POW研究会トップ活動報告学習会・講演会>北京原人の化石紛失をめぐる捕虜の動き
 
学習会・講演会

北京原人の化石紛失をめぐる捕虜の動き
〜太平洋戦争開戦時、日本占領地の捕虜収容所について〜

手塚 尚

日時:2008年10月25日
場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス

開戦直後の状況

太平洋戦争開戦直後、日本軍中央は善通寺・香港・シンガポール・バンコクに捕虜収容所を設置する計画を立てた。そして、42年1月14日に主にグアム島の捕虜を中心に善通寺収容所が、1月31日に英軍捕虜を中心に香港収容所が、2月1日にはウェーク島や上海・北京などでの捕虜を中心に上海収容所が開設された。「南方」での開設は数ヶ月遅れる(註1)。当時中国にいた外国軍は、義和団事件後に結ばれた議定書が認めた北京・天津間の駐兵権、それに基づく駐屯軍、それに、各都市の租界地の治安維持をおこなっていた駐屯軍であった。40年9月の日本の北部仏印進駐頃から対日関係が悪化し始めると、中国から本国や東南アジアなどに撤退する兵隊が多くなり、開戦直前には上海・北京・天津などに残留する外国軍は150名ほどになっていた。

開戦 日本軍の北京占領

北京原人化石が発見された周口店遺跡の発掘は、ロックフェラー財団などの協力の下、国際的チームで20年代から続けられ、発掘品は同財団の援助で建てられた北京の協和医学院に納められ、研究が行われていた。この状況の中で開戦となったのである。協和医学院にも接収部隊が送られた。命令を下したのは、開戦前日に北京派遣軍司令部軍医部長として赴任した娜野巌(ナギノ・イツキ)軍医中将である。娜野は東京帝国大学人類学研究室の創設者の一人小金井良精博士の甥で、原人化石の意味を十分理解しており、接収小隊に松橋軍医大尉を加えた点から見ても、接収目的の一つに原人化石確保があったのは明らかであろう。接収部隊は職員や医師を帰宅させて自宅軟禁とし、医学院の中の金庫その他の物品に封印をし、警備兵を配置して帰宅した。したがって日本兵が医学院内を勝手に離脱するなどのことはなかったのである。

開戦時に天津方面で日本軍の捕虜になった米海兵隊員は120名ほどである。彼らは泰皇島(註2)にある米軍の基地キャンプ・ホーカムに集められた。開戦当日8日午後1時30分に接収部隊がキャンプに到着するが、それまでに内部清掃は済み、武器なども庭の隅に整然とまとめられ、特に混乱はなかった。そして上海の収容所に(船で?)移送された。なお、敵国の民間人は山東省い県の敵国人抑留所に収容された。

原人化石紛失の噂

42年の初夏、新聞(英字紙が初)に「原人化石が紛失」「偽物にすり替えられている」などの報道が出始める。娜野らは本物であることを示すために、東大の長谷部言人(コトンド)教授・高井冬二講師に確認のため北京に来るよう依頼した。当然、日本政府・軍部の許可の下で、一行には新聞記者の同行が許され、「周口店遺跡調査行」という連載記事の掲載も認められた。記事は42年8月23日に掲載が始まり、少なくとも二回は連載された記事の一回目は、周口店までの行程と同行者の紹介(化石の発見者・輩文中もいる)。二回目は発掘地点の見学記事が続く。二回目の記事は「(発掘地点は)既に殆ど隈なく発掘しつくされた感があった」という語で終わっている。当然次の読者の興味は、発掘された化石はどんなものか、ということになる。ところが封印を切り、開けられた金庫は空だったのである。当局も原人化石紛失が事実であることを認めざるを得なかった。松橋氏は、戦後「接収時に化石のなかった事を確認した」と証言しているが、疑問である(註3)。

日本側の調査の結論

化石紛失が明らかになってからほぼ一年後の43年7月2日、当局の調査の結論を示す記事が出た。「北京原人の頭蓋骨の行方 まだ大陸に隠匿 持逃げに米国失敗か」が結論である。記事にしたがって日本側がつかんだ事実を追ってみよう。42年夏に紛失が明らかになったことを記した後、原人研究者が41年7月(4月とも)米国に帰国したワイデンライヒの秘書らが化石を梱包、11月末に医学院院長らの手で木箱は米国兵営に移された。北京からの撤退を急いでいた海兵隊の指揮官アシャースト大佐は、11月24日から12月4日までの間に、化石の梱包箱も含め4090個に及ぶ荷物を四回に分けてキャンプ・ホーカムなどに移送した。しかし開戦のため兵員も荷物も日本軍に押さえられ、持ち出しは失敗した。そして、紛失発覚後におこなわれた日本側の調査でも、原人化石は発見できなかったのである。

では、天津の海兵隊員が何という船を待っていたのだろうか。ハリソン号という客船が、41年12月2日上海からの撤退部隊を乗せマニラに到着した。乗客を下ろすとすぐハリソン号は上海に戻ったが、開戦となり長崎丸に拿捕されてしまう。梱包箱の量から見てもこのハリソン号の可能性が高いのではないだろうか(註4)。

