POW研究会トップ活動報告学習会・講演会>諸星達雄氏・池上信雄氏講演
 
学習会・講演会

諸星達雄氏「私の従軍体験〜泰緬鉄道、スマトラ横断鉄道」
池上信雄氏「私の従軍体験〜スマトラの民間人抑留所長として」

田村佳子

日時:2010年9月25日
場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス

諸星達雄氏講演「私の従軍体験〜泰緬鉄道、スマトラ横断鉄道」

大正8年9月東京のお生まれ。

札幌鉄道管理局に勤務中の1941年9月14日召集を受け、17日には千葉県津田沼市鉄道第九連隊に未教育補充兵として入隊。補充兵とは体格・健康面に問題があることを意味し、軍隊では最後まで事あるごとに劣等視されたそうです。第四大隊第七中隊第四小隊に配属され、小隊長は弘田栄治見習士官、また彼を教官に訓練を受け、一ヶ月後の10月16日には大阪から出港。29日仏領印度支那「海防」到着、弘田小隊長の当番兵となり、彼との縁が深くなりました。(彼は戦後戦犯として絞首刑で亡くなります。)11月19日「海防」出発、23日海南島三亜港上陸、開戦待機。12月4日、三亜、出港。12月8日、開戦、泰国シンゴラ上陸。自らの荷物に加え、弘田少尉の将校服などの入った行李も背負っての縄梯子下降は大変な難儀だったそうです。諸星さんはその後ナームイで最初で最後の戦闘を経験。

1942年1月9日、クアラルンプールで小隊長の当番兵解任、3ヶ月間、衛生兵としての特別教育を受講。4月12日ビルマのラングーンに上陸。7月20日、タイのバンコック上陸、泰緬鉄道建設作業に衛生兵として勤務、バンボン、カンチャナブリ(A)、カンニュ(B)、マレー部落(C)、ヒントク(D)、キンサイヨークを巡る。

(A)5月18日には泰緬鉄道建設に「連隊全滅するとも強行突破せよ」との連隊長訓示があった。

(B)コレラ大流行、POWの患者は約100名。日本軍は予防接種をし、手洗い、食器類は熱湯消毒、靴は総毒液を散布したマットを必ず踏む等を励行。諸星さんはさらにマラリヤ予防の為、ズボン下や靴下を常に二枚重ねることを怠らなかった。

(C)多数のコレラ患者発生。

(D)泰緬鉄道最難関箇所。弘田小隊長は連隊会議から戻るなり、部下に「皆死んでくれ」と告げ、一同震え上がった。

1943年10月1日、泰緬鉄道連結式。が、諸星さん達の第七中隊はバンポンから延びる「クラ鉄道」建設の為、不参加。12月25日、開通式。1944年4月12日、スマトラ横断鉄道建設の為、スマトラ島パカンバル上陸。

完成は1945年8月15日、終戦の日。敗戦の電報授受は16日夜9時。中隊は引き続き、同鉄道の保守運営輸送に従事。

1946年4月11日、マレー半島西海岸のバトパハ上陸前にマラッカ海峡に武器を廃棄、以後、英軍指揮下の労役。道路改修、英軍兵舎増築作業など。当初は食べ物が少なく、ひもじくて英軍のペットの猿やウサギのえさを失敬するものもあらわれ、僅かなコメも混載米で小石などが入っていて取り除くのに苦労。しばらくすると英軍から糧食の配給があり、人心地つく。JSPになり、6月に賃金が出るようになった。(帰国後、そのカードを日本銀行に持って行ったが、物価も違っていて、いくらにもならなく随分がっかりする。

1947年8月末シンガポールから帰国の途に。9月18日、長崎県佐世保に入港。部隊編成を解き召集解除。陸軍軍曹。10月1日には復職。途中、大学で法律を学び、国鉄本社勤務になり、参事として1975年定年退職。

 

お話しを終わるにあたって、諸星さんは以前に部隊史にお書きになったものの中から、復員船から日本の島影が見えて来た時の様子、心情を記した章を読んでくださいました。名文。この想い、若い人たちに是非読んでもらいたいものです。諸星さんがご自身で読んでくださったので、更にその情景が浮かび、心打つものでした。有難うございました。

