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本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士

中部軍管区

(注)中部軍管区は、1945年6月以後、大阪、京都、兵庫、滋賀、奈良、和歌山、福井の各府県を管轄。

凡例

墜落した年月日 墜落した場所
墜落した機体・所属部隊・墜落の状況
乗員の状況
1945年3月14日午前3時30分頃 大阪市東区南久宝寺町二丁目
B29(機体番号42−24754、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。
 爆撃で炎上中の市街地に墜落。
 (注)作戦任務第42号(目標:大阪市街地、第73・313・314航空団から出撃295機、損失2機)
機長のJohn K.ELLINGSTON少尉など9人が死亡。バラバラになった機体に黒こげの死体。米軍の戦後調査でエンジン等を確認。同行の米軍機からの「1名がパラシュート降下」との報告もあるが、確認できず。
1945年3月14日
大阪市を空襲したB29(機体番号42−24610、第73航空団498爆撃群所属)が、マリアナ基地に帰着して毀損と判定された。
 (注)上記作戦の損失機2機のうちの1機
種子島付近の上空で左銃座が破損し、Harold L.NEWELL軍曹が海上に投げ出されて溺死。他の搭乗員は生還。
1945年3月17日午前3時頃 神戸市中央区再度山の山頂付近
B29(機体番号42−24849、第73航空団500爆撃群所属)が墜落。
 伊丹基地から発進した陸軍飛行第56戦隊の緒方淳一大尉操縦の飛燕の体当たり攻撃による。「朝日新聞」3月23日付によると、「再度山の山頂にはB29の醜い尾翼の残骸が叩きつけられてをり、憎みても余りある米兵の五つの死体が目白押しになっていた。だが大尉の体当たりが・・・・示すのは・・・再度山の現場から約千米はなれた尾根を二つ越した先に叩き落とされている敵機の胴体で、この胴体の中に緒方機の脚と冷房機が深くめり込んでいた。」とある。
 (注)作戦任務第43号(目標:神戸市街地、第73・313・314航空団から出撃331機、損失3機)
搭乗員11人のうち、機長のRobert J. FITZGERALD少佐など9人が死亡。
 Robert W. NELSON少尉とAlgy S. AUGANUS軍曹の2人がパラシュート降下して、午前9時ごろ、再度山の中腹で捕まり、大阪城前の中部憲兵隊司令部へ送られた。5月頃に石切(現・東大阪市)の大阪陸軍刑務所に移され、7月18日に大阪城内の中部軍司令部で軍律裁判にかけられ、無差別爆撃との理由で、泉南郡の横山射撃場(現・和泉市福瀬町)で斬首された。
 再度山の敵性外国市民抑留所に抑留されていた神戸市在住のイギリス人貿易商Harold MASONが、戦後、占領軍の尋問に答えて語ったところによると(GHQ資料)、神戸空襲中の午前3時頃、B29が2つか3つに分解して、1つは抑留所から800メートルぐらいの所に、尾翼部分はその反対側の500メートルぐらいの所に墜落した。パラシュート2個が開き、その1人はネルソンで、2人の警官に捕まり抑留所に連行された。もう1人はオ−ガナスで、足にケガをしていたと聞いた。遺体の1つは抑留所の下の山道に落ち、警官によって仮埋葬された後、3日後に軍によって再埋葬された。また、尾翼部分に5つの遺体があり、軍によって3〜4日後に埋葬されたが、MASONを含む何人かの抑留者によって7〜10日後に再埋葬された。他の2遺体は抑留者たちによって抑留所の下の丘で発見された。さらに1ヶ月後、もう1遺体が抑留所の上のレクリエ−ション庭で発見され、近くに埋葬された。
 
