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「北海道の捕虜収容所について」

白戸 仁康

日時:2009年5月23日
場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス


昨年『北海道の捕虜収容所』を出版した白戸仁康氏をお招きしてご講演いただいた。氏は、北海道史研究協議会、北海道文化財保護協会所属。主な編著書は『戦時外国人強制連行関係史料集』、『北海道と朝鮮人労働者』、『美唄市百年史』、『富良野市史』、『新札幌市史』など。北海道美唄市在住。以下は講演要旨。青字部分は報告者の感想


1970年代に「北海道開拓100年」ということで市町村史が相次いで作られるが、資料的裏付けもなく、伝聞を羅列したり、アイヌや朝鮮人などの負の遺産に全く触れなかったりで、杜撰なものが多かった。研究者は官庁や企業の発掘をしたが、研究が専門分野ごとに行われ、相互に交流がないので全体像がさっぱりわからない。

アイヌ、朝鮮人、中国人の問題の掘り起こしをする人々は、資料研究について最初から不信感を持ち、自分たちの想定と異なる研究を拒絶する。遺骨の掘り起こしや証言の収集を行っても検証が不十分で、主観的になってしまう。証言を聞くとき、「当時はどのように思われましたか」と聞く場合と、「当時は大変だったでしょう」と聞く場合では、同一の人でも違う証言になる可能性がある。オーラル・ヒストリーは、証言者よりも証言を聞く人の自覚と責任が重い。証言を尊重すると同時に、多角的に検証し、客観的な事実を抽出する作業が不可欠。

1945年9月、各炭鉱に収容されていた中国人は組合を作り、会社に対して要求書を出す。いずれの地域でも、要求の第一は「我々を捕虜と認めよ」というもの。要望書を提出するために事務所に向かおうとして、日本人の労働者や警官の阻止にあい、衝突した。こうした行動が、会社、労組、70年代に作られた市町村史ではすべて「暴動」と書かれた。敗戦直後の労組は在郷軍人会と一体化したものだったから、こうした認識はやむを得ないが、70年代に至るまで何らの疑問も抱かず、訂正もしなかったのは情けないと思う。

——民衆史講座の人々の記録、文献への不信は「労組でさえこの有様だ」というところにあったのかな、と思った。

1987年、田畑智博さんが函館収容所にいたイギリス人捕虜を取材し、日本側の資料を求めに来た。ところがほとんど資料がない。田畑さんから「連合軍捕虜の問題は取るに足らないことなのか」との疑問が出された。それが『北海道の捕虜収容所』の出版に取り組むきっかけだった。
 収容所の運営は、初代本所長・畠山大佐の時代と2代目江本中佐の時代では大きく違う。一貫して苛酷だったのではなく、畠山の時代が苛酷だった。

——畠山は中国野戦軍の司令官からの転任。中国での「捕虜」虐待の日常化が、彼の国際法蔑視に関係しているのではないかと思った。

函館収容所で唯一絞首刑になった第1分所長、平手嘉一は野戦経験が全くない将校だった。従って、配下の下士官、兵士、軍属の面従腹背を防止することが困難だった。

——私が平手無罪論の一部にひっかかるのはこの点。GHQの調査や横浜裁判の事実誤認に大きな問題があるのはわかるが、平手を死なせたのは連合軍だけなのか。畠山大佐や平手の部下も彼の首に縄をかけた下手人ではないのか。こうした「責任の所在」を問わないまま、彼を悲劇のヒーローにまつりあげるのは、彼の死を侮辱するものではないだろうか。

空知の炭鉱地帯への移転は、疎開が主な目的。炭鉱各社は捕虜労働の受け入れはむしろ迷惑であり、軍に強要されてやむなく応じたのが実情。朝鮮人、中国人は最も危険な坑内作業に従事していた。その他は労働報国隊、女子挺身隊、学生の勤労動員で補うことができた。

