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本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士

東部軍管区

(注)東部軍管区は1945年2月より、東京・神奈川・千葉・埼玉・栃木・群馬・茨城・長野・山梨・新潟の各県と、富士川以東の静岡県を管轄。

凡例

墜落した年月日 墜落した場所
墜落した機体・所属部隊・墜落の状況
乗員の状況

凡例

1944年6月15日 小笠原諸島父島沖
米空母ホーネットの艦載機が墜落。
救命ボートで漂流中のOscar D. LONG二等飛行兵曹とDaniel T. CALVIN海軍中尉の2人が3日後に捕虜。大船海軍捕虜収容所を経て、翌年大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1944年7月4日 小笠原諸島父島付近
米空母エンタープライズの艦載機が墜落。
William L. CONNELL海軍中尉がパラシュート降下して捕虜。大船海軍捕虜収容所を経て、翌年4月に大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1944年7月7日 小笠原諸島硫黄島付近
空母ワスプの艦載機が墜落。
Robert B. TANT二等飛行兵曹が捕虜。大船海軍捕虜収容所を経て、翌年1月に大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1944年8月頃〜1945年3月頃 小笠原諸島父島付近
捕らえられた捕虜飛行士7人が、日本軍の小笠原守備隊によって斬首、銃剣刺突、殴打などにより処刑され、人肉食事件も起こった。殺害日時は、1944年8月7日に2人、1945年2月2日に1人、2月23日に1人、3月5日に1人、3月20日に1人、3月26日に1人とされる。
 戦後のグァム島での戦犯裁判で、日本陸軍守備隊の立花芳夫中将・的場末勇少佐・中島昇大尉・伊藤喜久二中佐、および海軍守備隊の吉井静雄大佐の絞首刑を含む26人が有罪とされた。
1944年11月24日 東京とサイパン島の間の海上
以下の2機のB29が墜落。
 (注)作戦任務第7号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃111機、損失2機)
B29(機体番号42−24622、第73航空団497爆撃群所属)
日本軍戦闘機の体当たり攻撃により、本州沖30キロ付近の海上に墜落。機長のSam P.WAGNER中尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24679、第73航空団499爆撃群所属)
爆撃を終えて帰還中、サイパン島まで1時間の海上に不時着。搭乗員11人は全員米軍が救助。
1944年11月27日 東京とサイパン島の間の海上
B29(機体番号42−24662、第73航空団500爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第8号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃81機、損失1機)
機長のJoseph R.IRVIN大尉など12人全員死亡。
1944年11月29日 東京とサイパン島の間の海上
B29(機体番号42−65218、第73航空団500爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第9号(目標:東京工業地域、第73航空団から出撃29機、損失1機)
機長のHarold M.HANSEN少佐など12人全員死亡。
1944年12月3日午後2時半頃 千葉県香取郡神代村(現・東庄町)東和田
B29(機体番号42−24656、第73航空団500爆撃群 所属)が墜落。
 (注)作戦任務第10号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃86機、損失5機)
 松戸基地から発進した陸軍飛行第53戦隊の屠竜などの攻撃を受け、松林や畑に分解して墜落、数日間炎上した。
4人が墜落死。遺体は東庄町の家畜の墓に埋められたが、戦後、軍人墓地に再埋葬。
 8人が捕虜になり、香取海軍航空隊を経て東京憲兵隊へ送られたが、Henry W.WARDE中尉、Carl T.WELLS軍曹、John A.WRIGHT軍曹の3人は重傷を負っており、千葉市の陸軍病院に収容され、翌日死亡。千葉市の墓地に遺体を埋葬。
 Thomas M.GEFFERY軍曹は、栄養失調のために45年2月11日に東京都牛込区トヤマ町の第一仮設陸軍病院で死亡。
 Byron E.BRUGGE大佐は、憲兵隊の過酷な取り調べやスパイ強要により精神異常をきたし、1945年3月4日に第一仮設陸軍病で死亡。この2人はいずれも東京小石川の陸軍墓地に埋葬。
 機長のRobert F.GOLDSWORTHY少佐、Richard T.KING大佐、Otto H.SHROYDER伍長の3人は、東京憲兵隊から大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。このうちGOLDSWORTHY氏は1997年秋に墜落現場を訪れ、地元の人々の協力で平和の記念碑を建立し、日米平和友好の交流式典を行った。
1944年12月3日午後 東京とマリアナ基地の間の海上
以下の4機のB29が墜落または不時着。
 (注)上記作戦の損失機5機のうちの4機
B29(機体番号42−24181、第73航空団498爆撃群所属)
基地への帰着時に、本州の南方600キロ付近で失われ、機長のElbert W.HYDE大尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−63432、第73航空団498爆撃群所属)
1人死亡、他は米軍が救助。
B29(機体番号42−63461、第73航空団497爆撃群所属)
機長のDavid C.CAMBELL中尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24735、第73航空団498爆撃群所属)
八丈島付近に墜落。機長のCharles N.FETTER中尉など11人全員死亡。
1944年12月27日午後 東京湾品川の第三台場沖
B29(機体番号42ー24642、ニックネーム「UNCLE TOM’SCABINE」、第73航空団498爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第16号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃72機、損失3機)
調布基地から発進した陸軍飛行第244戦隊の吉田竹雄曹長操縦の飛燕の体当たり攻撃による?
 機長のJohn E.KRAUSE少佐など9人が墜落死したが、日本側はこのうち4人の遺体を、死因を調べるためとして築地病院に搬入して解剖。戦後、米軍は生体実験ではないかとの疑いをもち、関係者を厳しく追及したが、証拠はつかめなかった。
 William H.WALKER少佐、Richard R.SANDLIN伍長、Stanley J.REVICKY少尉の3人が捕虜。彼らは大船海軍捕虜収所から1945年6月に大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還したが、WALKER少佐はその途中、病院船内で死亡した。
1944年12月27日午後
以下の2機のB29がマリアナ基地からの出発時と帰途に海上に不時着。
 (注)上記作戦の損失機3機のうちの2機
B29(機体番号42ー24605、第73航空団498爆撃群所属)
搭乗員のうち4人は米軍が救助。
B29(機体番号42−24613、第73航空団498爆撃群所属)
搭乗員のうち3人は米軍が救助。
1945年1月5日
東京爆撃のB29(機体番号42ー24781、第313航空団505爆撃群所属)がグガル島の沖合に不時着。
1人は米軍に救助されたが、他の搭乗員は死亡。
1945年1月9日午後3時頃 東京都北多摩郡国分寺町(現・国分寺市)野中新田と榎戸新田
B29(機体番号42−24772、第73航 空団497爆撃群所属)が分解して墜落。
 (注)作戦任務第18号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃72機、損失6機)
空襲中の7〜8機のB29の編隊のうちの1機が、調布基地から発進した陸軍飛行第244戦隊の高山正一少尉操縦の飛燕の体当たり攻撃を受けた。高山少尉はパラシュート降下して生還。
 B29の尾部は野中新田に落下、胴体部は榎戸新田に落下して激しく燃えた。機長のJoe P.BAIRD少佐など11人全員死亡。10人分の遺体を榎戸新田のキョウホウジ墓地に埋葬。また、氏名不詳の1人が、東京都小平町(現・小平市)の小川新田の陸軍技術試験所の南付近にパラシュ−ト降下したが間もなく死亡。小川新田の共同墓地に埋葬。
1945年1月9日 東京とサイパン島の間
以下の5機のB29が墜落または不時着。
 (注)上記作戦の損失機6機のうちの5機
 なお、この日、陸軍飛行第47戦隊の幸万壽美軍曹操縦の二式戦闘機は、成増基地上空でB29に体当たり攻撃、幸軍曹は豊島区内に墜落死。同第47戦隊の栗村尊准尉、飛行第244戦隊の丹下充之少尉も体当たり攻撃を敢行。
B29(機体番号42−24655、ニックネーム「MIS BEHAVIN」、第73航空団497爆撃群所属)
日本軍戦闘機飛燕の体当たり攻撃を受け、機長のBandamic E.CROWELL Jr.中尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24657、第73航空団500爆撃群所属)
機長のJohn J.CHARTERS大尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24665、第73航空団499爆撃群所属)
機長のVictor E.FIALA大尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24658、ニックネーム「WUGGED WASCAL」、第73航空団499爆撃群所属)
機長のEinmal F.MURPHY大尉など12人全員死亡。
B29(機体番号42ー24598、ニックネーム「WADDY’S WAGON」、第73航空団497爆撃群所属)
機長のYOUNGなど11人全員死亡。
1945年1月27日午後2時頃 千葉県印旛郡酒々井町伊篠
B29(機体番号42−24616、第73航空団497爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第24号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃76機、損失9機)
 B29は西北方向から火を吹きながら飛来、右回りに2回ぐらい旋回して高度を下げ、伊篠の上空で空中分解して墜落、1昼夜にわたって炎上した。機体の残骸は白幡神社付近を中心に、約500メートル四方に散乱した。
11人の搭乗員のうち、機長のWalter S.McDonnell中尉など9人が墜落死。このうち7人は機体とともに墜落、遺体は住民により現場付近に埋葬。David C.Williams Jr.少尉は墜落前に機体から脱出したが、パラシュートが開かず、印旛郡和田村(現・佐倉市和田)上代の農地に墜落死。遺体は、東部64部隊員によって佐倉町の軍人墓地に埋葬。 他の1人の死亡状況は不明。
 Clinte F.LODOVICI軍曹、Vane B.CARPENTER二等軍曹の2人がパラシュート降下して捕虜。このうち1人は、印旛郡臼井町(現・佐倉市臼井)江原新田の田んぼに降下し、東部64部隊の兵士に捕まった。彼らは東京憲兵隊へ送られ、後に、大森捕虜収容所へ移され、戦後本国へ帰還。
1945年1月27日午後3時頃 茨城県鹿島郡息栖村(現・神栖市)居切の神ノ池海軍飛行場付近の海岸
B29(機体番号42−24769、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機9機のうちの1機
 日本軍の戦闘機屠竜の攻撃を受けて墜落。民家7軒を焼き、村民7人が死亡。「朝日新聞」(東京本社版)1945年1月29日付に関連記事と写真あり。
6人が墜落死、そのうち5人の遺体を現場付近に埋葬したが、もう1人の遺体は発見できなかった。
 機長のEdmund G.SMITH中尉、John P.NICHOLSON軍曹、Guy H.KNOBEL二等軍曹、Ray E.HALLORAN
 少尉、James W.EDWARDS少尉の合計5人がパラシュート降下して神ノ池海軍飛行場の兵士により捕虜。土浦憲兵分隊員の手で東京憲兵隊へ送られて取り調べを受けた後、4月から大森収容所に収容。戦後米国へ帰還。
 このうちHALLORAN少尉は1998年に体験記『HAP’S WAR』を出版、また2000年には5度目の来日旅行を行い、墜落現場を 訪問して死んだ同僚を慰霊、2002年の6度目の来日時には東京大空襲戦災資料センターの開所式に出席した。
1945年1月27日午後1時50分頃 静岡県富士宮市シバゾエ源道寺付近と富士郡鷹岡町付近
B29(機体番号42−63423、ニックネーム「WERE WOLFE」、第73航空団497爆撃群所属)が空中分解して墜落。
 (注)上記作戦の損失機9機のうちの1機
 日本軍戦闘機の攻撃を受け、炎上しながら空中爆発して墜落、民家にも火災が発生した。
以下の7人が死亡。