【再度山の大龍寺住職夫妻の話】
 夜が明けてから、寺の北にある塩が原池(修法が原池)の西側の松林(現在の再度山公園の有料駐車場から山道を少し登った所)にB29が墜落しているのを知って見に行った。現場にはまだ誰もおらず、胴体がドーム状にちぎれたB29の機体の残骸があり、座席に着いたまま死んでいる何人かの飛行士の遺体も見えた。顔を見ると童顔の残る若い兵士たちで驚いた。機体は燃えてはいなかった。付近には、海に落ちた時に使う救命具や、アメ、チョコレートなどの食料品が散乱していた。その後、もう一度見に行った時には既に警官が来て立ち番をしていた。
 飛行機の残骸は日本軍が片付けた。遺体は墜落現場に埋められ、戦後、米軍が来て回収した。米軍の遺体回収は、土を掘ってふるいにかけ、骨のかけらまでも回収する徹底したものだった。再度山公園のあたりには戦後も進駐軍が駐留していて、付近へ仕事をしにいくと、よくアメやチョレートをくれた。
 このB29は、緒方大尉機の体当たりによって撃墜されたものと聞いた。墜落の数日後、寺の南の猩々池の近くで緒方大尉の遺体と戦 闘機が発見され、慰霊祭が行われた。日本軍戦闘機はB29に比べるととても小さかった。残骸は戦後も長く放置してあった。
 なお、大龍寺には、1999年に、陸軍飛行第56戦隊の関係者らによって緒方大尉の慰霊碑が建立され、2007年には死亡したB29搭乗員の名前を書いた銘板も設置された。
1945年3月17日未明 兵庫県明石郡押部村(現・神戸市西区押部谷町)木津
B29(機体番号42−63546、ニックネーム「INDIANA」、第313航空団9爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機3機のうちの1機
機長のGeorge S.CHRISTIE中尉など11人全員死亡。墜落現場付近に6遺体が確認され、埋葬。その他の遺体は不明。墜落現場付近は、現在は工業団地になっているが、以前は墓標もあったとのこと。
1945年3月17日 神戸とテニアン島の間の海上
B29(機体番号42−65242、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。
 目標上空付近で爆発した模様。
 (注)上記作戦の損失機3機のうちの1機
機長のGeorge W.SHAFFERなど10人全員死亡。
1945年3月19日 神戸港沖
空母ハンコックから飛来したSB2C(機体番号19480)が墜落。
2人死亡。このうち操縦士のDale A. BARROWS中尉の遺体は、同日に神戸市灘浜の海岸に漂着。もう1人の乗員Franklin R. GORDON二等飛行通信兵曹の遺体は、5月22日に神戸市三菱造船所に漂着。
 戦後、米軍は、2人が海上に不時着して脱出、その後殺された可能性もあるとして調査したが、証拠はつかめなかった。
1945年5月5日午前10時過ぎ 和歌山県日高郡上山路村(現・龍神村)字殿原
B29(機体番号44−69899、第73航空団497爆 撃群所属)が墜落。
 呉の広海軍航空廠を攻撃予定の飛行機が、損傷等の理由により進路を変更し、臨機目標の名古屋または串本に向かったものと推定 される。北から南へ飛行中に、竜神村上空で日本軍の戦闘機の攻撃を受け、3つに分解して墜落。
 (注)作戦任務第146号(目標:広海軍航空廠、第58・73航空団から出撃170機、損失2機)
搭乗員11人のうち7人が死亡。墜落現場付近に遺体がバラバラに散らばり、住民によって埋葬された。戦後、村民によって建てられた米兵の慰霊碑が現存。
 捕虜搭乗員4人の処遇は以下の通り。
 機長のJoe S.McSPADDEN少尉とLogan M.SPARKS二等軍曹は、墜落地点付近で捕虜。村役場に1晩留置し、翌日、御坊憲兵分隊、和歌山憲兵隊を経て、大阪の中部憲兵隊司令部に送られ、中部第22部隊に収容。SPARKS二等軍曹は7月20日に信太山演習場で処刑。McSPADDEN少尉は8月15日午後に真田山陸軍墓地で処刑。
 Harry J.FOLEY少尉とEarle P.FLANAGAN二等軍曹は5月9日まで逃亡を続け、西牟婁郡二川村(現・中辺路町)大字小松原で村民に捕まり、中部憲兵隊司令部へ送られた。FOLEY少尉は病死または処刑、FLANAGAN二等軍曹は7月20日に信太山演習場で処刑。
1945年5月5日 サイパン島の沖合
B29(機体番号42−63416、第73航空団498爆撃群所属)が墜落。
 サイパン基地を発進直後に海上に墜落。
 (注)上記作戦の損失機2機のうちの1機
7人死亡、4人は米軍が救助。
1945年5月9日午前0時23分頃 大阪府布施市(現・東大阪市)高井田三丁目
B29(機体番号42−63600、第315航空団501爆 撃群所属)が墜落。
 単機で大阪を偵察飛行中に高射砲によって撃墜された。
機長のGARRETTなど10人が墜落死。6〜7人分の遺体が確認され、布施市の小坂斎場と長瀬斎場で火葬。
 Richard HAMILTON大尉が、布施警察署員や警防団員らによって捕まり、布施警察署、布施憲兵分隊を経て、自動車で中部憲隊司令部に護送、中部第22部隊に収容された。7月20日に信太山演習場で処刑。
 
