそのような姿を見るのがとても辛そうでした。彼はボルネオの経験を、映画のように見ていたのです。説明はしてくれませんでしたが、別に気持ちよかったとか辛かったとか、どちらでもなさそうな感じでした。だいたいの人はトラウマ的なものはあまりよく覚えてないのですが、彼はとてもはっきりと記憶していました。鮮明な記憶を持っている人は、ホロコーストのように、その記憶から逃れられなくて自殺したりするのですが、父親はとても強靭な精神の持ち主で、困難な人生を生き抜いてきました。1986年69歳で亡くなりました。

帰国後の 精神障害の治療ですが、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder心的外傷後ストレス障害)と言う概念は当時はなかったと思います。父の時代の治療法はショック治療法でした。電気のショック、感電ですよ。電気で行うショック療法なんです。(感電のマネ)、そう、頭にね。彼らは他に何をすればいいか知らなかったんだと思うんです。昔のショックを新たなショックで直す、全く馬鹿げたやり方ですよ。もちろん今でも使っているんですよ。以前ほどではないですけどね。実は電気ショックは別の名前だったんです。シェル・ショック*21 って言ってね。父はショック療法は一度も受けませんでした。彼は自分にはそれは必要ないって言っていました。精神病棟に通っている他の患者は皆受けましたがね。私が子どもの頃、父はよく軍の病院に行っていましたね。私もそこに見舞いに行ったことを覚えています。彼はその病棟では唯一ショック療法を受けていませんでした。それを拒否する力を持ち合わせていたんです。

ショック治療やほかのもね。私が知っているRussの友達が、「見てみろよ、俺にインシュリンショック療法*22 をさせようとしている。こんなくそ治療を受けるもんか。受けなくてもいいって判断が出るようにどんな症状が出ればいいか調べて、俺はそこから逃げ出したんだ」って言っていました。

*21【訳者注】第一次大戦で帰還した兵士に見られた精神崩壊は炸裂する砲弾が脳震盪を起こすためだとして、その結果としての精神障害を「シェル・ショック(砲弾ショック)」と命名した ▲本文へ戻る

*22【訳者注】インシュリンを注射することで低血糖による昏睡を起こさせることを繰り返す精神分裂病治療の方法で,薬物療法が広がるまで電気痙攣療法とならんで行われていたが現在は行われない。 ▲本文へ戻る

他の生存者とのその後

父は他の生存者とはそれぞれ異なった関係を持っていました。Aの事は嫌いでした。またBとCも、彼が言うには“プロのPOW”と言って嫌っていました。彼らはいつも捕虜経験の話を世間に出して、商売みたいなものにして、父はそういうのがよくないと思っていました。あとはDとEですが、Eは非常に暴力的になってしまいました。息子は私の友人でよく知っています。彼は妻に対して何度も暴力をふるい、酒を飲むと暴れて、日本兵のようになって、自分が受けた暴力を他人に振りまいていました。結局自殺してしました。精神的に不安定で、気の毒な家族でした。私の父親はEの事は好きでした。でも彼はいつまでも戦争から帰還できない男だったのです。彼の娘さんは、「父親は戦争から帰れず、普通の市民になれないで死んだようなもの」と言っていました。よく彼の息子と話していたんですが、たぶん彼は最後まで自分が回復できる、と言うことが分からなかったと思います。近々死ぬ運命だから、自分を立ち直らせて、社会に溶け込もうとする理由がないと思ったんでしょう。一方Bの家族ですが、彼は本当に気違いでした。よく酒を飲んで空襲があるから…と言って家族をベッドの下に隠そうとしたりしました。妻は子どもたちに「お父さんは酔っぱらっているから仕方がないのよ。まあ、その通りにしなさい」、と言ったり、またある時は子どもたちを車に押し込んで、「急げ、日本兵が襲ってくる」と言いました。そして彼はシドニー中を一晩中車で走り回り、夜明けに家に戻り、子どもたちを学校に行かせました。それでも子どもたちは父親をとても愛していました。かなりの気違いじみた父親でしたが、子どもたちにはとても愛されていました。

彼らはお互いの仲間の凄まじい死を見ていましたからね。私の父親にしても、自分が好きだった、そして尊敬していた人たちが気が狂い、人間性を失って化け物みたいになってしまう。それを見るのが一番辛かったんだと思います。そのようなことが、どんな物理的な暴力を受けるよりももっと辛いことなんです。

Dと話した時に、彼は「ひどい話だ。オーストラリア人は他のオーストラリア人を殺している」と言っていました。これは決して本やその他の物には出ていないですが、彼は、私に「あなたの父親はそこから一番うまく抜け出せたんだ」と言っていました。私もそれは本当だと思います。でも「どうしてそう思うのですか?」と聞いたら、彼は、「それはあなたの母親だよ」と言ったのです。私の母親は父親の話をじっと聞きそれを受け入れたんです。会話で救ったのです。彼女は父の個人的ソシャルワーカーみたいなものだったんです。とっても元気で、強い女性でした。だから様々な困難に打ち勝つことができたんです。


今日はどうもありがとうございました。



Richard Braithwaite

1947年生まれ

サザン・クロス大学

観光・ホスピタリティマネジメント学科

非常勤教授

10月22日撮影

 

子どものころ、リチャード・ブレイスウエイト氏は、父親が軍隊に行って捕虜体験の派手な話をしてくれたのを覚えている。しかしこれらはより深く、暗い体験のほんの断片的な話に過ぎなかった。リチャードは父親がそのころ何を見て何をしたのかを知るために多くの年月を費やし、今日でも続いている。

それと並行して、日本側の話も探し求めた。そしてボルネオでの日本兵の回想録に出会った。上野逸勝氏の「An End to A War」。ミカ・レイリー訳。リチャードが編集し、コタ・キナバルのオプス出版社から出版された。

(2014年6月27日放送 オーストラリアABCラジオより)

【翻訳・編集:西里扶甬子、小宮まゆみ、笹本妙子、渡辺洋介、村田則子】