 Robert C.FRAZIER少尉、William J.KENEDY Jr.二等軍曹、Joseph F.BAAR軍曹、William OVERMIRE Jr.二等軍曹、Lowell E.LOVVORN二等軍曹、Chester C.CYRAN軍曹、Harry LOWE Jr.中尉。このうち4人は機体とともに墜 落死、3人はパラシュートが開かず死亡。遺体は富士宮市中原の市営墓地に埋葬。1946年4月に米軍が回収。
 以下の4人が捕虜。
 機長のElmer G.HAHN大尉は富士宮市カスガ町の日本皮革製造会社(現・ニッピゼラチン工業)の東の田んぼで、Clifford A. MYHRA軍曹は富士宮市日の出町(現・矢立町)のサノ製材所付近で、Eugine J.RODINGER少尉は富士郡鷹岡町のテンジン山付近で、Herbert EDMON少尉は富士宮市城山青年学校(現・城山運動公園)付近で、警防団員や農民らによって捕獲された。
 彼らは同日夕刻、富士宮憲兵分隊からトラックで富士駅へ送られ、列車で東京へ護送された。このうちMYHRA軍曹は負傷していたので、東京憲兵隊から埼玉県北足立郡ヤマト町振武台の陸軍病院へ移されたが、2月10日に火傷と敗血症で死亡。ヤマト町のトウミョウジに埋葬。他の3人は東京憲兵隊での取り調べの後、渋谷の東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
1945年1月27日 東京とサイパン島の間
以下の6機のB29が失われた。
 (注)上記作戦の損失機9機のうちの6機
B29(機体番号42−63541、ニックネーム「THE JUMPING STUD」、第73航空団497爆撃群所属)
太平洋に不時着。機長のDale W.PETERSON大尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−63501、第73航空団498爆撃群所属)
目標上空付近で失われ、機長のPierce R.KILGO大尉など11人全員行方不明。
B29(機体番号42−24767、第73航空団498爆撃群所属)
目標爆撃後、エンジンの故障により、日本の南300マイルの太平洋に不時着。機長のBEYHANなど11人全員行方不明。
B29(機体番号42−24619、ニックネーム「SHADY LADY」、第73航空団497爆撃群所属)
目標上空付近で失われ、機長のRaymond O.DAUTH大尉以下11人全員死亡。
B29(機体番号42−63384、第73航空団所属)
サイパン島へ帰着して損失と判定。
B29(機体番号42−24682、第73航空団499爆撃群所属)
サイパン島へ帰着して損失と判定。
1945年2月10日午後3時30分頃 群馬県邑楽郡高島村(現・邑楽町)秋妻
2機のB29(機体番号42−24784、ニックネーム「SLICKS CHICKS」と、機体番号42−24815、ニックネーム「DEANER BOY」、いずれも第313航空団505爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第29号(目標:中島飛行機太田製作所、第73・313航空団から出撃120機、損失12機)
1機のB29が日本軍戦闘機の体当たり攻撃を受け、ちぎれた機体の一部がもう1機のB29と衝突し、2機とも木の葉が舞うように田んぼ に落下して炎上、搭載していた機銃弾などが爆発を繰り返しながら3日間燃え続けた。
 24784機は機長のBARNHARTなど11人全員、24815機は機長のSLAUGHTERなど12人全員が死亡。遺体は高島村秋妻の光林寺に埋葬し、戦後米軍が回収。
1945年2月10日 群馬県太田市とマリアナ基地の間
以下の10機のB29が失われた。
 (注)上記作戦の損失機12機のうちの10機
B29(機体番号42−24760、ニックネーム「SMALL FRY」、第73航空団498爆撃群所属)
機長のHoward G.YEILDING中尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24843、ニックネーム「SASSY LASSY」、第313航空団505爆撃群所属)
機長のOtis F.LOERY中尉など8人死亡、その他3人は米軍が救助。
B29(機体番号42−93876、第73航空団500爆撃群所属)
機長のTull K.McGUIRE大尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24867、第313航空団505爆撃群所属)
11人全員死亡。
B29(機体番号42−63468、第73航空団498爆撃軍所属)
機長のW.C.BREELAND少尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24787、ニックネーム「WOLF PACK」、第313航空団505爆撃軍所属)
機長のJack L.NICHOLLS少尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24790、第313航空団504爆撃群所属テニアン島所属。)
機長のWilliam E.WELSH少尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−65255、第313航空団505爆撃群所属)
爆発して墜落、11人全員死亡。
B29(機体番号42−24824、第313航空団505爆撃群所属)
搭乗員は全員米軍が救助。
B29(機体番号42−24818、第313航空団505爆撃群所属)
搭乗員は全員米軍が救助。
1945年2月16日午後4時30分頃 東京都世田谷区上北沢町3丁目
空母ワスプから飛来したF6F(機体番号72421)が墜落。
 この墜落で、民家1戸が焼失。
John W. B.GAGE海軍中尉が墜落死。北多摩郡多摩墓地に埋葬。
1945年2月16日 東京都と空母エセックスの間
F6F(機体番号71463)が墜落。
William C. RHODES海軍中尉が死亡。
1945年2月16日 東京都八丈島沖
TBM(機体番号22959)が墜落。
Harry E.FLICKINGER海軍少尉の遺体は確認されたが、他の乗員の遺体は確認できず。
1945年2月16日 東京沖と空母ベニントンの間
F6F(機体番号71960)が墜落。
Paul K.SPRADLING海軍少尉が死亡。
1945年2月16日 東京沖と空母サラトガの間
F6F(機体番号72739)が墜落。
Stewart E. DOTY海軍中尉が死亡。
1945年2月16日午後1時頃 横浜市戸塚区深谷町
空母ベニントンから飛来したF6F(機体番号71960)が墜落。
 厚木飛行場を攻撃中に、日本軍戦闘機との空中戦により深谷町と俣野町の境界付近の路上に墜落。
James F. CARROL海軍大尉が墜落死。バラバラになった遺体を戸塚区俣野町の福泉寺墓地に埋葬。参考人は福泉寺住職。
1945年2月16日午後5時頃 神奈川県川崎市シンサクダイ
空母ヨークタウンから飛来したF6F(機体番号70917)が墜落。
J.T.STILLY海軍中尉は、意識不明の状態で機外に投げ出されており、トラックで川崎市の東部第62部隊へ運ばれて手当を受けが、脳挫傷のため翌朝死亡。川崎市緑が丘墓地に埋葬。
1945年2月16日 横浜付近の東京湾
空母ワスプから飛来したF6F(機体番号72234)が墜落。
 厚木飛行場を攻撃中に、横須賀航空隊の日本軍機との空中戦で撃墜された。
John F. BAUMAN海軍中尉が海軍に捕まり、大船海軍捕虜収容所に収容。戦後米国へ帰還。
1945年2月16日 神奈川県付近
空母ベニントンから飛来したF6F(機体番号71976)が墜落。
 厚木飛行場を攻撃中に、横須賀航空隊の日本軍戦闘機との空中戦で撃墜された。
James A.McCANN海軍少尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所を経て大森捕虜収容所に収容され、戦後米国へ帰還。
1945年2月16日 神奈川県付近
空母ベニントンから飛来したF6F(機体番号71998)が墜落。
 厚木飛行場を攻撃中に、横須賀航空隊の日本軍機との空中戦で撃墜された。
David O. PUCKETT Jr.海軍大尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所を経て大森捕虜収容所に収容され、戦後米国へ帰還。
1945年2月16日 神奈川県相模湾
空母ベニントンから飛来したF6F(機体番号71890)が不時着。
 厚木飛行場を攻撃中に、日本軍戦闘機に撃墜された。
Benjamin A. INGHRAM海軍大尉が死亡。
1945年2月16日 神奈川県相模湾
空母バンカーヒルから飛来したF4U(機体番号82631)が不時着。
 艦船を攻撃中に、日本の駆逐艦からの対空砲火を受けた。
Forest P. BROWN Jr.海軍大尉が死亡。
1945年2月16日午前11時20分ごろ 千葉県印旛郡八生村(現・成田市)松崎
空母レキシントンから飛来したF6F(機体番号71445)が墜落。
 日本軍戦闘機との空中戦で損傷を受けた米軍機が北方から飛来、八生小学校から300メートルほどの所で地面に接触した後、小学校の校舎に激突。
 当日は朝から空襲警報が出ており、生徒は登校しておらず、教職員は防空壕に待避していたので、死傷者はなかった。
 【墜落現場近くの男性(当時20才)の話】
 グラマンは、林の樹木にぶっつかった後、畑でバウンドして、機体の一部が八生小学校の校舎に飛び込んだ。校舎は炎に包まれ、全焼した。操縦士は座席についたまま機外に投げ出されて死んでいた。機体はバラバラになり、エンジンなどは畑にころがったまま、しばらく放置されていた。バケツ3杯分ほどの機銃弾もあった。操縦士の遺体は家畜の墓に埋められたが、戦後、占領軍がやって来るというので、掘り返して焼き、遺灰を来迎寺に安置した。占領軍が遺体の回収に来た時、操縦士の腕時計が発掘され、彼の氏名が確認された。
操縦士のPhilip H.TORREY Jr.海軍少佐は、機体から20メートルほどの所に投げ出されて死亡。
 飛行士の遺体の頭部には銃弾が貫通しており、衣服は裂けていた。遺体は現場付近に埋葬されたが、戦後、村人によって掘り返して火葬され、遺灰は容器に入れて、近くの来迎寺に安置された。1945年10月に米軍が遺体の回収に来た時、容器には、「アメリカ戦士の英霊」と書かれていた。
1945年2月16日 千葉県印旛郡久住村(現・成田市)磯部
空母ハンコックから飛来したF6F(機体番号72554)が墜落
Raymond E. MAYNARD海軍少尉が墜落死。現場の寺に埋葬。参考人は佐原警察署。
1945年2月16日 千葉県銚子市沖
空母ハンコックから飛来したF6F(機体番号72710)が墜落。
Lawrence W. THOMAS海軍少尉が死亡。
1945年2月16日 千葉県長生郡
空母レキシントンから飛来したF6F(機体番号58942)が墜落。
Floyd E.TURNER海軍少尉が死亡。
1945年2月16日 千葉県山武郡片貝町(現・九十九里町)西下海岸
空母レキシントンから飛来したF6F(機体番号71397)が墜落。日本軍戦闘機の攻撃を受けた。
William M.HILKRNE海軍中尉が墜落死、片貝町の墓地に埋葬。
1945年2月16日 千葉県と空母ハンコックの間
F6F(機体番号70962)が墜落。
Joseph N. MONITOR海軍中尉が死亡。
1945年2月16日 千葉県と空母レキシントンの間
F6F(機体番号70841)が墜落。
Robert L. PARKER海軍大尉が死亡。
1945年2月16日 茨城県筑波郡大穂村(現・つくば市)若森
空母バンカーヒルから飛来したTBM(機体番号68451)が墜落。
Arthur T. PORTER海軍少尉、George Lee Jr.三等飛行通信兵曹、Jack D. WARE三等飛行機関兵曹が墜落死。このうち2人は筑波郡作岡村大字ツクリヤに埋葬され、もう1人は翌日遺体が発見され、若森に埋葬された。参考人は北条警察署。
1945年2月16日午前 茨城県東茨城郡稲荷村(現・水戸市)大串
空母ランドルフから飛来したF6F(機体番号71794)が墜落。
Sabe LEGATOS海軍大尉が墜落死。水戸市の東部37部隊練兵場の墓地に埋葬。
1945年2月16日午前9時半頃 茨城県鹿島郡巴村(現・鉾田市)鳥栖の百里が原飛行場付近
空母ランドルフから飛来したF6Fが墜落。
Fricker F.SEAMAN海軍中尉が墜落死。現場付近に埋葬。参考人は鉾田警察署。
1945年2月16日 茨城県行方郡香澄村(現・潮来市)堀之内
空母バンカーヒルから飛来したFG1D(機体番号67816)が墜落。日本軍戦闘機との交戦により撃墜された。
William H.PEMBLE海軍大尉が墜落死。堀之内の本松寺に埋葬。参考人は麻生警察署。
1945年2月16日 茨城県新治郡上大津町(現・土浦市)石田の霞ケ浦西端
空母ランドルフから飛来したSB2C(機体番号20308) が不時着。
Charles H. BROWN海軍少尉と、John D. RICHARD三等飛行通信兵曹の2人がゴムボートで脱出して捕虜となり、霞ケ浦海軍 基地から大船海軍捕虜収容所に送られた後、大森捕虜収容所に収容され、戦後米国へ帰還。
1945年2月16日午後 栃木県足利郡(現・足利市)山辺町田中
空母バンカーヒルから飛来したTBM3(機体番号68316)が墜落。
搭乗員3人のうち、操縦士のRichard BROTARES海軍少尉は、墜落現場から100メートルほどの桑畑に投げ出されて死亡。警防 団員が近くの河川敷に遺体を埋葬したが、8月ごろ掘り返してナカガワ墓地に再埋葬した。W.L.PAULSEENはパラシュートが開かず墜落死。足利市本城3丁目の樹覚寺に埋葬されたが、戦後、改めて火葬して遺灰を寺に納めた。2人の遺体は戦後、米軍が回収。Edward V. ANDERSEN三等射撃兵曹はパラシュート降下して捕まり、病院へ運ばれる途中に頭部の負傷により死亡。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。