【東大阪市高井田の男性(当時17才)の話】
 隣家にB29のエンジンが落下、奥さんと赤ちゃんが死亡した。その南隣の鉄工所には、パラシュートが開かなかった米兵の1人が屋根を突き破って落下、工作台の上に棒立ちの状態で死んでいた。機体は近くの田んぼやネジ工場に墜落し、残骸の中から見つかった米兵の遺体は現場付近の畑に集められ、数日間は放置して市民にさらしていた。大勢の見物人が近鉄の駅から列をなしてやって来て、遺体を踏みつけるなどした。
1945年5月11日 神戸市とグアム島の間
B29(機体番号42−63571、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。
 離陸時に海に墜落。
 (注)作戦任務第172号(目標:神戸−川西航空機工場、第58・73・314航空団から出撃102機、損失1機)
機長のClemence W.HALTEMAN Jr.少尉など11人全員死亡。
1945年6月1日午前10時頃 兵庫県津名郡(淡路島)沖の大阪湾
B29(機体番号44−70083、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第187号(目標:大阪市街地、第58・73・313・314航空団から出撃509機、損失10機)
機長のWILKINSONなど11人全員死亡。Alfred F.KNIZNICK中尉の遺体が、6月14日に兵庫県本庄村に漂着、深江の公共墓地に埋葬。Thomas A.SPENCER軍曹、Richard J.POULSEN中尉、Robert M.HASSAN軍曹の遺体が6月17〜19日に淡路島に漂着、津名郡浦村や塩田村の公共墓地に埋葬。その他の乗員の遺体は不明。
【元大阪捕虜収容所軍曹沢村さん(1922年生まれ)の話】
 当時、築港にあった大阪捕虜収容所本所の屋上の対空監視所から空襲を見ていた。大阪湾からB29の大編隊が続々と姿を現し、大阪港の高射砲が火を吹いたところ、先頭の1機が機首を吹き飛ばされて大きくのたうつようにして墜落していった。後に、海岸に米兵の遺体が転がっていて、蹴っ飛ばしたのを覚えている。収容所と周辺の民家は全部焼けて、捕虜たちは無事だったが、大勢の市民の死体の山ができた。収容所で赤十字の旗を出したところ、負傷した市民たちが救護を求めて続々集まって来た。
1945年6月1日午前10時前 和歌山県西牟婁郡潮岬村(現・串本町)字出雲マゴイチ谷及び湾内
2機のB29(機体番号42−63496、ニックネーム「NAUGHTY MONEY」と、機体番号42−65270、ニックネーム「BIG POISON SECOND DOSA」、いずれも第58航空団444爆撃群所属)が空中衝突して墜落。
 (注)上記作戦の損失機10機のうちの2機
両機の20人が墜落死。死者の遺体は、ショバ谷海岸に1人、権現谷に5人、権現谷公共墓地に2人、萩尾の松林に1人、憲兵隊の命令を受けて住民が埋葬した。その他11人分の遺体は行方不明。
 捕虜搭乗員2人の処遇は以下の通り。
 42−65270機のJohn F.MCGOWAN中尉は、潮岬村字ウンノ、ショバ谷海岸の沖合1キロの海上にパラシュート降下。5〜6人のツチヤ部隊の兵士がボートを漕ぎ出して救助。手足にケガをしていたので、ツチヤ部隊の医者が応急手当を施した後、串本憲兵分隊に連行された。42−63496機のRobert L.BARR二等軍曹は、東牟婁郡大島村字松山の村有林の中で、クライ部隊の兵士に捕まり、串本憲兵分隊に連行された。
 2人ともケガをしていたので、海軍航空部隊の軍医が手当し、午後1時頃、和歌山憲兵分隊を経て、中部憲兵隊司令部へ移送、中部 第22部隊に収容された。
1945年6月1日午前10時15分頃 奈良県吉野郡天川村の大峰山山上ヶ岳
B29(機体番号42−65348、第73航空団497爆撃群 所属)が墜落。
 大阪を空襲後、高射砲弾を受けて損傷、煙をはきながら南東方向へ飛行、山上ヶ岳東側の上多古川の深い谷に墜落。奈良憲兵分隊の5人と地元民を含む捜索隊は、道が険しいので翌日まで現場へ到着できなかった。
 (注)上記作戦の損失機10機のうちの1機
機長のFranklin W. CROWN中尉など7人が墜落死。焼け焦げた残骸に混じって6遺体があり、大峰山阿古滝の大三枚墓地に埋葬(戦後、十字架を建てて慰霊を装った?)。あと1遺体はエンジンの下敷きになっていた。
 捕虜飛行士4人の処遇は以下の通り。
 Harrison K.WITTEE中尉とLawrence W.BERCRAFT軍曹は、6月2日に山上ヶ岳山頂の大峰権現宿坊に現れて捕虜。4日に下市に駐屯していた陸軍部隊員に引き渡され、奈良憲兵分隊を経て、大阪の中部憲兵隊司令部へ連行、中部第22部隊に収容。7月20日に信太山演習場で処刑。
 Alvin K.HART一等軍曹は、6月3日に吉野郡川上村小笹宿付近で捕虜となり、麓の上多古村の玉井旅館へ連行。顔にヤケドを 負っており、上多古村の医者の手当を受けた。その夜は玉井旅館に留置され、翌朝、奈良憲兵隊員に警護され、川上村のタクシーで大阪へ向かい、中部憲兵隊司令部に引き渡された。留置中病死と思われ、真田山陸軍墓地に埋葬された。
 Russell W.STRONG二等軍曹は、6月6日に吉野郡天川村タカセ谷(神童子谷?)で山林作業員に発見され、洞川警察署員が逮捕。同日、下市警察署から奈良憲兵分隊を経て、中部憲兵隊司令部へ移送。墜落時の負傷、または抑留中の病気が悪化し、7月31日頃、中部憲兵隊司令部で毒殺。
 なお、このB29のエンジンは、2006年7月に墜落現場から回収され、天川村立資料館に保存・展示されている。
 
【川上村北和田の女性(当時26才)の話】
 玉井旅館はダム建設によって引っ越したので今はない。玉井旅館の向いに川上村の役場の支所があったので、捕虜はそこへ連れて 来られていた。私も捕虜を見たが、特に目隠しとか後ろ手に縛られるというようなことはなく、捕虜もおとなしくしていた。大勢の人が集まって来て、中には捕虜を足で蹴っている人もあったが、私は「そんなことをしなくてもいいのに」と思った。上多古の知人の女性は、終戦後B29の残骸を山から運び出すのを手伝ったそうだ。
 
【天川村洞川の女性(当時20代)の話】
 出征中の夫の留守を守って子供と豊中で暮らしていたが、空襲が激しくなってきたので洞川の実家へ帰っていた。そのころはいつもB29の編隊が村の上空を行き来していたが、当日は1機だけ低空で飛んで来て大きく見え、日本の飛行機がそれを 追尾していた。山上ヶ岳の向こうに姿が隠れ、山から煙が上がるのが見えた。その後、山から捕虜米兵が2人連れて来られた。顔に火傷をしていたらしい。目隠しとか後ろ手に縛られるということはなく、普通に歩いていた。黒っぽい服を着ていた。村の人たちは、殴るとか蹴るとかいうことはなく、物珍しそうにぞろぞろついて歩いていた。村のバスの停留所のあたりからトラックに乗せられて運ばれて行ったが、その時、米兵は村人たちに手を振っていたそうだ。彼らは捕まった時、砂糖・キャンディー・チョコレートなどをたくさん持っていたと聞いた。
 