1945年7月、上海収容所から捕虜が移送。ウェーク島で捕まった民間人、軍人がいた。民間人と兵士は歌志内、将校は芦別に収容。この間の移送の記録は、ウェーク島の捕虜デヴルウ少佐の戦後の回想録で確認。

——カニンガムの功績を横取りしたあの悪名高い著者だろう。

上海からは、中国大陸で捕虜となった爆撃機搭乗員12名が、他の捕虜から隔離されて移送。4島と道内で捕虜となった搭乗員10名と合わせて225名は札幌刑務所に収監されたが、名簿上は空知に移転した本所や各分所に登録された。搭乗員の身柄については、末端から「いつ処分するのか」という突き上げがあったが、北部軍司令部、憲兵隊ともにこれをおさえ、8月15日まで収監を続けた。従って、爆撃機搭乗員に関する戦犯はいない。

8月15日夜、軍命令で書類焼却。この時、北部軍司令官樋口季一郎はひそかに兵籍簿全部を保管。このお陰で、北海道は最初に軍人恩給が完全実施された。後年、樋口は書類焼却がかえって戦犯の重刑化につながったことを非常に後悔していた。
 捕虜の労働は8月15日で中止されたが、中国人の労働は9月半ば、彼らが自治会組織を作り、会社と対決するまで継続。朝鮮人も同様だった。朝鮮人の帰国は早くから開始されていたが、中国人の帰国は11月から。
 津軽海峡には多くの機雷があったので、捕虜は小樽から船で千歳に上陸し、空輸。9月中に移送。その短い期間に宣誓供述書が集められた。
 軍管区司令官のうち、樋口のみが戦争犯罪を問われることなく戦後を生きた。他はすべて戦犯として有罪判決を受けるか、または自決している。樋口は1938年、独断でナチの迫害を逃れてきたユダヤ系難民をビザなしで満州を通過させ、関東軍の査問を受けた。イスラエルでは杉原と並んで功績者と讃えられている。43年、米軍のアリューシャン奪回の時には、参謀本部に対し、アッツ島玉砕命令を出すのとひきかえに、キスカ撤退命令を承認させた。彼はこのことを生涯自責として負い続け、アッツ島守備隊の犠牲者の名前を木片に刻んだ位牌をトランクに入れて持ち続けた。1970年死去。

——福林さんから、「ハルピン特務機関時代、彼が満州国においてどういう役割を果たしたかを検証する必要がある。その上で、功績は功績として認めても良いのでは」という意見が出た。私は右の人々が対中国での功罪に非常に甘いことに不信を持っているが、是は是、非は非とすることに異存はない。ただ、近代日本の欧米とアジアのダブルスタンダードが結果的に昭和の国際法の無視につながったのでは、という考えを捨てきれない。この点で、私は司馬史観には同意できないのである。「根」は近代の出発点からあったと思う。

オーラル・ヒストリーは、方法論の検討をしないまま行うと、主観的、主情的になってしまう。しかし、証言者の年齢を考えると、今聞き取りをしないと、貴重な証言が永久に失われてしまう。ヘロドトスは噂も含めて記述することを厭わなかったから、後世に歴史を伝えることができた、という意見もある。90年代から「これは現在の段階での検証で、今後も検討する余地を残す」という凡例をつけて証言を集めるようにしている。

——1982年、歴教協の釧路大会で、民衆講座の人々の話を聞いた。道庁や公的機関が「開拓バンザイ」でアイヌやウィルタ、朝鮮人のことを完全に無視して、いくら要求しても調査をしようとしないと怒っていた。ただ、その思いが客観的な視点を失ってしまっては元も子もない。専門家だけではなく、庶民が歴史を掘り起こそうとすることは大切なことだ。専門家がそれをハナからばかにする風潮があるとしたら悲しい。庶民の思いと専門家の知識が交流できるような環境を作りたいと思う。

手塚優紀子 報告

講演の詳細については、以下リンクから講演資料をご参照ください。

>>講演資料を読む (PDF)

講演する白戸仁康氏

白戸仁康氏の著書