池上信雄氏講演「私の従軍体験〜スマトラの民間人抑留所の所長として」

大正8年1月のお生まれ。

昭和16年12月早稲田大学法学部を繰り上げ卒業、日米開戦後に近衛歩兵第3連隊の補充部隊である東部6部隊に入隊。昭和17年5月選抜され、前橋の陸軍予備士官学校に入学、第7期生。幹部候補生として6カ月の教育を受け、昭和18年2月、スマトラの近歩3部隊の将校として赴任。猛獣が多く,衛兵がトラに食べられるという事件はあったが、総じて戦闘も無く食料は豊富だった。昭和19年秋、メダン司令部からランンタウパラパットの第25軍敵性国人抑留所シリンゴリンゴ第5分遣所所長就任を命じられる。昭和20年8月15日から数日たったある日、日本降伏のニュースが入り、彼と彼ら(収容所長と抑留者たち)の立場が逆転。昭和21年4月、ベラワン港から帰国船に乗る直前、戦犯容疑でメダンの刑務所に収容される。

と、ここまでは池上さんを知る人たちの間では良く聞いた話です。そして、その後、彼に抑留者からの嘆願書で釈放されたことも。が、詳細は何も分からず、また何故嘆願書が出たのかはこの25日の学習会で初めて皆が知るところとなりました。

まず、池上さんが収容所長として着任した日、35カ国の多様な国籍の男性抑留者2千人の代表が整列し怯えた目、ぎこちない手つきでの敬礼の出迎えを受けました。それは非常に奇妙な光景に見え、「敬礼はしなくてもいい。」というと皆怪訝な表情を浮かべます。聞くと前任所長から敬礼しないことで鉄拳制裁を受けていたことがわかりました。終戦までこの抑留所所長となる池上少尉若干25歳の赴任の日のことでした。

以来、池上所長は所内で暴力を振るうことを禁じました。ある時、20キロほど離れたアエクパミンケに女性だけの抑留所に所用で出向いた折、帰り際に数名が彼の手帳に名前を書く事がありました。

管轄の抑留所に戻りそれを見せると、抑留者達は皆食い入るように見、池上所長は彼らの妻や娘のものであることを知りました。防諜のおそれありとのことで男女が分けられたのですが、西准尉と話し合い、それからはこの女性抑留所に出かける時は男性収容所の余ったものや新たに製作したサンダル等、野菜籠10杯ほどにもなり、大層喜ばれ、二つの抑留所相互の通信も認めました。日本が降伏すると、この抑留所では報復的行動は無く、それどころか、抑留者から「戦争中は敵味方だったが、今からは我々は友人です。」と握手攻めに会ったそうです。のちに池上さんは「この彼らの言葉は、その後の私の人生観を変える程衝撃的なものでした。」と述懐されています。

昭和21年帰国直前に戦犯容疑でメダンの刑務所に収容され、日本軍の戦時中の加害行為糾弾の為の首実検が収容者に対し行われている時でした。ふと見るとオランダ人の少年7〜8人が塀の上に並び、心配そうにこちらを見ている、よく見ると、池上さんの収容所にいた良く可愛がっていた子供達でした。昭和21年11月、オランダ軍検察庁の呼び出しを受け、「オランダ人達から早期釈放の署名運動が起き、釈放嘆願書が届いた。近いうちに刑務所から出られるだろう。」とその嘆願書を読み聞かせてもらいました。池上さんは今でもあの時の少年達が親に頼んでくれたに違いないと、感謝しておられます。昭和22年春、無事日本へ帰還。

 

昭和63年6月19日、スマトラのバイユ村の回教寺院復興竣工式が、発起人の近歩3連隊の池上さんら3名を含む日本からの参加者62名と現地から総督や村民ら5600名とで盛大に開催されました。(これは残留元日本兵の熱意から日本で寄付金を集め、破壊された寺院の修復に寄贈された事による。)式典終了後の観光で会ったオランダ人からシリンゴリンゴにいたと聞き、奇妙なご縁での友情が芽生えました。その後、オランダで他の少年たちとも再会を楽しまれました。また抑留所にいた人に偶然会う機会に恵まれたり、嘆願書の筆頭人の遺族と連絡が取れるなど、またオランダで平成11年開催された「日本・オランダ・インドネシア三国の戦争の記憶」展に出席するなど、幅広く友情を広げて来られました。

収容所長として多くの人達が戦犯となった中、池上さんの様なケースは希有な例でしょう。どこにその差があったのかとあらためて考える学習会にもなりました。貴重なお話を有難うございました。

諸星達雄氏

池上信雄氏