【下市町の男性(当時小学2年生)の話】
 当日はB29が大きく見えて、煙を吐きながら飛んで行ったのを覚えている。捕虜が下市警察署に連れて来られていた。 縛られるとか目隠しとかいうようなことはなく、普通の格好だったように思う。警察署には、B29の補助タンクらしいものが置いてあって、それにまたがって遊んでいたのを覚えている。 大阪が空襲を受けた時は、下市からでも西北の空が真っ赤になるのが見えた。
1945年6月1日 大阪とマリアナ基地の間
以下の6機のB29が失われた。
 (注)上記作戦の損失機10機のうちの6機
B29(機体番号42−24741、第73航空団497爆撃群所属)
 大阪へ向かう途中、エンジンの故障で海上に墜落。
2人死亡、10人は米軍が救助。
B29(機体番号44−69765、第73航空団498爆撃群所属)
 大阪へ向かう途中、エンジンの故障で海上に墜落。
12人全員米軍が救助。
B29(機体番号42−65364、ニックネーム「SKY SCRAPPER」、第314航空団39爆撃群所属)
1人死亡、機長のWilliam ORRなど10人は米軍が救助。
B29(機体番号不明、第314航空団330爆撃群所属)
 硫黄島で損失。
操縦士は死亡、他の10人は米軍が救助。
B29(機体番号42−24542、ニックネーム「LADY HAMILTON Ⅱ」、第58航空団468爆撃群所属)
機長のGordon A.JOHONSON中尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24524、ニックネーム「SUPER MOUSE」、第58航空団444爆撃群所属)
機長のClifford J.ANDERSON中尉など10人死亡、他の1人は米軍が救助。
1945年6月1日 大阪と硫黄島の間
P51(機体番号44−72572)が墜落。
 この日は悪天候のため、大阪へ向かった148機のP51のうち、上記を含めて27機が太平洋上で失われ、24人の操縦士が死亡した。
Edmond M.CROSSMAN大尉が死亡。
1945年6月5日午前8時頃 京都府久世郡小倉村伊勢田(現・宇治市伊勢田町)
B29(機体番号42−65336、ニックネーム「ACID TEST Ⅱ」、第58航空団462爆撃群所属)が墜落。
 神戸を空襲してマリアナ基地へ帰還中、京都付近の高射砲弾により損傷、伊勢田上空で火を吹いてバラバラになって墜落、炎上。
 (注)作戦任務第188号(目標:神戸市街地、第58・73・313・314航空団から出撃530機、損失11機)
機長のEugene F.TORVEND少佐など6人が墜落死。遺体は火葬して現場近くの名木川の河原に埋葬。戦後、久世郡佐山村字 佐古の公共墓地に移した。1945年11月に米軍が遺灰を回収。
 墜落現場付近に落ちていたTORVEND少佐の飛行帽とレシーバーが、当時中学生だった京都市在住の男性によって保管されてお り、1995年10月にアメリカの遺族に返還された。
 6人がパラシュート降下し、小倉飛行場(京都飛行場)の兵士によって捕らえられ、昼ごろトラックで伏見憲兵分隊へ、夕方、中部憲兵隊司令部へ送られた。
 このうち4人の氏名は、右のように推定される。William A. McCARTY大尉、Charles F. SCHRECK少尉、Robert F.T.BARRETT准尉の3人は、戦後の米軍の調査時に、元伏見憲兵分隊の隊員や通訳が名前などを記憶。Clarence E.SCRITCHFIELD伍長は、戦後の米軍調査で、7月20日に信太山演習場で処刑されたことが判明。
 その他の2人は、右記7人のうちのいずれかである。Ralph J. BILSING伍長、Daniel E. DAVIS Jr.少尉、James T.KINSELLA Jr.准尉、Dillard R. JACKSON二等軍曹、Bernard J. McGILIAN伍長、Clifford A. WALTER一等軍曹、Norman C. ANDERSON伍長。
1945年6月5日午前8時30分頃 京都府綴喜郡青谷村(現・城陽市青谷)奈島の木津川東岸
B29(機体番号44−69766、ニックネーム「BURBANK CITY,OLD SOLDIER’S HOME」、第314航空団330爆撃群所属)が墜落。
 三重県明野教導飛行師団の檜与平大尉指揮の五式戦闘機部隊の攻撃を受け、井手町上空で煙を噴いて降下旋回し、木津川の河原に不時着を試みて爆発炎上した。現場には機体の残骸や搭載物が散乱し、機銃弾がパチパチと破裂していた。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
5人が機体とともに墜落死。焼けこげた遺体は憲兵隊の命令で現場付近に埋葬されたが、戦後、近くに埋葬し直し、青谷村の深広寺には日本語と英語で「B29搭乗五勇士英霊」と書いた位牌が納められた。1946年3月に米軍が遺灰を回収。
 6人が、綴喜郡青谷村(2人)、多賀村(3人)、草内村(1人)などにパラシュート降下して捕まり、井手警察署へ集められた後、昼ごろトラックで伏見憲兵分隊へ、さらに夕方、中部憲兵隊司令部へ送られた。
 彼らの氏名は以下のように推定される。
 Donald J. SCHLITZ中尉(機長)は、戦後の米軍調査で、8月15日午後に真田山陸軍墓地で処刑されたことが判明。
 Anthony A. PICCIANO少尉とRobert G. SCOTT少尉は、戦後の米軍調査時に、元伏見憲兵隊員や通訳が名前を記憶。
 James H. DAVIDSON伍長は、戦後の米軍調査時に、中部憲兵隊に留置されていた日本人の同室者が名前を記憶。
 Leonard W. HOLM准尉は、獄死と思われ、戦後の米軍調査で、真田山陸軍墓地で遺体を発掘。
 George C. REED二等軍曹は、戦後の米軍調査で、7月20日に信太山演習場で処刑されたことが判明。
1945年6月5日午前8時ごろ 兵庫県武庫郡山田村(現・神戸市北区山田)東下
B29(機体番号44−70008、第314航空団29爆 撃群所属)が墜落。
 神戸空襲中に対空砲火を受けて空中爆発、破片は広い範囲に散らばり、主要部分は山田村に落ちた。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
機長のFRANKLINなど9人が墜落死。
 1人はパラシュート降下したが、着地時死亡していた。2人は飛行機から投げ出されて死亡、4人は胴体部分の墜落で死亡。他の2人 は行方不明。憲兵の指令で住民が5人分の遺体と、数日後に1〜2人分の遺灰を山田村の公共墓地に埋葬。
 捕虜飛行士2人の処遇は以下の通り。
 George C. PEARE二等軍曹は、山田村東下の奥長谷の近くで捕虜。10時ごろ兵庫警察署から県警外事部へ連行され、神戸憲兵分隊へ引き渡され、同日に中部憲兵隊司令部に収容。戦後、真田山陸軍墓地で遺体が発掘された。
 John R. VINCENT二等軍曹は、捕虜になった経過は上と同じ。7月20日に信太山演習場で処刑。
1945年6月5日午前8時前 神戸市三菱造船所の東南400メートルの海上
B29(機体番号48−24809、ニックネーム「INDIAN   MAID」、第313航空団505爆撃群所属)が墜落。
 神戸港付近の高射砲によって撃墜された。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
機長のEdward FISHKIN大尉など5人が墜落死。
 下記6人がパラシュート降下し、神戸港税関付近で3人、三菱造船所で1人、苅藻島で1人、神戸の近郊で1人が捕まり、神戸憲兵分隊に集められて尋問を受けた。昼頃、トラックで中部憲兵隊司令部に送られたが、その途中、トラックは兵庫県庁へ立ち寄り、山田村の捕虜2人も乗せた。
 Henry W. SUTHERLAND Jr.軍曹(大阪憲兵隊で獄死?戦後、真田山陸軍墓地で遺体を発掘)、James N. FITZGERALD軍曹(7月20日に信太山演習場で処刑)、Harvey B. KENNEDY Jr.軍曹(7月20日に信太山演習場で処刑)、Joseph G. KANZLER軍曹、 John MEEHAN中尉、Osmond J. HANNIGAN軍曹
1945年6月5日午前 兵庫県三原郡(淡路島)沼島の東方沖
B29(機体番号44ー69965、第58航空団462爆撃群所属)が墜落。
 神戸空襲を終えた飛行機が南方へ飛行中に、日本軍戦闘機の攻撃を受けて海上に墜落。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
機長のCarl T. HULL大尉など6人が墜落死。
 5人が海上にパラシュート降下し、ゴムボートで沼島の海岸に漂着、沼島監視署の隊員や在郷軍人や青年隊員らに捕まった。米軍の戦後調査では、右記の5人と推定。Benton VAN HORN Jr.中尉、Arthur H. WEINBAUER二等軍曹、John N. ZINN二等軍曹、David F. McNALEY一等軍曹、Hershell D. BARRETT Jr.二等軍曹。
 彼らは、午後1時頃沼島の小学校に集められた後、由良要塞司令部に送られ、さらに翌日、神戸憲兵分隊を経て中部憲兵隊司令部へ送られた。
1945年6月5日午前9時頃 三重県名賀郡名張町(現・名張市)青蓮寺大谷
B29(機体番号44−69665、第58航空団468爆撃群 所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
機長のRobert L.ARNOLD大尉など2人は墜落死。
 三重県側にパラシュート降下して捕まった捕虜6人は名古屋の東海軍司令部に送られ、7月14日頃、東海軍司令部第二兵舎裏で斬首刑に処せられた。 ⇒東海軍管区の項参照
 奈良県側にパラシュート降下して捕まった捕虜3人の処遇は以下の通り。
 Roy M.YOUNG中尉は午前に、Theodore F.LADD二等軍曹は夕方に、奈良県宇陀郡三本松村大字竜口で捕虜。同日、榛原警察署から奈良憲兵分隊へ移送。翌日、中部憲兵隊司令部へ送られ、中部軍第23部隊に収容。
 Kenneth L.KIRKLAND二等軍曹は、奈良県宇陀郡曽爾村長野の山中に逃げ込んで6日に捕虜。同日榛原警察から奈良憲兵分隊を経て、中部憲兵隊司令部へ送られ、中部軍第23部隊に収容。
 