1945年2月17日午前11時30分頃 東京都南多摩郡柚木村ヤリミズアイオイ
空母ランドルフから飛来したF6F(機体番号72635) が墜落。村の上空で日本軍機と激しい空中戦の末、柚木村とサカイ村の境界付近の丘の上に撃墜された。
William N.McCOWNEL海軍少尉はパラシュートで脱出したが、高度が低かったため地面にたたきつけられて頭部に重傷を負って捕虜となった。村人から立川憲兵隊員に引き渡され、東京都牛込の東京陸軍第一臨時病院に運び込まれたが、22日に死亡。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。
1945年2月17日
空母ランドルフから飛来したF6F(機体番号72296)が墜落。
日本軍の対空砲火により撃墜されたが、Louis A.MENARD Jr.海軍少佐は、その前に海上にパラシュート降下して、米軍の潜水艦に救助された。
1945年2月17日 東京都北多摩郡大和村(現・東大和市)芋窪
空母ラングレーから飛来したF6F(機体番号71522)が墜落。
Donald F. WHITE海軍少佐が、北多摩郡村山村(現・東村山市)の東京陸軍少年飛行学校のグランドにパラシュート降下して捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年2月17日 東京都立川市と空母ラングレーの間
TBM(機体番号23476)が墜落。立川発動機工場を攻撃に向かい撃墜された。
Eugine G.CONAGIAKIE海軍少尉、Clyde W.SANDBERG二等飛行通信兵曹、 Robert J.ATCHLEY三等飛行射撃兵曹の3人全員死亡。
1945年2月17日 東京沖と空母クーペンスの間
F6F(機体番号71446)が墜落。
Damon K. BRIGHT海軍中尉が死亡。
1945年2月17日 東京沖と空母ボノム・リチャードの間
F6F(機体番号79384)が墜落。
Charles P. CANHAM Jr.海軍中尉が死亡。
1945年2月17日 東京沖と空母ホーネットの間
F6F(機体番号70839)が墜落。
Eugene G. FETZER海軍中尉が死亡。
1945年2月17日午前9時頃 神奈川県横須賀市逗子町(現・逗子市)小坪大崎の海岸沖300メートル
空母ワスプから飛来したF4U (機体番号82470)が墜落。低空を飛行中に対空砲火により撃墜された。
Spencer D.WEILLS海軍中尉が死亡、逗子町小坪の共同墓地に埋葬。
1945年2月17日 神奈川県相模湾
空母ランドルフから飛来したF6F(機体番号72293)が墜落。
William T. McADAMS海軍少尉が死亡。
1945年2月17日 千葉県銚子市犬吠埼の沖合
F6F(機体番号71514)が墜落。
Harold F. METZGER海軍少尉が死亡。
1945年2月17日 茨城県鉾田市沖
空母ランドルフから飛来したF6F(機体番号72411)が墜落。鉾田飛行場を攻撃中に撃墜された。
James E. TOLIVER海軍中尉が死亡。
1945年2月19日午後 東京都渋谷区千駄ヶ谷付近
B29(機体番号42−63494、第73航空団500爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第37号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73・313航空団から出撃150機、損失6機)
機長のGeorge C.ROUSE Jr.少尉など9人が死亡。
 千駄ヶ谷8丁目付近に落下した前部の残骸からは黒こげの3遺体が見つかり、原宿墓地に埋葬。また、四谷区の第7国民学校の屋上とグランドに落下した後部の残骸からは6遺体が見つかり、北多摩郡多摩墓地に埋葬。
 Harvy E. McGRATH軍曹とLee M. JOHNSTON軍曹がパラシュート降下して捕虜。東京憲兵隊を経て大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年2月19日午後 東京都葛飾区鎌倉町と高砂町
B29(機体番号42−65222、ニックネーム「SUPER WABBIT」、第73航空団499爆撃群所属)が分解して墜落。
 (注)上記作戦の損失機6機のうちの1機
 松戸飛行場を発進した陸軍飛行第53戦隊の山田健治伍長操縦の屠竜の体当たり攻撃による。B29の機体は前部と後部が空中分解し、1キロほど離れて墜落した。
機長のMartin E.NICHOLSON中尉など11人全員死亡。葛飾区鎌倉町の畑に墜落した機体の前部で5遺体、葛飾区高砂町の佐藤角次郎方に墜落した機体の後部で6遺体が見つかり、火葬して多摩墓地に埋葬。
1945年2月19日午後1時過ぎ 山梨県北都留郡西原村(現・上野原市西原)
B29(機体番号42−24692、第73航空団500爆撃 群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機6機のうちの1機
 松戸飛行場を発進した陸軍飛行第53戦隊の広瀬治少尉操縦の屠竜の体当たり攻撃による。広瀬少尉は西原村阿寺沢に墜落死、同乗の加藤君男伍長はパラシュート降下して生還。
B29は空中分解して破片が広範囲に落下。機長のStanley H.SAMUELSON中尉など8人が機体とともに墜落死。参考人は東部第63部隊。
 Charles H.WEISER軍曹は東京都南多摩郡恩方村(現・八王子市)下恩方の恩方村役場裏山にパラシュート降下したが、死亡。同村の浄福寺に埋葬。
 Paul R.EVANS二等軍曹は、恩方村上恩方の興慶寺南のヘビ山にパラシュート降下して捕まり、上恩方駐在所に連行された後、東京憲兵隊を経て大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。また、Robert J.JANECEK軍曹は、翌日に西多摩郡檜原村で捕まり東京憲兵隊へ送られたが、3月6日に東京第一陸軍病院で栄養失調と咽喉部ジフテリアにより死亡。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。
 戦後、屠竜の墜落地付近に広瀬少尉の慰霊碑が建立され、1998年には由緒碑も建立された。また、B29の破片も保管されている。
1945年2月19日 東京とマリアナ基地の間の海上
以下の3機のB29が失われた。
 (注)上記作戦の損失機6機のうちの3機
B29(機体番号42−63489、ニックネーム「HOLY JOE」、第73航空団500爆撃群所属)
B29(機体番号42−63463、ニックネーム「SKYSCRAPPER Ⅱ」)
上記2機はマリアナ基地への帰投の際、衝突事故を起こして墜落。
B29(機体番号42−24857、ニックネーム「JOKERS WILD IT」、第73航空団497爆撃群所属)
東京とサイパン島の間に不時着。機長のRobert H.MILLER少尉など6人死亡、5人は米軍が救助。
1945年2月25日 神奈川県横須賀市沖
空母ベニントンから飛来したF4U(機体番号82410)が墜落。米軍戦闘機の編隊を指揮中に、日本軍のゼロ戦により撃墜された。
Everett V.ALWARD海軍少佐が死亡。機体も遺体も発見できず。
1945年2月25日午前7時頃 茨城県新治郡上大津町(現・土浦市)字ヒラノの田んぼ
空母エセックスから飛来したF4U(機体番号57251)が不時着。
Donald A.CARLSON海軍少尉は、不時着と同時に無線で僚機に無事を伝えた後、警防団により捕虜。東京憲兵隊で40日間取り調べを受けた後、大森捕虜収容所へ移送され、戦後米国へ帰還。
1945年2月25日午前11時頃 茨城県東茨城郡白川村(現・小川町)下吉影の百里ガ原飛行場付近
空母ランドルフから飛来したF6F(機体番号72329)が墜落。地上目標を機銃掃射中に対空砲火を受け、尾翼部分を吹き飛ばされた。
Norman W.SANDLER海軍中尉が死亡。
1945年2月25日 茨城県水戸市沖と空母カボットの間
F6F(機体番号72406)が墜落。
Joseph F. CRAWFORD海軍少尉が死亡。
1945年2月26日 千葉県犬吠崎沖と空母バンカーヒルの間
F4U(機体番号57950)が墜落。
Curtiss L.JEFFERSON海軍少尉が死亡。
1945年3月9日 硫黄島付近
テニアン基地から飛来した米軍機が墜落。
Raymond W. GRAY兵長と、Charles W. REDDOW兵長が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年3月10日 東京都荒川区尾久町の旭電化工業の工場
B29(機体番号42−65301、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第40号(目標:東京市街地、第73・313・314航空団から出撃325機、損失14機)
機長のLucas M.NEAS大尉など10人が墜落死。尾久町の華蔵院の薬師堂墓地に埋葬。参考人は華蔵院住職。
 James M.PATITT伍長がパラシュート降下して捕虜になり、東京憲兵隊へ送られた後、東京陸軍刑務所に収容されたが、5月26日の空襲による火災で死亡。氏名不詳のもう1人が捕虜になった可能性があるが、確証は得られない。
1945年3月10日 東京都城東区(現・江東区)南砂町の海岸の砂町下水処理場付近
B29(機体番号44−69691、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。飛行機は貯木場に浮遊する木材の上に落ちて炎上。
 (注)上記作戦の損失機14機のうちの1機
機長のWarren F. JOHNSON中尉など11人全員死亡。
 戦後、米軍は飛行機の残骸の一部と1遺体を回収したが、身元は特定できなかった。
1945年3月10日 千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)下三ケ尾
B29(機体番号42−93905、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。東京空襲を終えたB29の編隊の最後尾の1機が被弾して火を吹き、村の上空を旋回して空中分解、駒形神社周辺に落下して激しく燃えた。
 (注)上記作戦の損失機14機のうちの1機
機長のJohn L.MUSSER大尉など10人が墜落死。現場付近に埋葬。参考人は福田村村長。
 Eugine A.HOMYAK少尉が柏飛行場付近で、Jack D.KRONE伍長が千葉県葛飾郡田中村(現・柏市)付近で捕虜になり、柏憲兵分隊から東京憲兵隊へ送られたが、KRONE伍長は重傷により治療の見込みなしとして軍医に毒殺された。HOMYAK少尉は東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
1945年3月10日午前1時頃 茨城県筑波郡板橋村(現・つくばみらい市伊那町)大字狸穴の山林
B29(機体番号44−69686、ニックネーム 「TALL IN THE SADDLE」、第314航空団19爆撃群所属)が墜落。飛行機は火を吹きながら落下、山火事を引き起こした。
 (注)上記作戦の損失機14機のうちの1機
機長のGordon L.MUSTER大尉など9人が墜落死、現場付近に埋葬。
 3人が警防団に捕まり、土浦憲兵分隊員がトラックで東京憲兵隊へ送ったが、このうちLeland P.FISHBACK少尉は重傷を負っており、東京憲兵隊では東部軍軍医部へ連絡して入院を求めたが、空襲下の混乱もあって、引き取りを拒否された。その間、東部軍から軍医の園部六郎中尉が診察に来たが、助かる見込みなしとして治療をせずに帰った。結局、東部軍が身柄を引き取ることになったが、処置方法に困り、一戸公哉中佐の指令で翌翌日に東部軍兵士3人と東京憲兵隊の本川貞少尉及び桑原政雄准尉らが付き添って、近くの東京外語学校(現・東京外国語大学)の構内へ連行し、防空壕の中で彼を斬首し、ゴミと砂礫の中に埋めた。
 戦後の戦犯裁判で、一戸中佐と本川少尉は死刑。斬首と埋葬を手助けした桑原政雄准尉は無期懲役。FISHBACKの治療を拒否した園部軍医中尉は懲役2年などの刑を受けた。
 Laverne J.ZEHLER伍長とGlenn H.HODAK伍長は、東京陸軍刑務所に収容中に5月26日の空襲による火災で死亡。
1945年3月10日午前1時頃 埼玉県川口市青木町2丁目、江戸袋、芝川公園
B29(機体番号42−63569、第314航空団19 爆撃群所属)が分解して墜落。
 (注)上記作戦の損失機14機のうちの1機
飛行機は、7〜8機編隊で東京方面から飛来し、高度2000メートル位で高射砲弾を受けて3つに分解して墜落した。
 機長のRobert J.AUER中尉など11人が墜落死。川口市青木町5丁目の西方寺と川口市江戸袋の東光院墓地に遺体を埋葬。
 Walter C.GRUBB伍長がパラシュート降下して捕虜になり、東京憲兵隊へ送られた後、東京陸軍刑務所に収容されたが、5月26日の空襲による火災で死亡。 もう1人が捕虜になった可能性もあるが確認できない。
1945年3月10日 宮城県刈田郡七ケ宿村不忘山の山腹
以下の3機のB29が墜落。東京空襲へ向かって悪天候に巻き込まれた。 ⇒東北軍管区の項参照
 (注)上記作戦の損失機14機のうちの3機
B29(機体番号42−65310、第314航空団19爆撃群所属)
B29(機体番号42−63564、第314航空団29爆撃群所属)
B29(機体番号44−69747、第73航空団498爆撃群所属)
1945年3月10日 東京とマリアナ基地の間
以下の6機のB29が失われた。うち4機は東京空襲で損傷を受けて太平洋上に不時着。
