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元捕虜たちの証言集

ジャック・シモンズの捕虜体験

1942 年2月15日、連合軍全軍の降伏が認められた。私はその時19歳と8か月だった。中国系英国教会のカレッジのグランドに2、日ほど居た後、1万5千人の将兵は15マイル(25キロ)ほどの道のりをサララング・バラックまで行進させられた。私はシンガポールのゴルフ場で行われた日本軍の追悼式のために働かされた。

それから、交通事故にあって3-4週間ほど入院する破目となった。それから、働けるほどに回復したとみなされて、チャンギの野菜畑の仕事をした。この野菜は病院向けのものだった。

1943年4月25日、200人のオーストラリア軍捕虜と300人の英軍捕虜それに1000人のその他の捕虜が18000トンのKyoku丸*に乗船して、泰緬鉄道の補充要員として出航した。我々は足を伸ばしてやっと横になることのできるスペースしかない船倉に押し込められた。換気が酷く悪く、我々の食事は一日に小さいお椀一杯のご飯と、コップ半分の水だけだった。1日1回、30分だけ甲板に出ることを許された。

米海軍の攻撃をさけて、我々の航路は変更になり、結局我々の船は日本に向かった。まず門司港に錨を下ろし、それから、下関に移動した。5月19日、汽車で大阪に輸送された。それから大阪での11日間は地獄だった。我々は日本語の日常用語を教え込まれ、日本式のやり方を叩き込まれた。敬礼の仕方や日本帝国軍隊式の行進を覚えさせられた。もし間違ったりすると、多くの戦友たちが、殴られた。我々が入れられた建物は、新しくて清潔だった。長ズボンとシャツを一枚ずつ支給された。サイズは一種類しかなかった。同様に、支給された地下足袋はすべてサイズ10だったから、私はトラックのタイヤのゴムで、サンダル状のはきものを一足つくらねばならなかった。6月1日、196人の男たちが、仕事場へ向かって行進した。仕事場は鋳物工場で、到着すると色々な違った仕事に配属された。各々のグループに班長がいて我々を統括していた。班長は年寄りで、ほとんどが優しかった。憲兵隊がとこときパトロールしていた。我々には一日およそ10セントの賃金が支払われ、月に1回受け取るようになっていた。

日本人の方針は、働かない者には賃金も食事も与えないというものだったから、より多くの捕虜が働けば、それだけ食事の量も増えた。我々は定期的に殴られた。特に戦線で日本軍が劣勢に成った時はより酷かった。1945年3月頃だったと思うが、大阪は物凄い空襲にあった。この後、我々は武生(福井県)の方に移された。

武生では、1945年8月までカーバイン工場で働いた。武生のキャンプにいたスタッフの名前は、村田少将(?)野須中尉、衛生兵の寺下 村上と宮城という通訳、甲斐(?)軍曹と沢村軍曹、需品係の松本伍長など。私の班の班長はマオナ(?)だった。

日本はジュネーブ条約を批准しなかった。従って、全般的に捕虜に対する態度、食糧などが不適切だった。休息日も月に1日しかなかった。医療品は収容所長の事務所に保管されていて、ほんのわずかしか支給されなかった。至る所にいる厄介ものはネズミだった。シラミや南京虫もいた。寝具といえば粗末な毛布が2枚だけで、工場に頼み込んで分けてもらったセメントの袋で補っていた。下痢、ペラグラなどのビタミン不足による皮膚病、赤痢などの病気に悩まされた。また仕事場ではよく事故が起こって、怪我人が出た。

(Kyoku丸=旭光丸か?極洋丸か?)

(西里訳)

左からジャック・ブーン、ニール・マックファーソン、ジャック・シモンズ、豪大使館付武官の各氏
 保土ヶ谷英連邦墓地で(2004年4月)