【奈良県宇陀郡室生村龍口の女性(1924年生まれ)の話】
 当時、結婚2年目の20才で、主人は出征していて、1才の子供と両親と暮らしていた。その日、畑仕事で峠の途中まで行った時、B29の編隊が上空を通過し、パッパッと白いものが落下するのが見えた。最初はビラをまいたのかと思ったが、そのうちに人の形が見えたので、米兵がパラシュート降下したと分かった。その時点では飛行機の墜落のことは知らなかったので、米軍の落下傘部隊が攻撃に来たのだと思った。とっさに赤ん坊のことが思い浮かび、動転して家へ飛んで帰った。母が「子供をみているから、お前は竹槍を持って行ってくれ」と言い、私は母に「死んでも子供を離さないで下さい」とお願いして、伯母と一緒にパラシュートの着地現場へ向かった。戦時中のことなので、死ということは意識していたが、米軍が降下して来たからには、いよいよ今日死ぬのかと思って本当に恐ろしかった。村には若い元気そうな人はほとんどいなかった。向かいの家のおじさんが現場へ行こうとせず、塀の間からこわごわ覗いているのを、うちの母が「女でも竹槍を持っているのに、男の人が何ですか。」と叱りつけていた。
 パラシュートは、南谷のお寺の後ろの柿の木に引っ掛かっていた。私たちは、男の人から「女は危険だからこれ以上近づくな」と制止され、男の人がそこへ行くと、米兵はパラシュートをはずして手を挙げて出て来た。赤ら顔のとても大柄な人で、少しケガをしていたようだった。米兵は、村に1軒だけ電話のある家へ連れて行かれ、誰かがそこから役場か警察に連絡したようだ。その間、誰も米兵と話をしたり、水や飲み物を与えることもなく、米兵もおとなしくじっとしていた。私の父は、三本松駅近くの森林組合に勤めていたが、電話で事態を知ったのか、森林組合の英語の分かる人を連れて帰って来た。すると、米兵は自分のポケットにタバコが入っているからと言って、タバコを出してもらって吸っていた。そのうちどこかへ連れ去られていった。(以上はYOUNGのことと思われる)
 夕方になって別の米兵が夫婦川の谷から出て来て捕まった。若いとてもきれいな人だった。(これはLADDのことと思われる)

