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学習会・講演会

「オーストラリア人捕虜軍医ステニングの足跡をたどる」

イアン・フェニグワース

日時:2008年9月27日
場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス

講師のフェニグワース(Ian Pfennigwerth)氏はオーストラリアの海軍史家。オーストラリア海軍に35年間勤務した後、オーストラリア海軍史の研究に取り組み、多数の著書を出版している。

次作として、オーストラリアの著名な小児科医で、第2次大戦中は日本軍の捕虜でもあったサミュエル・ステニング医師(Dr.Samuel Stening)の伝記を書くために、2008年に2度来日し、彼のいた捕虜収容所跡地を巡った。POW研究会の会員がその調査に協力した縁で、この講演会が実現した。

ステニングは捕虜軍医としてジャワでは2カ所、日本国内では9カ所の収容所を転々としたが、フェニグワース氏は多くの資料や関係者への取材、今回の現地取材で得た情報などをもとに、ステニングが体験した日本の捕虜収容所の実態を語った。下関の検疫所に多数の捕虜患者が収容されていた事実や、大江山収容所における捕虜同士の犯罪など、これまで私たちが知り得なかった事柄も明らかにされ、数々の貴重な情報を得ることができた。

講演後の質疑応答では、POW研究会会員からの質問だけでなく、フェニグワース氏自身が日頃感じている疑問も提起され、有意義な意見交換の場となった。

 

ステニング医師について

1910年
出生
シドニー大学卒業後、小児科医としてアレクサンドラ小児病院に勤務

1939年
オーストラリア海軍に入隊。インド洋、地中海で任務に就く。

1942年3月
彼の乗った巡洋艦パース(HMAS Perth)がスンダ海峡で日本軍に撃沈され、乗船者300人が死亡。ステニングは日本の駆逐艦に拾われ、ジャワに移送。

以後
ジャワのセラン収容所、Bicycle camp(バタビア)を経て、日本に送られ、大船(42.5.7〜42.9.9)→善通寺(42.9.9〜42.11.28)→門司港(42.11.29〜42.11.30)→下関検疫所(42.11.30〜43.3.1)→香焼(43.3.1〜43.4.28)→長崎(43.4.28〜43.5.17)→香焼(43.5.17〜43.7.5)→(善通寺に数日滞在)→市岡病室(43.7.11〜43.10.15)→大江山(43.10.15〜44.6.23)→大正(44.6.23〜45.5.17)→武生(45.5.17〜45.9.11)の各収容所で捕虜軍医や先任将校を務める。

1945年10月
オーストラリアに帰還。
戦後は著名な小児科医として活躍。

【ジャワ時代】1942.3〜4

・セラン収容所(Serang Gaol)では、同じくジャワ海戦で撃沈され捕虜となったUSSヒューストン(米)の乗組員とともに収容。

・1日120人の患者が出たが、すべてがジャワ風のやり方で、衛生状態は悪く、医薬品もなかった。毎日皇居遙拝を強いられた。

・1943年4月、セランからバタビア(現ジャカルタ)のBicycle campを経て、5月5日に日本に到着。鉄道で大船収容所へ。

【大船収容所(神奈川県)】1942.5.7〜9.9

・ここは尋問のための収容所。ステニングはここではまだ正規の捕虜の身分を与えられず、「敵国兵」として扱われた。捕虜同士の会話を禁じられるなど、規律は厳しかったが、4ヶ月間の中で尋問は1回だけで、退屈な日々。

・尋問を終え、正規の捕虜として善通寺へ。パースの無線技師たちは東京へ。

【善通寺収容所(のち広島第1分所/香川県】1942.9.9〜11.28

・ここはShow Camp(模範収容所)で、食事も良く、スポーツも手紙も読書も自由。ステニングはここでは医師としての仕事もなく、まるで休暇のような日々。

・門司港に入港した捕虜輸送船で多数の患者が発生したため、捕虜医師・衛生兵30人から成る救急医療班が結成され、門司に派遣される。

【門司港(福岡県)・下関検疫所(山口県)】1942.11.29〜43.3.1

・ステニングの班はまず、入港した捕虜輸送船の1つ、昭南丸(シンガポール丸)から患者や死者を運び出す。船倉には死者や瀕死の病人が累々と横たわり、目を覆う惨状。

・病人たちを下関検疫所に収容し、以後3ヶ月間、彼らの治療に当たる。

・初期には多数の死者が出たが、次第に落ち着いてきたので、ステニングは捕虜医師のいない香焼収容所に派遣される。

【香焼収容所(福岡第2分所/長崎県)】1943.3.1〜4.28

・米・英・蘭などの捕虜1300人が収容される大収容所。

・捕虜は川南造船所で使役され、船に高温のリベットを打つ作業などに従事。リベットがはずれれば火傷を負う危険な作業だったが、応急処置をする医薬品も設備も欠乏しており、日本人労働者が大怪我をしても見守るしか術がなかった。