 (注)上記作戦の損失機14機のうちの6機
B29(機体番号42−65298、第313航空団9爆撃群所属)
B29(機体番号42−24875、第313航空団9爆撃群所属)
B29(機体番号42−65311、第314航空団29爆撃群所属)
機長のGilbert M.LIGHTE中尉など11人全員米軍が救助。
B29(機体番号42−63482、第313航空団505爆撃群所属)
B29(機体番号44−69703、第314航空団19爆撃群所属)
B29(機体番号不明、所属不明) 消息不明
搭乗員のうち40人は米軍が救助。1機がマリアナ基地に帰着して毀損と判定された。
1945年4月2日午前3時頃 東京都西多摩郡吉野村柚木(現・青梅市柚木町)の愛宕山山腹
B29(機体番号43ー93999、第73航 空団498爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は空襲が終わるころ高射砲弾を受けたらしく、火の玉になって飛来、墜落と同時に爆発してバラバラになり、破片が山麓の吉野街道付近まで散乱した。
 (注)作戦任務第51号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃122機、損失6機)
機長のCarl C.SMITHなど5人は機体とともに墜落死、遺体は吉野村即清寺の墓地に火葬して埋葬され、戦後、米軍が回収。参考人は即清寺住職。
 パラシュート降下した5人(西多摩郡三田村で4人、小曾木村で1人)が1両日中に捕虜になり、サイドカーで立川憲兵隊を経て東京憲兵隊へ送られた。彼らのうち、Francis M.REYNOLDS二等軍曹、Sylvio LAMARCA二等軍曹、John W.EVANS 二等軍曹、Morris W.SANSOUCI軍曹の4人は戦後米国へ帰還したが、John S.HOUGHTON少尉は全身に火傷を負っており、東京憲兵隊に収容中症状がさらに悪化、治療の見込みなしとして11日に毒殺された。東京都小石川の陸軍墓地に埋葬。
 また、Kenneth PETTERSON軍曹は数日間山中に隠れていたが、空腹に耐えかねて黒沢3丁目の民家に現れて捕虜になり、東京憲兵隊へ送られた後、東京陸軍刑務所に移送、5月26日の空襲による火災で死亡。
 青梅市立郷土博物館には、このB29のエンジンや破片の一部が保存されている。
 また、山林の所有者の野村哲也さんは、2001年に墜落現場近くにB29搭乗員の慰霊碑を建立し、06年には在日米軍横田基地の代表や青梅市長など150人が参加して慰霊祭が催された。
1945年4月2日午前3時頃 東京都北多摩郡東村山町南秋津(現・東村山市秋津町一丁目)
B29(機体番号44−69752、第73航 空団498爆撃群所属)が墜落。
 北方へ向かって飛んでいた数機編隊のB29のうち1機が対空砲火を受けて炎上、大音響とともに墜落。積んでいた爆弾が爆発して機体はバラバラになり、地上に直径20メートル、深さ6メートルほどの大きな穴があき、民家7軒が破壊された。
 (注)上記作戦の損失機6機のうちの1機
機長のWilliam E.FILBERT中尉など11人全員死亡とみられるが、確認できたのは3遺体分のみ。現場付近に埋葬。
 現在、墜落現場の小俣権太郎さん宅には平和観音が建立されており、アメリカの遺族が訪ねて来ることもあるという。
1945年4月2日午前2時30分頃 東京都南多摩郡原町田町(現・町田市)本町田
B29(機体番号44ー69666、第73航空団500爆撃群所属)が墜落。
 対空砲火を受けたらしいB29が火の玉になって飛来、町田高等女学校(現・町田高校)北方の畑地に分解して墜落、ガソリンが飛散して畑一面が火の海となった。機体の残骸はトラック10台で相模陸軍造兵廠へ運ばれた。
 (注)上記作戦の損失機6機のうちの1機
機長のEdward G.LAW中尉は機体とともに墜落死。残骸の中からLAW中尉の焼け焦げた胴体だけの遺体と認識票が見つかり、原町田町本町田の養雲寺に埋葬。参考人は養雲寺住職。
 下記の10人はパラシュート降下して捕虜になり、東京憲兵隊へ送られた。
 Gerould L.GIBBINGS少尉、David R.GERHARDT少尉、Donald L.VONDER少尉、Raymond C.RICHMOND一等軍曹、Robert H.NEAD軍曹、Thadedeus J.PASTERNAK軍曹、Maurice MYERS軍曹、Harry E.McMILLEN軍曹、Leonard J.McNEILL軍曹、Ray F. HOPPER軍曹
 このうちHOPPER軍曹は戦後米国へ帰還したが、他の9人は東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
1945年4月2日午前2〜3時頃 神奈川県川崎市生田(現・多摩区南生田二丁目の生田病院の下付近)の田んぼ
B29(機体番号42−24650、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。日本軍戦闘機の攻撃を受け、火の玉になって墜落し爆発した。
 (注)上記作戦の損失機6機のうちの1機
搭乗員9人のうち、機長のKenneth M.DUSTIN中尉など8人が墜落死。集まった群衆は遺体を竹槍で突くなどしたとのこと。参考人は川崎市高津警察署。このうち氏名不詳の1人は、東京都南多摩郡稲城村(現・稲城市)矢野口のニシサカの丘の中腹に墜落死。遺体は衣服や髪の毛が焼け焦げており、矢野口の安楽院墓地に埋葬。
 William H. OSBORN軍曹は高座郡相模原町(現・相模原市)にパラシュート降下して捕虜になり、東京憲兵隊へ送られたが、全身火傷を負っており、治療の見込みなしとして20日に毒殺された。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。
1945年4月2日 東京とサイパン島の間
以下の2機のB29が失われた。
 (注)上記作戦の損失機6機のうちの2機
B29(機体番号42−24614、ニックネーム「JELTIN JESIE」、第73航空団498爆撃群所属)サイパン島を離陸直後に墜落。
機長のWillson C.CURRIER大尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−93883、第73航空団497爆撃群所属)
機長のEdward B.COLLINS少尉など11人全員死亡。
1945年4月4日 東京都立川市とサイパン島の間
B29(機体番号44−69751、ニックネーム「HOMING DEVICE」、第73航空団500爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第57号(目標:立川飛行機会社、第2目標:川崎市街地、第73航空団から出撃113機、損失1機)
機長のRobert SEWELL Jr.少佐など11人全員死亡。
1945年4月7日午前10時頃 東京都北多摩郡調布町(現・調布市)国領と下布田
B29(機体番号42−65212、ニックネーム 「MISS TITTYMOUSE」、第73航空団498爆撃群所属)が空中分解して墜落。調布飛行場を発進した陸軍飛行第244戦隊の古波津里英少尉操縦の飛燕の体当たり攻撃による。古波津少尉はパラシュート降下して生還。B29のエンジンが落下した京王線国領駅南の民家の家族8人が死亡。
 (注)作戦任務第58号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃107機、損失3機)
機長のJohn O.WISE中尉など10人が墜落死。国領に4人、下布田に6人の遺体があり、国領の円福寺墓地に埋葬、戦後、米軍対策として慰霊を装った。ただし、このうち1人はパラシュート降下して国領稲荷の木にひっかかり、まだ生きていたが、農民たちによって虐殺されたとの地元の人の証言もある。
 Norman SKLIZ二等軍曹は、国領の農家にパラシュート降下して捕虜。東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年4月7日午前10時頃 東京都杉並区久我山三丁目(現・四丁目)の高井戸第二国民学校西側
B29(機体番号42−24600、第73航空団500爆撃群所属)が墜落。
 調布飛行場を発進した陸軍飛行第244戦隊の河野敬少尉操縦の飛燕の体当たり攻撃による。河野少尉は埼玉県川口市付近に墜落死。B29の墜落により、民家2戸が焼け、住民1人が死亡。
 (注)上記作戦の損失機3機のうちの1機
機長のKINGなど11人全員が死亡したが、そのうち1人はまだ息があり、担架で久我山病院へ運ばれる途中死亡した。
 墜落現場には大勢の見物人が押しかけた。搭乗員の遺体は久我山共同墓地に埋葬されたが、戦後、米軍対策として慰霊を装った。
 B29が墜落した直後に住民によって撮影された写真が現存している。
1945年4月7日午前10時15分頃 千葉県香取郡豊里村(現・銚子市)下森戸の畑
B29(機体番号42−24674、第73航空団499 爆撃群所属)が墜落。日本軍戦闘機の攻撃により損傷を受けたB29が東京方面から飛来、空中爆発した。
 (注)上記作戦の損失機3機のうちの1機
12人の搭乗員のうち機長のHIBBARDなど8人が墜落死。豊里村下森戸墓地に遺体。参考人は小見川警察署。1946年4月に米軍 が遺体を回収。
 4人がパラシュート降下して捕虜。このうち2人は、豊里村下森戸および高川で捕虜。豊里村に駐屯していた横須賀海軍電測学校の 兵士がかけつけ、銚子憲兵隊に引き渡した。1人は、翌日に海上郡椎柴村忍で捕まり、銚子憲兵隊に連行された。残り1人の捕獲状況 は不明。彼らは東京憲兵隊へ送られ、Otto J.MAREK軍曹とJohn W.MEAGHER軍曹は東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。Arthur A.GORA二等軍曹とFerdinand A.SPACIAL二等軍曹は、戦後米国へ帰還。
1945年4月7日午前9時30分頃 茨城県稲敷郡沼里村(現・稲敷市)の野原
P51(第21戦闘機群531中隊所属)が墜落。B29の編隊を護衛中に撃墜された。
Robert G.ANDERSON中尉が墜落死。現場付近に埋葬。参考人は土浦憲兵分隊長。
1945年4月12日昼頃 東京都板橋区上板橋4丁目付近
P51(第15戦闘機群78中隊所属)が墜落。B29の編隊を護衛中に撃墜された。
Gordon A.CHRISTOE中尉が墜落死。
1945年4月12日 横浜市とグアム島の間
B29(機体番号44−69857、第330爆撃群所属)が不時着。
1945年4月13〜14日 東京都豊島区池袋5丁目(現・池袋本町2丁目)
B29(機体番号42−24604、ニックネーム「WHEEL H’DEAL」、第73航空団497爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第67号(目標:東京−東京陸軍造兵廠地域、第73・313・314航空団から出撃348機、損失7機)
機長のEverett P.ABOT中尉など11人全員墜落死。豊島区池袋5丁目の重林寺墓地に遺体。参考人は重林寺執事。
1945年4月13〜14日 東京都足立区花畑町
B29(機体番号42−63517、ニックネーム「POCAHONTAS」、第313航空団505 爆撃群所属)が墜落。B29は火の玉になって飛来、空中分解して主要部分は現在の北加平町12−8付近に、尾翼部分は現在の谷中町の営団地下鉄車庫付近に落下した。機体は数時間にわたって炎上したが、落下地点は田んぼだったので消火活動は行われなかった。
 (注)上記作戦の損失機7機のうちの1機
機長のJohn KRETZER中尉など11人全員死亡。
 戦後、地元民によって北加平公園に「B29無名戦士」の墓がつくられたが、現在は、その銘碑のみが足立区郷土博物館に保管されている。
1945年4月13日〜14日 千葉県印旛郡安食町(現・栄町)矢口
B29(機体番号42−65344、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。松戸方面から火を吹いて飛来したB29が、高度1000メートル付近で空中爆発して4つに分解、3キロ四方の範囲に破片が落下した。
 (注)上記作戦の損失機7機のうちの1機
機長のDouglas N.RUBINSTEIN Jr.中尉など10人が墜落死。
 機体の一部は利根川の左岸堤防に墜落し、2遺体があったと推定される。胴体の主要部や翼は利根川の東南約1キロ付近に墜落し、 この中から2遺体が回収された。尾翼部分はさらに西方の水田に墜落し、3遺体が発見された。その他に、矢口に隣接する北辺田地区の水田などからも3遺体が発見された。
 遺体は安食町の警防団員によって、墜落現場付近の山林と利根川の堤防の2ケ所に埋葬(別の証言では家畜の墓に埋葬)されたが、10月頃、掘り返して火葬され、遺灰が安食町の正徳寺に納められた。1946年1月と9月に米軍が回収。
 Alfred J.McNAMARA二等軍曹はパラシュート降下し、14日の朝、矢口に隣接する豊住村(現・成田市)竜台の民家に現れて捕まった。安食町役場から佐倉憲兵隊を経て東京憲兵隊へ送られ、東京陸軍刑務所に収容されたが、5月26日の空襲による火災で死亡。
1945年4月13〜14日 千葉県千葉郡津田沼町(現・習志野市)谷津
B29(機体番号42−65312、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機7機のうちの1機
機長のRobert L.FRITSCHEL中尉など11人全員死亡。そのうち、Archie L.SMITH伍長の遺体が付近の海岸に漂着し、二宮町スシノ陸軍墓地に埋葬。Marshall B.WADE伍長の遺体が津田沼町フクダ海岸に漂着、フクダ墓地に埋葬。Seymour H.