【奈良県曽爾村の男性(当時10代)の話】
 B29が墜落したのは田植の頃で、黒煙を吐きながら山の北側に姿が隠れ、ドーンという大きな音がした。墜落の翌日、村の北側の屏 風岩のあたりから1人の米兵が出て来て捕まった。米兵はとても美青年だった。彼が持ち物を川に捨てたところ、川の水が青色に染まった。皆は毒だと思ったが、今から思うとそれは米機が海に墜落した時に、救助隊に居場所を知らせるための着色剤だったのだろう。米兵は連行された後、病死したと聞いた。(以上はKIRKLANDのことと思われる)
 
【元奈良憲兵分隊員口村さんの話】
 私は一兵卒で、「アメリカの捕虜を受け取りに名張へ行け」という命令を受けて行っただけなので、詳しいことは分からない。名張では山狩りをして、威嚇のためにピストルを2、3発ぶっ放した覚えがある。奈良憲兵分隊へ捕虜を連れ帰って、捕虜の持っていた救命ボートなどの持ち物を市民に公開した覚えがある。捕虜は5人護送したような気がする(大峰山の捕虜も合流した可能性?)。捕虜は、近鉄電車の車両を1両借り切って大阪へ護送した。大阪へ着いた時、空襲を受けている最中だったので(6月7日の空襲)、腹立ちまぎれに捕虜をぶん殴った。戦争といっても奈良は平穏だったので、あまり大した仕事をした覚えはない。これ以外では、橿原の方で空襲の被害があり、出動したことがある。
 8月6日に広島に原爆が落とされてすぐ、関西から50人の憲兵隊員が救援・治安維持要員として選抜され、その一員として広島へ行き、約1ケ月間救援活動や現場整理にあたった。広島は丸焼けで、たくさんの死体処理作業をした。貨物列車で奈良へ帰って来たら、憲兵隊員は皆復員してしまっていて、奈良憲兵分隊はもぬけの殻になっていた。それで、仕方なく田舎へ帰って暮らしていた。広島から帰ってから体の調子が悪くなったが、それは放射能の影響だと思う。以前に被爆者証明をもらおうと思ったことがあるが、戦後は憲兵隊との連絡は全くなく、広島へ行ったことを証明してくれる人も書類もないので、受け付けてもらえなかった。
 戦後3年間は公職にもつけず、生活するのが大変だった。名張のB29捕虜のことで、大阪のGHQ事務所へ呼び出されたのは覚えている。米軍はたびたびジープで迎えに来て、最初はそれほどでもなかったが、後にはかなり厳しく訊問された。
1945年6月5日午前 三重県度会郡島津村(現・南島町)古和浦
B29(機体番号42ー63451、ニックネーム「BLACK JACK TOO」、第58航空団444爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
2人が死亡、9人が捕虜になり、名古屋の東海軍司令部へ送られた。 ⇒東海軍管区の項参照。
1945年6月5日午前9時40分頃 三重県紀伊長島町付近の沖合
B29(機体番号42−24742、ニックネーム「T−SQUARE 31」、第73航空団498爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
7人が死亡、4人が米軍の潜水艦に救助された。 ⇒東海軍管区の項参照。
1945年6月5日 硫黄島
以下の3機のB29が不時着。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの3機
B29(機体番号42−24703、第58航空団所属)
 硫黄島へ着陸して毀損と判定。
死者なし。
B29(機体番号42−65248、第73航空団498爆撃群所属)
 硫黄島へ着陸して毀損と判定。
死者なし。
B29(機体番号不明、第313航空団所属)
 硫黄島へ着陸して毀損と判定。
1945年6月7日 大阪とテニアン島の間
以下の2機のB29が失われた。
 (注)作戦任務第189号(目標:大阪市街地、第58・73・313・314航空団から出撃449機、損失2機)
B29(機体番号42−24834、ニックネーム「THE MOOSE IS LOOSE」、第313航空団504爆撃群所属)
 機械の故障により、サイパン島の北40マイルに不時着。
5人死亡、機長のJames B.COLLIER大尉など6人は米軍が救助。
B29(機体番号42−93996、第314航空団19爆撃群所属)
 機械の故障による。
1945年6月15日 大阪とグアム島の間
以下の2機のB29が失われた。
 (注)作戦任務第203号(目標:大阪市街地、第58・73・313・314航空団から出撃511機、損失2機)
B29(機体番号42−93928、ニックネーム「CITY OF HARTFORD,CONNETICUT」、第314航空団29爆撃群所属)
 グアム島北方12マイルの海上に墜落。
機長のHenry A.HEYKE大尉など11人全員死亡。
B29(機体番号不明)
 グアム島で墜落。
1945年6月22日 和歌山県御坊市沖
B29(機体番号44−69893、ニックネーム「MAXIMUM EFFORT Ⅲ」、第314航空団19爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第216号(目標:三菱重工業水島航空機製作所、第314航空団から出撃123機、損失2機)td>
機体も遺体も発見できず、11人全員死亡と思われる。
1945年6月26日午前10時過ぎ 和歌山県日高郡美山村の清冷山の尾根
B29(機体番号44−69655、第73航空団499爆撃群 所属)が墜落。
 飛行機は北から南へ飛行し、右翼から火を噴きながら爆発、清冷山の尾根に墜落した。
 (注)作戦任務第224号(目標:大阪陸軍造兵廠、第73航空団から出撃120機、損失1機)
機長のJames P. NEWELLなど2人が墜落死。寒川のハンモトキョウ、レイザンに遺体。1946年10月に米軍が回収。
 9人がパラシュート降下して捕虜。そのうち以下の6人は、同日に日高郡寒川村の串本(1人)、川上村の猪谷(2人)、川上村の滝頭(3人)で捕まり、御坊憲兵分隊、和歌山憲兵分隊を経て、中部憲兵隊司令部に送られた。
 David W. COBB中尉、Paul L. SISSON中尉、Harold T. COBB中尉(8月15日に真田山陸軍墓地で処刑)、Robert L. PELLICOT軍曹(8月5日頃、城南射撃場で処刑)、Louis W. LEHNEN中尉(8月5日頃、城南射撃場で処刑)、Leo G.COPULOS一等軍曹
 また、John N. WALL Jr.二等軍曹、Raymond F. SHIBER軍曹、Howard R. WOLESINGLE二等軍曹の3人は、7月2日まで山中を逃亡していたが、日高郡真妻村(現・印南町)大字川又の森で捕虜。真妻村の巡査に引き渡され、御坊憲兵分隊、和歌山憲兵分隊を経て中部憲兵隊司令部に送られた。 
1945年7月初め 兵庫県住吉村の海岸
米兵と思われる死体が漂着。
1945年7月10日午後1時頃 大阪府南河内郡狭山村(現・狭山市)茱萸の木の田んぼ