・一時的に長崎市の第14分所に派遣。

【長崎収容所(福岡第14分所/長崎市)】1943.4.28〜43.5.17

・オランダ人300人が収容され、三菱造船所で使役される。

・食事はまあまあで、待遇や規律も公平であった。

【香焼収容所(福岡第2分所/長崎県)】1943.5.17〜7.5

・再びここで2ヶ月を過ごす。

・ステニングはこの時までは善通寺に籍があったため、一旦善通寺に戻って数日を過ごした後、大阪の市岡病室へ。

【市岡病室(大阪市)】1943.7.11〜10.15

・市営競技場の観客スタンドに設置された病人専用のキャンプ。

・ステニングは「最悪の病院」と記している。医療設備が貧弱な上、病人は一般捕虜の半分の食事しか与えられなかった。日本人職員が捕虜用の食料を盗んだり、日本人軍医が捕虜に人体実験(質疑応答の項参照)を行うなど、モラルも最低。多数の死者が出、同時期にここにいた英捕虜ヒューイソンは、遺体の選り分け作業をさせられたという。

【大江山収容所(大阪第3分所/京都府)】1943.10.15〜44.6.23

・香港から移送されたイギリス、カナダ、アメリカの捕虜(うちイギリス兵が200〜300人)と2,3人のオーストラリア兵が混在。

・国籍がバラバラなため、互いに反目し合い、統制がとれず、規律が悪かった。そのため捕虜は厳しく処罰され、私的制裁も横行した。

・収容所長は先任将校のステニングと相談して、捕虜による自治組織(Self Government)を作った。ステニングには、これによって捕虜を日本人の私的制裁から守れるとの思惑があったが、委員に選ばれた4人の捕虜(英2,加2)はいずれも筋骨隆々で「ビッグ4」と呼ばれ、次第に権力者として君臨するようになって仲間の捕虜を虐待し、ついにはカナダ兵1人を死に至らしめた。「ビッグ4」の1人、ハービーは戦後、捕虜を殺した罪でカナダの軍事法廷で裁かれた。

【大正収容所(大阪第10分所)/大阪市】1944.6.23〜45.5.17

・シンガポールから移送されたオーストラリア兵200人が収容されており、ステニングはここで初めて自国の捕虜と一緒になった。

・収容所長は不在がちだったため、軍曹が実質的な管理を担っていた。彼は暴力的だったが、所長が収容所に住むようになると、暴力が収まった。

・先日、跡地を訪ねたが、周辺は埋め立てられて地形が変わり、収容所の位置は確認できなかった。

【武生収容所(大阪第22分所/福井県)1945.5.17〜45.9.11

・大正収容所から移送されたオーストラリア兵167人とアメリカ海兵隊員33人が収容。ステニングが唯一の将校。

・捕虜はカーバイド工場(信越化学)で働き、肥料製造のための炭素棒の生産に従事。

・到着時にはまだ収容所が完成していなかったが、景色が良く、待遇も悪くなかった。

・終戦になると立場が逆転し、ステニングが収容所長に。終戦直後に日本人カメラマンが来てステニングの写真を撮ると、他の捕虜たちも我も我もと撮影してもらった。

・米軍機から救援物資が投下されるようになり、負傷者も出る。ステニングは負傷者の韓国人女性に付き添って病院へ。

・8月24日に外出許可が出る。

・9月11日に帰国の途に着き、マニラで戦犯調査委員会の尋問を受ける。

・信越化学は今もあり、当時の警備員や、投下物資のパラシュート生地で捕虜の服を作ってあげたという女性の話を聞くことができた。

質疑応答 −POW研究会会員からフェニグワース氏へ

※フ=フェニグワース氏 P=POW研究会会員

P.市岡で行われた人体実験とは?