 FEYGLEMAN少尉の遺体が幕張町(現・千葉市)のウナカ海岸に漂着、ウナカ墓地に埋葬。
1945年4月13〜14日 千葉県香取郡佐原町(現・佐原市)北佐原中州の田んぼ
B29(機体番号42−24644、第73航空団499爆 撃群所属)が墜落。
 東京方面から火の玉になって高度を下げながら飛来し、北佐原と新島村の境界付近に墜落、明け方まで激しく炎上した。
 (注)上記作戦の損失機7機のうちの1機
機長のWill F.LATIMOR大尉など6人が墜落死。
 5人が捕虜になり、4人は東京憲兵隊へ送られたが、Walter I.WALK軍曹は急性肺炎により、5月1日に憲兵隊医務部で死亡。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。Chester A.JOHNSON Jr.二等軍曹、 William V.SUTHERLAND Jr.軍曹、 John W.WELSH軍曹の3人は、東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
 Louis T.VANCE一等軍曹は海軍の兵士に捕まり、大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年4月13〜14日 埼玉県川口市原町の双葉工業の西側
B29(機体番号42−65300、ニックネーム「KATTY ANN」、第314航空団19爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は爆発しなかったが完全に燃え尽きた。機体の残骸は馬車で戸田の古河電工へ運ばれた。
 (注)上記作戦の損失機7機のうちの1機
機長のJames E.BURNS Jr.大尉など11人全員死亡。戦後の米軍調査で9人の遺体が発掘され、John LARSON軍曹と
 Donald W.BOHN中尉の遺体は確認されたが、その他の遺体は判別不能であった。
1945年4月14日午前0時ごろ 茨城県稲敷郡大宮村(現・竜ヶ崎市)大字佐沼
B29(機体番号44−69799、第314航空団330爆撃群所属)が墜落。
 B29は、片翼を下げて火を吹きながら、低空を滑空状態で飛来、バランスを崩して地面に衝突、爆発した。ガソリンや破片が広範囲に飛び散り、民家4軒が炎上、そのうちの1家族3人が死亡した。
 機体の残骸は、大宮警防団員によって大宮小学校の校庭に運ばれ、後に水戸の37中隊が運び去った。
 (注)上記作戦の損失機7機のうちの1機
搭乗員12人のうち下記11人は、墜落前に千葉県印旛郡布鎌村(現・栄町)、木下町(現・印西市)、大森町(現・印西市)、永治村(現・印西市)などにパラシュート降下して捕虜になり、東京憲兵隊へ送られ、東京陸軍刑務所に収容されていたが、5月26日の空襲による火災で死亡。
 機長のAlpheus G.CARLE中尉、John T.PRICE少尉、Andrew J.LITZ少尉、William R.MUHLENBERG少尉、
 Jim W.VERRINES一等軍曹、Lawrence T.DUFFY二等軍曹、Darwin J.MULLER伍長、Calvin R.RAYMOND伍長、Allen L.MORSCH伍長、Edwin P.LUMD一等兵、Doyle L.TURNER中佐。George J.KURSE Jr.少尉は、印旛郡永治村浦部の向原にパラシュート降下したが、弾丸を受けて死亡していた。
1945年4月15〜16日 横浜市鶴見区東寺尾町の総持寺境内
B29(機体番号44ー69673、第314航空団19爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は炎上しながら墜落し、爆発した。
 (注)作戦任務第68号(目標:川崎市街地、第313・314航空団から出撃219機、損失11機)
機長のJohn C.MILLER Jr.大尉など12人全員死亡。バラバラになった遺体が集められて総持寺の墓地に埋葬された。戦後米軍が遺体の発掘を行い、Billy W.BRUNNER軍曹の身元を確認したが、他の遺体の識別は困難であった。
1945年4月15〜16日 横浜市神奈川区中丸の捜真女学校付近
B29(機体番号44−69834、第313航空団9爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
機長のR.B.JONES Jr.中尉など8人が墜落死。現場付近に遺体を埋葬。
 4人がパラシュート降下して捕虜になり、東京憲兵隊へ送られたが、Roland F.NELSON少尉とErwin R.GRIFFIN軍曹は全身火傷を負っており、治療の見込みなしとして18日と24日に毒殺された。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。Noel E.BECK軍曹と、Robert K.SEDON軍曹は東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
1945年4月15〜16日 横浜市南区南太田町2丁目の丘
B29(機体番号42−93962,第313航空団9爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は墜落と同時に爆発炎上し、破片が広範囲に散らばり、近くの防空壕に入っていた市民25人が死亡した。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
搭乗員9人が死亡。戦後の米軍調査でRaynold E.JENKINS軍曹の遺体は墜落現場付近で発掘されたが、他の遺体は確認できなかった。機長のSamuel M.CARVER Jr.中尉は、パラシュートが開かず中区長者町の民家前に墜落死、三ツ沢墓地に埋葬。
 2人がパラシュート降下し、Nick J.CHRISTIANO伍長は南区唐沢で捕まり、横浜港の海軍警備隊に引き渡された後、大船海軍捕虜収容所に収容され、戦後米国に帰還。また、Ray E.HARRY少尉は、南区中村町4丁目で警防団員に捕まり、横浜憲兵分隊を経て東京憲兵隊へ送られたが、東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
 【地元の複数の人の話】
 夜中に火の玉になったB29がグルグル旋回しながら落ちて来た。墜落現場は南太田町2丁目と3丁目の境の京浜急行線のガードのあたりで、今はマンションが建っている。防空壕に避難していた人が大勢焼け死んだ。現場には焼け焦げた米兵の遺体や、ちぎれた手足などが落ちていた。
1945年4月15〜16日 神奈川県横浜市港北区(現・青葉区)奈良町の陸軍田奈弾薬工場(現・こどもの国)付近の山林
B29(機体 番号44−69882,第314航空団29爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
機長のEarl A.RUSSEL大尉など11人が死亡、遺体は松岳院墓地に埋葬。戦後の米軍調査で、このうちRUSSEL大尉と
 Darwin F.McLORD中尉の遺体のみ判別された。
 James O.WARREN少尉は墜落現場付近で田奈部隊の兵士らによって捕虜になり、鶴見憲兵分隊を経て東京憲兵隊へ送られたが、東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
1945年4月15〜16日 神奈川県横須賀市走水付近の海上
B29(機体番号42−93893、第313航空団9爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
機長のRaymond F.MALO中尉など10人が死亡。このうちBernard S.BENNISON少尉の遺体が、5月8日に走水神社の前を漂流、走水の陸軍要塞付近の海岸に埋葬。また、Kenneth E.LOGAN伍長の遺体が、5月25日に走水の揚水場付近を漂流、走水のマツザキ海岸に埋葬。
 Allen K.HILL二等軍曹が捕虜になり、東京憲兵隊へ送られたが、東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
1945年4月15〜16日 神奈川県藤沢市の江ノ島沖
B29(機体番号42−94034、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は火を噴き、高度を下げながら北から南へ飛び、江ノ島沖で突然爆発して500メートルほど沖合の海中に落下した。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
機長のWilliam W.WATSON大尉など8人は墜落時に死亡。このうちLee R.SPENCER軍曹の遺体は、高座郡茅ヶ崎町の海岸に漂着して、茅ヶ崎の墓地に埋葬された。参考人は平塚憲兵分隊長。
 4人が捕虜になり、このうちSeth RIGBY特務曹長は横浜から東京へ運ばれる途中、全身火傷により死亡。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。 他の3人Clifford MANNING少尉、Donald W.McNIVEN軍曹、Donald L.SHUBEERT軍曹は東京憲兵隊で尋問の後、東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
1945年4月15〜16日 千葉県市原郡白鳥村(現・市原市)石神コヤバの森林
B29(機体番号42−63545、第313航空団9爆撃群所属、ニックネーム「UMBRIAGO」)が墜落。
 飛行機は炎に包まれて北から南へ飛来し、白鳥村上空で東に旋回して山中に突っ込み爆発した。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
11人の搭乗員のうち2人は墜落死、白鳥村朝生原の宝林寺墓地に埋葬。
 機長のEdward E. SULLIVAN少尉、Johon T. HESTEY准尉、Harold J. NELSON Jr.少尉、James A. REINHART少尉、Harvey M.GLICK少尉、Frederick E.HULSE一等軍曹、Ralph H.CHAPEL少佐、Nick GAIZABARA Jr.伍長の8人が捕虜になり、東京憲兵隊へ送られたが、GAIZABARA以外の7人は東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
 GAIZABARAは、戦後米国へ帰還。
 Marvin G.GREENSPAN伍長は紙敷村(現・大多喜町)にパラシュート降下して、16日昼過ぎに警防団員に捕まり、手を縛られ湯倉付近まで連行され、西畑小学校に駐屯していた203部隊に引き渡された。この時、集まって来た兵士や村人がGREENSPANに暴行を加えたので、彼は縛られていた両手を解き放ち、100メートルほどの距離を逃亡した。兵士たちが追跡し、田村一平少尉の命令で兵士2人が彼を斬殺した。戦後の戦犯裁判で田村少尉は懲役12年の判決を受けた。
1945年4月15日〜16日 千葉県君津郡小櫃村(現・君津市)末吉
B29(機体番号44−69871、第314航空団19爆撃群所属)が 墜落。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機
機長のJohn L.SCHEFIELD Jr.中尉など4人が墜落死。現場付近に埋葬。参考人は久留里警察署。
 6人が捕虜になり、このうちWarren H.RANSLER少尉は、木更津市貝淵の海岸にパラシュート降下して、19日間逃亡を続けたが、5月4日に海軍の警備隊に捕まり、木更津海軍航空隊から大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
 Donald E.BARTHOLOMEW少尉、Archer S.KLONICK軍曹、Anthony F.SCOLARDO二等軍曹、Henry F.YOUNGE軍曹、Bertran L.WARE軍曹の5人は墜落現場周辺で捕まり、東京憲兵隊へ送られたが、東京陸軍刑務所に収容中、5 月26日の空襲による火災で死亡。
1945年4月15〜16日 神奈川県川崎市とグアム島の間
以下の3機のB29が失われた。
 (注)上記作戦の損失機11機のうちの3機
B29(機体番号42−24821、第313航空団504爆撃群所属)
相模湾に墜落し、同行の米軍機からはパラシュートが4つ開くのが見られたが、捕虜になった米兵はおらず、機長のElmer N.BARLOW中尉など10人全員墜落死または溺死とみられる。
B29(機体番号44−69907、第314航空団39爆撃群所属)
機長のWilliam J.SOUTHALL Jr.中尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−24903、第314航空団19爆撃群所属)
機長のRobert McDONALD中尉など12人全員死亡。
1945年4月15〜16日 硫黄島
B29(機体番号42−24664、第73航空団500爆撃群所属)が硫黄島へ帰着して損失と判定された。
 (注)作戦任務第69号(目標:東京市街地、第73航空団から出撃118機、損失1機)
死者なし。
1945年4月19日 東京都品川区荏原7丁目
P51(第21戦闘機群531中隊所属)が墜落。
Arthur R.BECKINGTON少尉がパラシュート降下して捕虜、東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年4月19日午後 神奈川県藤沢市柄沢230
P51(機体番号44−63444、第15戦闘機群46中隊所属)が墜落。
飛行機は高圧線にひっかかって民家に墜落、炎上。民家の住人5人も死亡した。
 Thomas L.COLE少尉が死亡、藤沢市村岡の天獄院墓地に埋葬。
1945年4月24日午前9時頃 東京都北多摩郡砂川村(現・立川市)川越道西の松林
B29(機体番号42−24779、第313航空団 504爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第96号(目標:日立航空機立川工場、第73・313・314航空団から出撃131機、損失5機)
機長のLeon M.BURKETTなど11人全員墜落死。北多摩郡砂川村のリュウセンジ墓地に埋葬。
1945年4月24日午前9時30分頃 埼玉県入間郡高階村(現・川越市)寺尾
B29(機体番号42−94026、第314航空団19爆撃群 所属)が墜落。
 立川方面から北上してきた12機編隊のB29のうちの1機が、右エンジンから火を吹きながら反転して垂直に麦畑に落下し、大音響とともに爆発炎上した。
 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機
機長のMarion C.FLOYD Jr.中尉など6人が墜落死。高階村寺尾の勝福寺墓地に遺体。参考人は勝福寺住職。
 Justice J.BUTTALA少尉、Douglas BANNON軍曹、Gilbert O.STOCKINGER軍曹、David N.POWELL軍曹、Thomas L.ELINGENSMITH軍曹の5人がパラシュート降下して、そのうち1人は高階村役場付近で、3人は川越市で、1人は福岡村で捕虜になった。彼らは東京憲兵隊へ送られ、東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲による火災で死亡。
 【地元の男性(当時10代)の話】