 大正飛行場(八尾飛行場)を爆撃した帰りと思われる4機のP51の編隊のうちの1機が、低高度で火を噴いて墜落、爆発した。
Frederick R.ERNEST中尉は、機体から20メートルぐらいの所へ投げ出されて死亡しており、付近に埋葬。
1945年7月24日 大阪府沖の大阪湾
B29(機体番号44−70132、第58航空団444爆撃群所属)が墜落。
 同行の米軍機からの報告によると、この飛行機は日本軍の対空砲火を受けて2つに割れ、3人が脱出するのが見えたが、2つのパラシュートは開かなかった模様。
 (注)作戦任務第284号(目標:大阪−住友金属工業、第58航空団から出撃90機、損失1機)
機長のSEYMOURなど10人が墜落死。そのうちの1遺体が、8月上旬に泉大津のコトブキ製鉄所から300ヤ−ドの海岸で発見され、泉大津市小松町の公共墓地に埋葬。その他の遺体は不明。
 James R.PRICE少尉が捕虜になり、中部憲兵隊司令部へ送られたが、重傷により治療の見込みなしとして毒殺された。
1945年7月25日午前6時30分頃 滋賀県蒲生郡平田村(現・東近江市)羽田
空母ベローウッドから飛来したF6F(機体番号77489)が不時着。
 八日市飛行場を攻撃に来て、日本軍の戦闘機と空中戦になった。
Herbert L. LAW海軍少尉が、田んぼに不時着した飛行機から脱出して捕虜。八日市憲兵分隊、大津憲兵分隊を経て中部憲兵隊司令部へ送られた。8月9日頃、情報収集のため東京の憲兵司令部へ送られ、戦後、米国へ帰還。
 
【地元の女性(当時17才)の話】
 早朝から農作業をしていた時、空襲警報が鳴り、米軍機が煙を吐きながら田んぼに不時着した。パイロットは飛行機から跳び出して一目散に山中へ逃げ込んだが、間もなく村の人々に捕まった。私たちは若い娘だったので、怖くて怖くて、物陰に隠れて震えながら見ていた。
1945年7月25日午前7〜8時頃 滋賀県愛知郡東押立村(現・東近江市)
空母ベローウッドから飛来したF6Fが墜落。
 八日市飛行場を攻撃した米軍機に、同飛行場から発進した陸軍飛行第244戦隊の小原伝大尉操縦の五式戦闘機が体当たりした。
 この墜落により、民家1軒が炎上。
 小原大尉はパラシュート降下したが1時間後に死亡。
F6FのパイロットC.R.WHITEは田んぼに墜落と同時に死亡。愛知郡東押立の平松墓地に埋葬。
1945年7月30日午前9時〜10時 兵庫県伊丹市の伊丹飛行場
TBMが墜落。
 伊丹飛行場を攻撃中、対空砲火を受けて滑走路北端に墜落。
Norman B.BITZEGAIO海軍少尉はパラシュート降下したが、重傷を負って捕虜。梅田憲兵分隊の豊中支隊から中部憲兵隊司令部へ移送されたが、全身の火傷に対して治療が施されなかったため、その夜死亡。毒殺の疑いもある。真田山陸軍墓地に埋葬。
 John S. STREETAR一等飛行機関兵曹とJohn R. ZEHAUN Jr.二等飛行機関兵曹は墜落死。刀根山墓地に埋葬。戦後、米軍対策として、遺体を火葬し、遺灰を再埋葬。
1945年7月30日午後1時頃 大阪府豊中市岡町北二丁目の民家
P51(第21戦闘機群72中隊所属)が墜落。
 伊丹飛行場を攻撃中、対空砲火を受けて墜落。
Harry W.NORTON少尉はパラシュート降下して捕虜。梅田憲兵分隊の豊中支隊から中部憲兵隊司令部へ送られたが、右大腿骨骨折による出血と銃撃による傷に対して十分な医療処置が施されず、その夜死亡。真田山陸軍墓地に埋葬。
 このP51の残骸は、敗戦直後、日本軍によって地中に埋められたが、1984年に豊中市教育委員会によって発掘され、プロペラや片翼が保存されている。
 