フ.日本人軍医が、「足痛い病」(普通は壊死した部分を切断するしかない)の患者の痛みを和らげる処置として、雪の中に足を浸ける実験をした(ステニングはあまり詳しく書いていないが)。市岡の医療スタッフだったヒューイソンによれば、切断手術をする場合は、麻酔なしで、カミソリで肉を切り、のこぎりで骨を切っていたという。

P.戦後多くの元捕虜がPTSD(Post-Traumatic Stress Disorder=心的外傷後ストレス障害)に悩まされたと聞くが、ステニングの場合はどうだったのか?

フ.わからないが、多分あっただろう。オーストラリアでは政府レベルでの研究は行われておらず、元捕虜たちは戦友会の仲間同士で慰め合うだけ。イギリスでは長い間、臆病者の病気と思われていた。

P.アメリカではベトナム戦争後にPTSDの研究が進んだと聞くが?

フ.オーストラリアでは今も多くの元捕虜がPTSDに悩まされている。私がインタビューしようとした元捕虜も、日本軍がいる島に自分が上陸用舟艇で乗り込む悪夢が甦ってくると言って、インタビューを断ってきた。アメリカの場合は、弁護士が何でもPTSDに結びつけて商売化しているが、戦争時のPTSDとそれ以外とでは同レベルではない。

P.ステニングが小児科医になったのはなぜ? 小児科医としての経験は捕虜時代に何か役に立ったか?

フ.子供が好きだったから。しかし不幸にも自分の子供には恵まれなかった。戦後、彼は小児科学会を創設するなど、医学界に大きな功績を残した。小児科医としての知識や経験は捕虜収容所ではほとんど役に立たなかった。なぜなら、捕虜が罹った病気の多くは、オーストラリアにはない病気ばかりだったから。

P.逆に、捕虜時代の経験が後に小児科医として役に立つことはあったか?

フ.彼は優しくソフトな人間だったが、戦後強い人間になった。部下の捕虜の管理や日本側との交渉など、メンタルな問題を含め多様な問題を処理した経験が、彼を強くした。

質疑応答 −フェニグワース氏からPOW研究会会員へ

※フ=フェニグワース氏 P=POW研究会会員

フ.もし私が日本軍の将校で、企業から「人手が足りないので捕虜を使いたい」と言われたら、健康な捕虜を送っただろう。なぜ大勢の病気の捕虜を送ったのか? また、工場は重要な軍事物資を生産しており、優秀な人材を必要としていたはずだが、なぜ優秀な捕虜を使わなかったのか?

P.日本の軍隊でもっとも重視されたのは戦闘部門、次に情報部門で、捕虜を扱う部門は最低の地位にあり、優秀な人材がおらず、組織もできていなかった。労働力は必要だったが、日本にはそれを養う能力がなかった。だから捕らえた25万〜30万の捕虜のうちアジア人は解放し、12万の白人捕虜だけを残した。

フ.ドイツも大量の捕虜を抱えたが、彼らを「厄介者」としてではなく、「プレゼント」としてうまく利用した。日本はなぜそうしなかったのか?

P.日本は労働力の埋め合わせに、まず学徒(優秀だから)を使い、次に朝鮮人、中国人、台湾人を使った。捕虜を使ったのは、日本の威力を誇示するためだったのでは?

P.それは違う。捕虜は労働力として重要な存在だった。技術を持っている捕虜も沢山おり、日本はそれを利用していた。

フ.確かに、ステニングがいた川南造船所では、捕虜が設計室で働かされていた。

P.病気の捕虜を抱えた理由に輸送の問題もあるのではないか。ドイツは陸路で捕虜を運べたが、日本は危険な海を渡らなければならなかった。物資が貧弱な上、食糧の補給も困難だった。

フ.同感だ。ニューギニアでは日本軍は補給が途絶えて飢餓に陥った。

P.病気の捕虜については輸送の問題が大きい。最初の頃は1坪に1人程度のスペースがあったが、後に船舶が不足してくると1坪に10人以上も詰め込まれ、衛生状態も最悪だった。それで、最初は健康だった捕虜もみな病気になってしまった。

フ.捕虜の問題は文化的な違いも考慮すべきだろう。オーストラリアでは上官が部下を殴ることは厳罰とされたが、日本では将校でも捕虜と似たような状況にあったようだ。

笹本妙子 報告

 

イアン・フェニグワース氏