 墜落現場は東部鉄道線新河岸駅東南数百メートル付近の畑地で、残骸は地中深くめり込み、機体も搭載物もバラバラになって散乱していた。付近では大騒ぎになって皆が武器になりそうな物を手にして駈け集まった。米兵のちぎれた遺体が木に引っかかっていた。
1945年4月24日午前 静岡県の沖合
B29(機体番号44−69897、第314航空団330爆撃群所属)が墜落。
  ⇒東海軍管区の項参照
 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機
1945年4月24日午前 三重県南牟婁郡北輪内村(現・尾鷲市)の沖合
B29(機体番号42−63483、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。
  ⇒東海軍管区の項参照
 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機
1945年4月24日 硫黄島
B29(機体番号42−24853、第313航空団9爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機
1945年5月8日午前10時頃 千葉県館山市館山海軍飛行場
P51(第15戦闘機群45中隊所属)が墜落。
 館山基地を攻撃中に、対空砲火を受けて滑走路脇に墜落して仰向けになったが、炎上はしなかった。
Roy F.ZALESKY少尉が死亡。遺体は翌日、箱に納めて館山湾に水葬された。また、飛行機の残骸や遺品は地元の小学校に陳列して市民に公開された。
1945年5月17日 神奈川県藤沢市大庭城下の田んぼ
P51(機体番号44−63754、第21戦闘機群531中隊所属)が墜落。
 厚木飛行場を攻撃中に撃墜された。
Joseph P.DAVIS Jr.准尉が死亡。藤沢市本町三丁目の浄光寺墓地に埋葬。
1945年5月17日 千葉県安房郡野島崎沖合
2機のP51(機体番号44−63987、と機体番号44−63917、いずれも第21戦闘機群 531中隊所属)が衝突して墜落。
 厚木飛行場攻撃からの帰途の事故。
63987機のRobert H.MOODY中尉と63917機のJohn W. COX少尉が死亡。
1945年5月19日 東京とテニアン島の間
B29(機体番号44−69961、第313航空団505爆撃群所属)が不時着。
 (注)作戦任務第178号(目標:立川陸軍航空工廠、第58・73・313・314航空団から出撃309機、損失4機)
機長のAnton OBERT中尉など5人が死亡。他の6人は米軍が救助。
1945年5月23〜24日 東京都芝区白金台町今里町(現・港区白金台4丁目)の国立公衆衛生院付近
B29(機体番号44−69777,第73航空団498爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第181号(目標:東京市街地、第58・73・313・314航空団から出撃558機、損失17機)
下記の7人が墜落死。
 George L.McFERSTS中尉、Myron S.MILLER中尉、George J.O’NEILL Jr.一等軍曹、Reth C. JOHN Jr.二等軍曹、Kaylin ANDREW軍曹、William L. COE二等軍曹、Jarld N. MITCHELL二等軍曹。
 下記の4人がパラシュート降下して捕虜。
 機長のEverett E.ZWEIFEL大尉は品川付近で海軍に捕まり、大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。Gerald F. FAIVRE中尉、Victor E. MORRIS中尉、Harry H. FRENCH二等軍曹の3人は東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年5月23〜24日 東京都渋谷区千駄ヶ谷町原宿付近
B29(機体番号44−69734、ニックネーム「HELL’S BIRD」,第58 航空団462爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は、対空砲火を受けて片翼がちぎれ空中爆発した。
 (注)上記作戦の損失機17機のうちの1機
搭乗員12人のうち、機長のSeldon G.MOUSERなど10人は死亡と思われるが、現場付近では6遺体しか見つからなかった。
 Walter P.TRIBBLE少尉とWilliam P.ROSENTHAL中尉の2人が捕虜になり、東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年5月23〜24日 東京都世田谷区赤堤町1丁目
B29(機体番号42−65266、ニックネーム「THE GAME COCK」,第313航空団504爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は、対空砲火を受けて片翼が炎に包まれ、スピン状態で空中爆発した。
 (注)上記作戦の損失機17機のうちの1機
搭乗員11人のうち下記の7人が墜落死して、東京都北多摩郡の多摩墓地に埋葬。
 Erick H.GRAN中尉(機長)、Robert J.BEWAGEN中尉、Martin SWECKI少尉、Robert J.HENSEMER少尉、Wane W.MARTIN少尉、Carl F.NASCELD Jr.軍曹、Charles F.McDONALD伍長。
 下記の4人がパラシュート降下して捕虜。
 Henry W.JONES曹長、James T. MACOMB軍曹、John W.STALMAKER軍曹、Edward GORRIR伍長。彼らはトラックで東京憲兵隊へ連行され、戦後米国へ帰還。
 【地元の男性(当時5才)の話】
 夜中に空襲警報が鳴り、たくさんの探照灯が照射された。B29の1機が捕捉され高射砲弾が命中した。B29は火玉になり、爆音が間近に聞こえ、地上に激突して地響きをたてた。夜が明けてから墜落現場へ行ってみると、大勢の見物人が集まっていたが、既に軍隊が来て囲いをしており、人々を近寄らせなかった。米兵の遺体が並べられて筵がかぶせられていた。機体の破片はあちこちに落下しており、人々はそれを切り取って弁当箱などに加工した。様々な搭載物も持ち去った。子供が機銃弾を拾って遊んでいて爆死した事故もあった。機体の残骸の一部は戦後も相当長い間残っていた。捕虜が1人捕まったのは知っている。特に暴行を受けるということもなく連れ去られて行ったようだ。
1945年5月23〜24日 東京湾
B29(機体番号42−63486,第73航空団500爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は対空砲火を受けて空中爆発、海上に墜落した。
 (注)上記作戦の損失機17機のうちの1機
機長のEugine M.THOMAS Jr.中尉など7人は墜落死、また,3人はパラシュート降下したが溺死。
 Robert G.PHILLIPS中尉は東京湾にパラシュート降下して漂流中、日本軍に救助されて捕虜。東京憲兵隊へ送られ、戦後米国 へ帰還。
1945年5月23〜24日 東京湾
B29(機体番号44−69742,第73航空団500爆撃群所属)が墜落。
 目標を爆撃後、2回にわたって対空砲火を受けて操縦不能に陥った。
 (※上記作戦の損失機17機のうちの1機)
機長のLeonard L. HUGHES中尉など10人が墜落死。
 William H.McCLURE少尉が海上にパラシュート降下して捕虜。東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年5月23〜24日 東京湾羽田付近
B29(機体番号44−70075,第73航空団498爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機17機のうちの1機
11人の搭乗員のうち、機長のJack A.ALLISON大尉など10人が死亡。そのうち、Fruad J.SMITH一等軍曹、Robert STAREVICH一等軍曹、Eugene  F.FLORIE二等軍曹の遺体が、東京都大森区森ケ崎海岸に漂着、現場付近に埋葬。
  Joe L. McQUADE二等軍曹は海上にパラシュート降下して捕虜。東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年5月23〜24日 東京付近
B29(機体番号42−65362、ニックネーム「空龍」、第314航空団39爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機17機のうちの1機
機長のRichard E.PAQUETTE大尉など9人が墜落死。
 Sherwood C.KIERNAN軍曹、Lioyd R.HILL軍曹の2人が捕虜。東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年5月23〜24日 硫黄島
東京を爆撃したB29(機体番号44−69987、第313航空団6爆撃群所属)が硫黄島に不時着。
 目標を爆撃中に対空砲火により損傷をうけたが、墜落することなく硫黄島に帰着した。
機長のJay K.ANDERSEN中尉など5人は基地へ帰着。
 William A. MITCHEL准尉、Harold J. ANDERSON Jr.少尉、Michael BOYKO軍曹、Ralph G. SASSER伍長、Albert P. LOUSEBURY伍長、Joseph E. COSTELLO伍長の6人が東京上空でパラシュート降下して向島付近で捕虜。東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰国。
1945年5月23〜24日 千葉県市原郡鶴舞町山小川の山林
B29(機体番号42−24759、ニックネーム「BLIND DATE」、第313航空団6爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機17機のうちの1機
下記11人全員がパラシュート降下して捕虜。
 John B. BOYNTON中尉(機長)、Rollin E.HEIDLEBAUGH少尉、Albert S. ROMESER中尉、Franklyn S. GREEN少尉、Roger L. TOWNZEND曹長、Frank C. MASSEY二等軍曹、DAVID G. FARQBAR Jr.二等軍曹、Kenneth E.CRERCH二等軍曹、Milan E.DANAWAY軍曹、Stephen SPAGE Jr.軍曹、Robert FRANZ軍曹
 彼らは東京憲兵隊へ送られ、戦後、全員が米国へ帰還。
1945年5月23〜24日 千葉県木更津市大田山公園の南(請西)の田んぼ
B29(機体番号42−24751、ニックネーム「T−SQUARE 48」、第73航空団498爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機17機のうちの1機
6人が墜落死。そのうち5人の遺体は戦後米軍によって現場付近で発掘されたが、もう1遺体は不明。
 下記5人が現場付近で捕虜。
 James S. ROGS Jr.中尉(機長)、Laurel E. BOLINE中尉、Harvey H.HOFFMAN中尉、James J. YARBROUGH一等軍曹、Edward R. TOELLE二等軍曹。
 彼らは木更津海軍航空隊から大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
 地元の人の話によると、何人かの飛行士が捕虜になり、駆けつけた人々が殴るなどしたが、木更津海軍航空隊の兵士がやって来て制止して飛行士を連行したとのこと。また戦後、警防団長などが危害を加えたとして米軍の取り調べを受けたという。
1945年5月23〜24日 東京とマリアナ基地の間
以下のB29が墜落または不時着。
 (注)上記作戦の損失機17機のうちの7機
B29(機体番号42−24870、第313航空団6爆撃群所属)
機長のJoseph H.SNYDER少尉など11人全員死亡。
B29(機体番号44−69852、第73航空団498爆撃群所属)
機長のVirgil OLDS大尉など12人全員死亡。
B29(機体番号42−63498、ニックネーム「SWEET LIL」、第58航空団40爆撃群所属)
1人死亡。機長のOtto L.KERSTNER中尉など11人は米軍が救助。
B29(機体番号44−93969、第314航空団330爆撃群所属)
機長のDougls H.NEILL大尉など12人全員死亡。
B29(機体番号42−63445、第58航空団468爆撃群所属)
全員米軍が救助。
B29(機体番号42−63509、第313航空団9爆撃群所属)
8人死亡。
B29(機体番号42−6211、第58航空団462爆撃群所属)
4人死亡。
1945年5月24日
氏名不詳の米兵の1遺体が東京都蒲田区羽田御台場付近に漂着して埋葬。また、氏名不詳の米兵の4遺体が横浜市鶴見区シオイリ町付近に漂着してコウエイ寺に埋葬。
1945年5月25日午後1時15分頃 千葉県柏町(現・柏市)田中村
P51(機体番号44−63328、第18戦闘機群78中隊所属)が墜落。
 松戸飛行場を攻撃中にゼロ戦により撃墜された。
Robert L.WILLIAM少尉が捕虜になり、田中村役場に連行されたが、頭部にかなり負傷していて自分では歩けなかった。柏憲兵 隊を経て東京憲兵隊へ送られたが6月8日に死亡。東京小石川陸軍墓地に埋葬。
1945年5月25〜26日 東京都麹町区麹町1丁目(現・千代田区一番町)の英国大使館東隣
B29(機体番号42ー24828、ニックネ ーム「LIL SPOOK」、第313航空団505爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のWilliam F.HELFELT中尉など、搭乗員12人全員死亡と思われるが、現場では9人分の焼死体しか確認できなかった。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。
1945年5月25〜26日 東京都豊島区高田南町2丁目(現・高田3丁目)の中外製薬の工場付近
B29(機体番号42−63558、第313航空団6爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のDonald M.FOX中尉など9人が墜落死。東京都豊島区日の出町3丁目ネヅヤマ墓地に遺体を埋葬。1945年11月に米軍 が回収。
 Charles W.SNELL軍曹とHarry D.MAGNUSON軍曹の2人が捕虜になり、東京憲兵隊へ送られたが、SNELL軍曹は、火傷により5月30日に東京憲兵隊本部医務部で死亡、東京小石川の陸軍墓地に埋葬。MAGNUSON軍曹は戦後米国へ帰還。
1945年5月25〜26日 東京都大森区(現・大田区)久が原町の久が原小学校付近
B29(機体番号42−62538、ニックネーム
 「WINGED VICTORYⅡ」、第58航空団40爆撃群所属)が墜落。
 損傷を受けた飛行機が久が原上空に飛来し、さらに高射砲弾を受けて空中爆発、主翼・胴体部分は久が原6丁目の民家に落下、尾翼部分は2丁目に落下した。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
下記の7人が墜落死し、大森区の池上本門寺に埋葬。
 Andrew C.PAPSON大尉(機長)、Martin J.LONG中尉、Joseph N.MURPHY中尉、Adolf C.KATSBECK少尉,
 Hershell J.HILL一等兵、Ralph M.ALLEN伍長、John V. GONTEN二等軍曹。
 下記の4人が現場付近に降下し、捕虜。