【豊中市岡町南3丁目の女性(当時35才)の話】
 当日は空襲警報が鳴っていたが、私は防空壕には入っていなかった。昼頃米兵がパラシュート降下して、伊藤さん宅の門柱のそばの 木にひっかかった。それは今もマンション(ボ・ヌール豊中)の入口にある木だ。皆、手に手に色々なものを持って殺気立って集まって来た。しかし米兵に襲いかかろうとするのを制止する人もあって、誰かが「殺すな!」と叫んでいたのが印象に残っている。米兵は足にケガをしていて、自分で布切れを包帯にして巻いていた。
1945年7月30日 京都府の舞鶴湾
米空母インディペンデンスから飛来したTBM(機体番号69326)が墜落。
 舞鶴軍港を攻撃中に対空砲火を受けた。
Daniel R. BERARDINELLI海軍少尉、Harold E. GIBSON飛行通信兵曹、Michael H. MAGY飛行機関兵曹が死亡。 機体も遺体も発見できず。
1945年7月30日午後4時頃 京都府与謝郡吉津村(現・宮津市)文殊
米空母レキシントンから飛来したF4U(機体番号81279)が 墜落。
 宮津湾を空襲中、対空砲火を受けて、宮津と天橋立を結ぶ海岸の道路上に墜落、爆発炎上した。
E. W.GARRISON海軍少尉が死亡。
 機体はバラバラになり、道路には大きな穴があき、パイロットの遺体は確認できないほどであった。吉津村村長のオオツキトウタロウらが残骸の撤去や道路の修復作業を行い、また終戦直後、文殊の墓地に「アメリカ飛行士の墓」と書いた十字架を立てた。地元の人の話に よると、この墓標は戦後も相当長い間残っていたという。
1945年8月1日 兵庫県伊丹市の伊丹飛行場と硫黄島の間
P51(機体番号44ー63935、第21戦闘機群531中隊所属)が墜落。
Richard S. DAVIS中尉が死亡。
1945年8月1日午前10時頃 奈良県磯城郡朝倉村(現・桜井市)狛付近の山腹
P51(第21戦闘機群72中隊所属)が墜落。
 飛行機は、大阪方面から南東方向に飛行していた。
Philip INGALLS准尉が機体とともに墜落死。朝倉村狛の公共墓地に遺体を埋葬、戦後米軍が回収。
 
【地元の女性(1912年生まれ)の話】
 飛行機は、柳本の海軍飛行場の高射砲で撃たれたそうだ。煙を吐きながら村の南側の山の尾根付近に墜落した。村の人たちが現場へかけつけてみると、操縦士は操縦席で眉間が割れて死んでいた。奥さんの写真をもっていたのを見てかわいそうだと思った。燃料タンクからガソリンが漏れていたので、桶を持っていってそれを回収した。1週間ほど見物人の列が続いた。遺体は狛の墓地に埋めて墓標を建てた。戦後、米軍がジープで遺体の回収に来たが、墓がていねいに作ってあったことに大変喜んで、お礼にアメやチョコレートなどをたくさん持って来て子供たちにやっていた。
1945年8月1日午前9〜10時頃 奈良県吉野郡高見村の野見谷
P51(機体番号44−63935,第21戦闘機群72中隊所属) が墜落。
 大阪方面を攻撃したと思われる戦闘機の編隊が西北方向から飛来、そのうちの一機が火を噴いて墜落。
Thomas W.DENMAN中尉はパラシュート降下して高見村文殊で捕虜。大宇陀警察署から奈良憲兵分隊を経て中部憲兵隊司令部へ連行後、処刑された。
1945年8月1日 神戸市兵庫区遠矢町の海岸
米兵の死体が漂着。
1945年8月6日 兵庫県津名郡釜口村(現・津名町)小井海岸
釜口村村長のツジカワヒデヨシの証言によると、死体は濃い色の服を着ており、後頭部が腐乱していたところから見てかなり長期間水につかっていたと思われる。遺体は釜口村ハマダの墓地に埋葬されたが、8月16日の嵐で波にさらわれ行方不明になった。
米兵の死体が漂着。
1945年8月8日 大阪湾
P51(機体番号不明、第21戦闘機群46中隊所属)が墜落。
Marcus E.McDILDA少尉が堺市の海岸沖で海軍部隊によって捕まり、築港憲兵分隊から中部憲兵隊司令部へ送られたが、原爆についての情報をもっているらしいとの判断から、9日に飛行機で東京の憲兵隊司令部へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年8月8日午前10時30分頃 和歌山県西牟婁郡稲成村(現・田辺市)字谷付近の田んぼ
P51(機体番号44−46389、第21 戦闘機群46中隊所属)が墜落。
Jack K.ORT大尉が、9日夜、西牟婁郡下芳養村(現・田辺市)で、警防団員らによって捕虜。村の警官に引き渡され、田辺憲兵分隊、御坊憲兵分隊、和歌山憲兵分隊を経て、11日に中部憲兵隊司令部に送られた。8月15日午後、真田山陸軍墓地で処刑。
1945年8月8日午前10時45分頃 和歌山県有田郡湯浅町沖
P51(機体番号44−72879、第21戦闘機群72中隊所属)が墜落。
 船舶を機銃掃射中、操縦ミスによって海中に墜落。機体は現在も海中に残存。
William E. MERRITT大尉が漁民によって引き上げられたが、既に死亡していた。有田郡湯浅火葬場で火葬され、墓標が立てられた。墓標は現存。参考人は湯浅町長。
1945年8月9日 兵庫県揖保郡
米兵の遺体が漂着。
 兵庫県揖保郡室津トノハマ近くの墓地に埋葬。
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