噂の出所

原人化石は開戦直前に梱包されて海兵隊に渡されていた。だが、開戦当時日本側には原人化石が紛失した、という認識はなかったのである。では、紛失の噂はどこから出たのであろうか。ここから先は多分に私の推理が入ってくるが、一つの可能性として提起したい。

上海の捕虜収容所に収容された大部分の者は、ウェーク島で捕虜になった者たちであった。彼らは新田丸で1月18日に横浜に到着、20数名は下船したが残りの1200名ほどは上海に向かった。上海到着の数日前悲劇が起こった。捕虜の中から5人が選び出され、刺突訓練の対象とされ虐殺されたのである(新田丸事件という)。日中戦争中に日常的に行われていた行為が、米人捕虜虐殺につながったのであろう(註5)。ウェーク島の捕虜たちもこの事件は知っていた。当然なんらかの対抗処置を考えただろう。そして実行したのが収容所からの脱走だった。俘虜情報局編『俘虜取扱の記録』には以下の記録がある。

上海俘虜収容所では、(略)元上海方面英国海軍最高指揮官ウーリ海軍中佐、下ウェーク島最高指揮官カニンガム米国海軍中佐、元上海ウェーク号艦長スミス海軍中佐、ウェーク島元CPNAB総監督テタース、ウェーク号元水夫劉宝顕は、42年2月11日夜間、濃霧に乗じて逃走し、4月12日に上海市内で潜伏中逮捕された。(註6)

脱走は勝手に行うのではなく、仲間の同意の上、外に伝える情報も精選した上で行うのである。情報とは、自分たちの状況、新田丸事件の事、ウェーク号の接収などであろう。脱走メンバーを見ると、収容所集団の長ばかりである。参加していないのは天津海兵隊指揮官のアシャースト大佐だけである。彼が天津からの荷物の搬出に失敗したことを外部に伝えて欲しいと頼んだ可能性は十分ある。5人に軍法会議で判決が出たのは6月2日である。帰ってこなかった者もいるが、任務が成功したかどうかは捕虜にはわからない。判決が出た頃をねらい、任務に成功したことを間接的に伝えて逮捕された5人を勇気づけ、もっとも捕虜への危害が少なく、日本政府・軍部の威信を揺るがす情報として、原人化石紛失の情報が流されたのではないだろうか。この推理、いかがなものでしょうか。

なお、カニンガム中佐は脱走の罪で日本敗戦まで留置、またアシャースト大佐は45年5月、朝鮮経由で日本に送られ、北海道西芦別炭鉱で労働に従事し、戦後帰国した(註7)。

原人化石の行方

泰皇島に集められていた梱包物は日本軍の手に渡った。アシャースト大佐たちも身辺の私物以外上海に持ち込むことはできなかったであろう。梱包物から戦利品を探す際、原人化石が協和医学院にあると思っている以上、上官から原人化石に注意せよ、という指示もなかったはずである。そうした中で「骨格標本」とでも思われて破棄されてしまったのではないだろうか。残念だが、私にはそうとしか思えない。

1 俘虜情報局編『俘虜取扱の記録』1955 未公刊。「俘虜」という表現が当時の正式のものだが、本文では「捕虜」という一般的な表現で統一する。

2 天津から北東に海岸沿いに直線で220㎞ほどにある良港。島ではない。かつての秦の始皇帝が註したのでこの名がある。すぐ東の山海関は長城の起点。1898年に開港され、唐山炭鉱の石炭輸出港として、また避暑地としても有名。

3 新聞記事の写真は、後にあげる記事も含め、以下の本に記載されている。
  NHK歴史への招待22『北京原人はどこへ消えた 前・後』日本放送協会出版1982。

4 ハリソン号は勝鬨丸と名を変え、日本の輸送船として活動したが、44年9月12日に捕虜950人を移送中に魚雷攻撃を受け沈没。この事実はP研会員三輪祐児氏のご指摘による。氏には『海の墓標』展望社2007の著作がある。

5 「新田丸事件」については、GHQ日本占領史5『BC級戦犯裁判』日本図書センター1996参照。

6 この時に脱走したかどうかは不明だが、成功した者にはキニー少尉、マックアリス少尉がいる。R.J.Cressman “A Magnificent Fight” Naval Institute P.1995. ウェーク号とは、上海で拿捕された米駆逐艦で、以後「多々良」と改名し日本の駆逐艦として戦争を戦い抜き、戦後米国に返還された。

7 白戸仁康『北海道の捕虜収容所』道新選書2008 206頁の写真の前列左端が本人。

8 原人化石については、松崎寿和『北京原人』学生社1973があるが、この本にはフィクションや思いこみが多く、引用には注意を要する。この点については、中薗栄助『鳥居龍蔵伝』岩波書店1995が的確な指摘をしている。