 Delbert W.MILLER少尉、Patric E.PALLECCHIA少尉、Walter W.OESTRICH伍長、Elmar H.ERTSCH Jr. 伍長。
 彼らは、現在の池上警察署の所に集められ、そこに駐屯していた憲兵によって東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
 B29の残骸の一部は、久が原小学校に駐屯していた兵士たちが戦利品として飾っていたが、敗戦時に校庭の隅に埋められ、2004年に校庭の改修工事が行われた時に再出土し、学校に保管されている。
1945年5月25〜26日 東京都深川区(現・江東区)東雲町の福祉施設
B29(機体番号42−65269、第58航空団40爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のRonald A.HARTT少佐など10人が死亡。
 Dale L. JOHNSON二等軍曹がパラシュート降下して捕虜。東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年5月25〜26日 東京都足立区入谷町の水田
B29(機体番号44−69728、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第183号(目標:東京市街地、第58・73・313・314航空団から出撃498機、損失26機)
B29は南方から火を吹きながら飛来し、高度500メートルほどで爆発、現在のトラック・ターミナル付近に墜落した。破片は広範囲に散らばり、エンジンは2日間燃え続けた。戦後、B29のプロペラ1枚が土地の所有者によって掘り出され、入谷南中学校に寄贈されたが、現在は足立区郷土博物館に保管されている。
 James W.MACKENZIE軍曹とEdward J.COHGHLAN軍曹の2人が墜落死。浄光寺の住職が墓標を建立。
 Richard W. MANSFIELD大尉(機長)、Robert E.RING准尉、Melvin UNTERMAN大尉、Robert P. JONES Jr. 少尉、Edward I.KARNA一等軍曹、Joseph J. DEEB軍曹、Thomas D. JORGENSON軍曹、Robert F. MICHELSEN軍曹の8人がパラシュート降下して捕虜。東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
 Dwight H.KNAPP少尉はパラシュート降下し、荒川放水路の支流付近に潜伏していたが、警防団員に発見されたためピストルを 発射、1人を射殺、1人に重傷(後死亡)を負わせた。警察の捜査により、2日後に西新井駅の貨車の中に隠れているところを発見され、逮捕されて上野憲兵分隊に引き渡された。上野憲兵分隊長の堀江明少佐が彼を東京憲兵隊司令部へ連行したところ、司令官の大谷敬二郎大佐から「殺人を犯した米兵を捕虜として扱う必要なく、厳重に処分せよと」の指示を受けたため、部下の野口悦二曹長に命じて千住新橋の南側の河原でKNAPP少尉を斬首させた。
 戦後の戦犯裁判で野口曹長は懲役12年、大谷大佐は懲役10年となったが、上野憲兵分隊長の堀江少佐は戦後自決。
1945年5月25〜26日 神奈川県川崎市川崎区水江町の池上入江崎
B29(機体番号42−63537、ニックネーム「MALE CALL」、第58航空団444爆撃群所属)が墜落。
  飛行機はバラバラになり、機体の破片は300メートルの範囲にわたって散乱した。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
  機長のDavid G.SIMS大尉など9人が死亡。
 Glen B. GUYTON二等軍曹とMichael J. ROBERTSON二等軍曹の2人が捕虜。東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年5月25〜26日 千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)の沖合
B29(機体番号42−94002、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は、東京方面から飛来し、浦安上空付近で高射砲弾を受けたらしく、南へ旋回するように海中に突っ込んだ。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のElba G.HUNT中尉など12人全員死亡し、3人分の遺体が発見されたが、残りの遺体は行方不明。
1945年5月25〜26日 千葉県東葛飾郡新川村(現・流山市)桐ケ谷新田
B29(機体番号42−63508、ニックネーム「PEACHY」、第313航空団505爆撃群所属)が墜落。
 東京方面から東北に飛んで来た飛行機が、エンジンの一つから火を吹き、旋回して墜落。付近の松林の木を200メートルにわたってなぎ倒し、爆発炎上した。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のHenry W.PUTMAN大尉など11人全員が墜落死したが、機体はバラバラになり、満足な遺体は1体だけであった。新川村南桐ケ谷の西善院墓地に埋葬。参考人は野田警察署。
1945年5月26日午前2時ごろ 千葉県印旛郡船穂村(現・印西市)大字武西
B29(機体番号44−69964、ニックネーム「MARY  ANNA Ⅱ」、第313航空団505爆撃群所属)が墜落。
 B29は炎に包まれて低空で飛来、空中爆発して武西地区の田んぼに墜落した。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
搭乗員11人のうち、3人が墜落死。
 胴体部分の残骸の中に2遺体が見つかり、憲兵隊の命令で警防団員らが火葬し、遺灰は箱に入れて安養寺墓地に埋葬した。別の1遺体が尾翼部分から200メートルほど離れた所で発見され、戸神墓地に土葬した。
 戦後、占領軍が遺体の回収に来た時、安養寺墓地には「アメリカ空軍兵士の英霊のために」と書かれた墓標が建てられ、戸神墓地には「B29搭乗員の1人、1945年5月25日」、「B29飛行士の墓」と書かれた2本の墓標が建てられていた。
 下記の8人がパラシュート降下して船穂村(現・印西市)や六合村(現・印旛村)周辺で捕虜になり、東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ 帰還。
 Loren E. DECKER中尉(機長)、Robert L.FINK中尉、Chester C. BABICZ曹長、Walter G. BRANSTROM軍曹、Oren G. BRISCOS軍曹、Scott M.DOWNING少尉、Jack G.EVANS軍曹、James L. GREEN伍長。
 【テキサス州在住のLoren E.DECKER氏の話】
 1945年5月26日午前2時ごろ、B29で作戦任務飛行中、機体が火を吹いた。私は東京の東北にある飛行場付近にパラシュート降下し、茂みに身を隠した。日本軍の警備兵が何人か通り過ぎたが、私は警備兵の集団が来るのを待って投降した。というのは、我々B29飛行士は日頃から、日本兵1人だと驚いて発砲するかも知れないが、集団なら冷静に対応してくれるだろうと考えていたからである。
 私はポケットに水の入ったカンを所持していたが、日本兵たちは、それに水が入っているのかウイスキーが入っているのかと、とても興 味深そうだった。
 警備兵詰所へ連行され、別の警備兵の一団に引き渡されると状況は変わった。私は目隠しをされ、左右と背後を警備兵に囲まれて、 別の部屋まで歩かされた。その途中、1人の警備兵は私の顔面を何度も殴り、もう1人は背後から私をけり、別の1人は刀の鞘のようなもので私の頭を殴った。その時できたコブは今でも後頭部に残っている。目隠しがなければ、事態はもっと悪くなっていただろう。
 別の建物の真ん中にある部屋へ連れていかれ、汚い床に座らされた。数分おきに1人の警備兵がやって来て、我々が眠らないように頭を殴った。これは午後まで続いた。我々は目隠しをされ、互いに話をすることを禁じられていたので、捕虜が何人いるのかわからなかった。やがて、ひどくおんぼろなトラックの荷台に載せられて、皇居の二重の堀にはさまれた東京憲兵隊の建物へ連行された。
 【B29搭乗員の遺品が遺族に返還される】
 1952年8月、船穂村の農夫が畑を耕している時、地中から金色のリングを掘り出した。このリングには、ニューヨークのザビエル高校の シールが貼ってあり、「VKK」という頭文字が書かれていた。このニュースがアメリカに伝えられ、調べたところ、墜落死したB29搭乗員の Vity K.KARFELLl二等軍曹の所持品であることがわかり、リングは母親のMary KARFELLlさんに届けられた。母親は、懐かしい息子の遺品を手にして涙にくれていたという。
1945年5月25〜26日 千葉県君津郡馬来田村(現・木更津市)真理谷ヤブノダイの畑
B29(機体番号42ー94079、第314航空団39爆撃群所属)が墜落。
 日本軍戦闘機の体当たり攻撃を受けた。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のColnelius W.KOBLER大尉など10人が死亡。
 Harry J.SLATER軍曹が捕虜になり、東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年5月26日午前1時30分頃 千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)字榎本長栄寺付近の田んぼ
B29(機体番号44−69978、 第313航空団504爆撃群所属)が墜落。
 B29は道路をはうように墜落し、田んぼに突っ込んだ。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のSamuel B.HITT中尉を含む4人が死亡したが、他の2人は瀕死の重傷ながら、まだ生きていた。彼らは、長栄寺に駐屯していた東部426部隊第1大隊第1挺身中隊員によって長栄寺に運ばれたが、このうち氏名不詳の1人は何の手当も施されないまま明け方に死亡した。もう1人のDarwin T.EMRY中尉は苦しみ続けており、午後になって中隊長の満淵正明大尉の命令により、100人以上の村人の見守る中、衛生兵の境野鷹義曹長が斬首した。さらに、彼の遺体は菊池重太郎中尉の指揮下で、新参兵らの刺突演習の材料とされた。この件は上部へ報告されることなく、遺体は長栄寺の背後の墓地に埋葬された。
 戦後の横浜裁判で満淵正明大尉は、「処刑は、安楽死させてやるために武士の情けで介錯したもの」と主張し、武士道裁判と呼ばれ たが、残虐行為の首謀者として絞首刑に処せられた。また、菊池重太郎中尉は懲役25年、境野鷹義曹長は逃亡を続けていたが、後に 出頭し無期懲役、刺突演習に加わった下級兵士6人は懲役1〜2年となった。
 下記の5人が榎本の水田、桜谷の山林、針ケ谷の水田、徳増などにパラシュート降下して捕虜。
 Floyd F.FIELDER中尉、Harmon REEDER Jr.少尉、Abel P. SOTO軍曹、Dennis E.TYRING軍曹、George  L.SHERIDAN少尉。
 彼らは日吉小学校や長栄寺に集められた後、同日午後に茂原憲兵隊を経て東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還したが、そのうち1人は航海中の病院船内で死亡した。
 【長栄寺住職夫人(1921年生まれ)の話】
 事件の日の夜中に大きな音がしてB29が墜落した。夜が明けて、4人の遺体と瀕死の2人が寺の横の竹藪へ運ばれて来た。EMRY 中尉は大腿部にひどい傷を負っていて自分で体を起こすことができないので、日本兵が綱で体を竹にくくりつけて支え、境野曹長が首 をはねた。血が噴水のように吹き出た。大勢の人々が寺の周囲に押し掛けて、それを見物していた。遺体は寺の裏山に埋められた。寺 に駐屯していた日本軍の部隊は、間もなく九十九里海岸の方へ移動して行った。戦後、米軍が遺体を回収に来て斬首の事実が発覚し た。境野鷹義曹長は戦犯を解除になってから2度ほど寺を訪れて来て「お世話になりました」と礼を述べていた。彼は昭和60年頃に亡く なったが、奥さんは位牌を寺に納められた。
 長栄寺の住職は、この事件に心を痛められ、1996年に満淵正明大尉とDarwin T.EMRY中尉を弔う鎮魂碑(日本文・英文)を境内に建立し、法要を営まれた。
1945年5月25〜26日 茨城県猿島郡神大実村(現・坂東市)
B29(機体番号42−24724、ニックネーム「HER MAJESTY」、第58航空団444爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のHarold M.BRIGHT大尉など9人が墜落死。猿島郡神大実村延命院に遺体を埋葬。
 2人がパラシュ−ト降下して捕虜になり、古河憲兵分隊を経て東京憲兵隊へ送られた。そのうちHarold E.HARDELSON二等軍曹は6月5日に病死。東京小石川陸軍墓地に埋葬。Edward F.O’HARA二等軍曹は、戦後米国へ帰還。
1945年5月25〜26日 茨城県鹿島郡豊郷村(現・鹿嶋市)山之上
B29(機体番号42−65327、ニックネーム「PRINCESS EILEEN Ⅳ」、第58航空団444爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のJohn E.SHILER大尉など6人が墜落死。山之上の共同墓地に埋葬。参考人は鹿島警察署。
 John H.NEWCOMB中尉、William B.STERLNIK中尉、Roger J. OREILUS中尉、Donald D. BLOODGOOD軍曹、Donald R.PRESS二等軍曹、John J.McEACHERN少尉の6人が捕虜になり東京憲兵隊へ送られた。このうちPRESS二等軍曹は6月10日まで山中に隠れていて付近の住民に発見された。彼らは戦後米国へ帰還。
1945年5月25〜26日 茨城県鹿島郡白鳥村(現・大洋村)上沢北海岸400メートル沖
B29(機体番号42−63513、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
機長のEdward K.BURREIL中尉など9人は海中に墜落して死亡とみられる。なお、付近の海岸では5月頃に相次いで8人の身元不明の米兵の遺体が見つかった。参考人は鉾田警察署。
 Stanely FORYSTAC伍長とWarren L.OLSON軍曹の2人が捕虜になり東京に移送されたが、いずれもひどい火傷を負っており、FORYSTAC伍長は27日に、OLSON軍曹は30日に東京憲兵隊本部医務部で毒殺された。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。
1945年5月25〜26日 埼玉県北足立郡安行村(現・川口市安行吉蔵)の田んぼ
B29(機体番号42−24826、ニックネーム「IN THE MOOD」、第313航空団505爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
飛行機は、対空砲火を受けて東京方面から炎に包まれて飛来して安行村の吉蔵新田に墜落、3日間燃え続けた。
 6人が墜落死し、安行村原の密蔵院墓地に埋葬。1956年、地元の人によって吉蔵八幡神社に米兵の慰霊碑が建てられた。
 下記の5人がパラシュート降下して捕虜になり、東京憲兵隊へ送られた。Charles J.COUCHMAN Jr.二等軍曹、Harold LEAVITT二等軍曹、Glidden C.LARVEY軍曹、John W.MACGUIRE軍曹、Fransis F.JENSEN中尉。
 このうちJENSEN中尉は重傷を負っており、治療の見込みなしとして東京憲兵隊で毒殺された。他の4人は戦後米国へ帰還。
1945年5月25〜26日 埼玉県北葛飾郡彦成村(現・三郷市彦成)の田んぼ
B29(機体番号42−63529、第58航空団468爆撃群 所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
飛行機は高射砲弾を受けて損傷、旋回中に急角度で墜落して爆発、炎上、地上に大きな穴をあけた。
 機長のHomer H.HINKLE中尉、Willis A.WHITE曹長、Fred R.DUNHAM二等軍曹、Eugine LEWIS二等軍曹の4人が機体とともに墜落死、近くの寺に埋葬されたが、戦後の米軍調査で氏名が確認できたのは1遺体だけであった。
 下記の7人がパラシュート降下して、翌日までに警察や警防団員により捕虜。
  John C.LAMON中尉、Arthur M.SHELTON中尉、Wesley C.HALBERT中尉、Patric E. CLARENCE二等軍曹、Thomas W. PAUL二等軍曹、Alvins J.ELGERHUIS二等軍曹、Donald E.RYAN二等軍曹。
 彼らは東京憲兵隊へ送られ、 戦後米国へ帰還。
1945年5月25〜26日 硫黄島付近
B29(機体番号42−24723、ニックネーム「SHANGHAI LIL RIDES AGAIN」、第58航空団444爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
Glenn W.NELSON軍曹が行方不明。それ以外の搭乗員は米軍が救助。
1945年5月25〜26日 東京とマリアナ基地の間
以下の9機のB29が墜落または不時着。
  (注)上記作戦の損失機26機のうちの9機
B29(機体番号44−69755、第73航空団500爆撃群所属)日本の海岸から200キロ付近の海上に墜落。
機長のRobert D.LURAN少佐など11人全員死亡。
B29(機体番号42−65273、ニックネーム「BIG ”AINT IT”」、第58航空団444爆撃群所属)
機長のJohn B.DUBOES少佐など11人全員死亡。
B29(機体番号42−63536、ニックネーム「MAMMY YOKUM」、第58航空団468爆撃軍所属)
機長のJames H.JOHNSON大尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−94050、第73航空団497爆撃軍所属)
機長のHarvey L.SWENSON中尉など6人死亡。他の5人は米軍が救助。
B29(機体番号42−63521、第58航空団462爆撃群所属)
機長のWiliam N.ELLERBE少佐など11人全員死亡。
B29(機体番号不明、第313航空団6爆撃群所属)
硫黄島に不時着し、損失と判定。死者なし。
B29(機体番号44−69325、第313航空団6爆撃軍所属)
死者なし。
B29(機体番号42−65211、第73航空団498爆撃群所属)
硫黄島へ帰着して損失と判定。死者なし。
B29(機体番号不明、第314航空団29爆撃軍所属)
11人全員死亡。
1945年5月25〜26日 渋谷の東京陸軍刑務所
空襲により、渋谷の東京陸軍刑務所が炎上、収容されていた日本人の囚人約400人は無事救出されたが、米捕虜飛行士62人は焼死した。その上、逃れ出ようとした何人かの米兵は日本人看守により斬殺されたという。
 日本側の主張では、米兵は一番奥のブロックに収容されていたので救出が遅れた。看守は留置場の扉を開き米兵のうち23人を外へ出したが、塀に阻まれて逃げ場を失い窒息焼死したものであり、不可抗力であったとする。
 戦後の戦犯裁判で、管理責任を問われた刑務所長の田代敏雄大尉は死刑(再審で懲役40年)、看守長の越川政男少尉は死刑(再 審で懲役30年)、米兵を斬殺したとされる看守の神戸初秋軍曹、神本啓二軍曹、大久保又一曹長は死刑(いずれも再審で懲役10年)となった。
1945年5月27日 茨城県東茨城郡磯浜町(現・大洗町)の沖合
身元不明の米兵の遺体が漂着。
1945年5月29日午前11時頃 千葉県夷隅郡大多喜町老川の筒森の山林
B29(機体番号42ー94956、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は横浜上空で高射砲弾を受け、飛行不能に陥った。墜落現場付近一帯には破片が散らばり、残骸は2日間燃え続けた。
 (注)作戦任務第186号(目標:横浜市街地、第58・73・313・314航空団から出撃510機、損失7機)
下記の搭乗員11人全員がパラシュート降下して捕虜。
 Marcus R.WORDE大尉(機長)、Oliver C.THOMAS曹長、James P.MARTIN少尉、Arthur P.O’HARA Jr.尉、Wallace MORITZ少尉、William K.JOHNSTON軍曹、Alan G.KENISTON二等軍曹、Bruce A.YUNGCLAS 軍曹、Abraham S.GINSBERG軍曹、John F.RYAN Jr.二等軍曹、Ward S.LYONS軍曹。
 このうちYUNGCLAS軍曹は、千葉県君津郡亀山村(現・君津市)蔵玉にパラシュート降下して捕虜。久留里警察署から木更津海軍 部隊へ引き渡され、大船海軍捕虜収容所に送られた。また、GINSBERG軍曹も海軍に引き渡され、大船海軍捕虜収容所へ送られた。
 その他の9人は大森捕虜収容所へ送られた。彼ら11人は戦後全員米国へ帰還。
 YUNGCLAS氏は1996年に来日して現地を訪問し、地元の人々の歓迎を受けた。
1945年5月29日午前11時頃 千葉県君津郡君津町(現・君津市)八重原
B29(機体番号44−69970、第313航空団504爆撃群 所属)が墜落。
 飛行機は、高射砲弾を受けて空中分解した。
 (注)上記作戦の損失機7機のうちの1機
機長のJames W.CORNWALL大尉など12人全員死亡。
 4人の遺体は君津町八重原に落下した尾翼部分で、3人の遺体はそこから2キロほど離れた木更津市大久保に落下した主翼部分で見つかったが、氏名の判別は不可能であった。1人はパラシュートが開かず、君津郡中郷村の牛袋に墜落死。残りの4人の遺体は不明。
 1951年に、地元の人が墜落現場付近に墓標を立て、2006年8月には、在日米軍の代表も参加して慰霊祭が行われた。
1945年5月29日午前 静岡県志太郡東川根村(現・本川根町)藤川
B29(機体番号42−24894、第58航空団40爆撃群所属)が 墜落。
  ⇒東海軍管区の項参照。
 (注)上記作戦の損失機7機のうちの1機
1945年5月29日 横浜とマリアナ基地の間
以下の4機のB29が失われた。
 (注)上記作戦の損失機7機のうちの4機
B29(機体番号44−69867、ニックネーム「MERRY FORTUNE」、第314航空団39爆撃群所属)
機長のReece KILLPACK大尉など8人が死亡、3人救助。
B29(機体番号44−69889、ニックネーム「THE OLD GIRL」、第314航空団39爆撃群所属)
4人死亡。機長のEdgar B. GREAR中尉など7人は米軍が救助。
B29(機体番号44−94039、第314航空団19爆撃群所属)
機長のGerald J.O’LEARY中尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−65277、第58航空団444爆撃群所属)
3人死亡、他は米軍が救助。
1945年6月2日 東京都鳥島付近
PBY5A(機体番号46468)が墜落。
全員死亡。John M.BRIGGSなど4遺体を米軍が回収。
1945年6月10日
東京爆撃のB29(機体番号42−63567、ニックネーム「CITY OF PROBIDENCE」、第314航空団19爆撃群所属)が東京から15マイルの海上に墜落。
Opell S.WOODS大尉など9人が死亡。2人は米軍が救助。
1945年6月23日午後1時過ぎ 千葉県香取郡久賀村(現・多古町)の山中
P51(第15戦闘機群47中隊所属)が墜落。
 下館飛行場を攻撃したP51の編隊に対して、百里が原基地の日本軍戦闘機部隊が、八日市場付近の上空で攻撃を加えた。
John V.SCANLAN中尉がパラシュート降下して捕虜。彼は午後3時頃、佐原町の佐原国民学校に置かれていた152師団の司令部へ連行されたが、かなりの傷を負っていた。傷の手当は施されず、間もなく数人の軍人たちによって学校の前庭に引き出され、群衆の前に晒されて暴行を受けた。その後、詰めかけた群衆の数は数千人にもふくれ上がったので、彼の身柄は校庭へ移され、さらに大勢の 人々から交互に棒や竹槍で暴行を加えられた。ぐったりしたSCANLANに何回かカンフル注射がうたれ、殴打が続けられ、数時間後に 死亡するに至った。遺体は荒縄で縛られたまま、佐原町寺宿の浄国寺の共同墓地の無縁墓地に埋葬された。
 戦後の戦犯裁判で、152師団の参謀長霜田千代士大佐が懲役40年、同参謀の新郷良夫少佐、酒井興三中尉、高橋一中尉、本宮宇之助中尉の4人が懲役5年、暴行に加わった佐原町民4人が懲役1年の判決を受けた。
1945年6月29日午前11時頃 千葉県勝浦市の沖合
PB4Y−1(機体番号90482)が墜落。
12人全員死亡。2遺体のみ発見されたが氏名は特定できなかった。
1945年7月4日午後 茨城県行方郡の霞ケ浦
P51(機体番号44−63906、第15戦闘機群78中隊所属)が墜落。
Gordon H.SCOTT中尉が捕虜になり、潮来憲兵隊から東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年7月6日 東京湾
P51(機体番号44−63795、第21戦闘機群72中隊所属)が墜落。
 所沢飛行場を攻撃中に撃墜された。
Clarnce H. BELL中尉が捕虜になり、横浜から大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年7月8日 東京都西多摩郡檜原村の山中
P51(機体番号44−72883、第506戦闘機群458中隊所属)が墜落。
 所沢飛行場や入間川飛行場を攻撃中に、檜原村の鬼切の下手の、通称ぬく坂の裏山に撃墜された。
Thomas F.HARIGAN少尉は即死、遺体は警防団員らによって泉沢の法性寺に埋葬された。
1945年7月8日午前11時30分頃 茨城県鹿島郡新宮村(現・鉾田町)大字烟田
P51(第506戦闘機群458中隊所属)が墜落。
 百里が原飛行場を攻撃中に、栗林に撃墜された。
Robert CARR中尉が墜落死。現場に埋葬。参考人は鉾田警察署。
1945年7月8日 茨城県東茨城郡橘村(現・小川町)山野の百里が原飛行場付近
F6Fが墜落。
氏名不詳の2人が墜落死。参考人は百里航空隊。
1945年7月8日 茨城県東茨城郡橘村(現・小川町)百里が原飛行場と硫黄島の間
P51(機体番号44−73634、第15戦闘機群45中隊所属)が墜落。
Albert W.SHERREN大尉が死亡。
1945年7月8日午後1時頃 山梨県北都留郡富浜村鳥沢(現・大月市)大字中野
P51(機体番号44−72673、第506戦闘機群462中隊所属)が墜落。
Virgil D.NEWBY中尉が捕虜。大月警察署へ連行された後、甲府憲兵隊員の手によって列車で東京憲兵隊へ送られ、戦後、米国へ帰還。
1945年7月10日 東京と空母ランドルフの間
TBM(機体番号69415)が墜落。
1945年7月10日午後2時頃 千葉県ソサ郡横芝町栗山の陸軍飛行場
空母ランドルフから飛来したF6F(機体番号79600)が墜落。
 早朝から繰り返し飛行場を攻撃していた米軍機の編隊のうちの1機が、高度1000メートル付近から真っ逆様に墜落した。
William H. LANGE海軍少尉が墜落死、現場付近に埋葬され、戦後、畑地から彼の上半身が掘り出された。
1945年7月10日 茨城県鹿島郡高松村(現・鹿嶋市)の神ノ池海軍飛行場付近の国末浜
FG1D(機体番号92109)が墜落。
Charles E. EMHOFF海軍少尉が死亡。
 地元の人の話によると、 操縦士は座席についたまま死んでおり、人々がその遺体を引っ張り出そうとしたが取り出せなかった。3日ほどして腐敗し始めたので、針金をつけて引っ張り出し、現場付近に埋葬したとのこと。
1945年7月10日 茨城県東茨城郡橘村(現・小川町)の百里が原飛行場付近
空母ベニントンから飛来したTBM(機体番号68129)が墜落。
Robert HOUGHTON海軍少尉、C.A.CLEGGE Jr.三等飛行通信兵曹、J.C.CINCARELY三等飛行機関兵曹が死亡。
1945年7月10日午後11時45分頃 埼玉県大里郡本畠村(現・川本町)
空母ベローウッドから飛来したF6F(機体番号77541)が墜落。
  三ケ尻航空基地を攻撃に来た4機編隊の戦闘機のうち1機が日本軍の対空砲火を受け、突然火を吹いて墜落。
E.H.CAYWOOD海軍少尉はパラシュートが開かず、荒川の北岸に墜落死した。遺体は翌日火葬され、称名寺墓地に埋葬。
1945年7月11日 茨城県東茨城郡橘村(現・小川町)大字山野の百里が原飛行場付近
米軍機が墜落。
1945年7月13日 神奈川県川崎市とマリアナ基地の間の海上
以下の2機のB29が失われた。
 (注)作戦任務第267号(目標:川崎石油センター、第315航空団から出撃60機、損失2機)
B29(機体番号42−63603、第315航空団16爆撃群所属)
8人が死亡。機長のJames TRIVETTE Jr.少尉など3人は米軍が救助。
B29(機体番号42−63653、第315航空団16爆撃群所属)
10人死亡。
1945年7月14日 神奈川県三浦郡(現・横須賀市)荒崎
空母モントレーから飛来したTBMが墜落。
Joel T.WASSON海軍少尉、Robert L. MILLER三等飛行通信兵曹、Serberg W. GORDON三等飛行機関兵曹の3人が捕虜になり、大船海軍捕虜収容所に送られ、戦後米国に帰還。
1945年7月17日 東京と空母ボノム・リチャードの間
F6F(機体番号79384)が墜落。
Charles P. CANHAM Jr.中尉が死亡。
1945年7月17日 東京と空母モントレーの間
F6F(機体番号79844)が墜落。
Oscar E. NORTHINGTON海軍少尉が死亡。
1945年7月17日午後3時30分頃 千葉県長生郡東郷村(現・茂原市)六ツ野の沼地
英空母ビクトリアスから飛来したF4U−1D(1834中隊)が墜落。
飛行士はパラシュートが開かない状態で死んでいた。機体の残骸は茂原海軍航空隊員によって処理された。
1945年7月17日 千葉県山武郡睦岡村(現・山武町)ナカハマノ部落
英空母ビクトリアスから飛来したF4U−1D(1834中隊)が墜落。
1945年7月18日 神奈川県相模湾
空母ベニントンから飛来したSB2C(機体番号21000)が墜落。
R.E.CHRIST海軍少尉とJ.T.POLLOCK三等飛行通信兵曹が死亡。機体も遺体も発見できず。
1945年7月18日午前11時40分頃 神奈川県足柄下郡の相模湾
空母エセックスから飛来したF6F(機体番号88110)が墜落。
 高度2000メートル付近で対空砲火を受け、スピン状態で海中に突っ込んだ。
David A. HORTON海軍大尉が死亡。
1945年7月18日 神奈川県横須賀市付近の東京湾
空母レキシントンから飛来したSB2C(機体番号21171)が墜落。
Merie E.PENNINGTON海軍少尉とMelford E.BENDICKSON二等飛行通信兵曹が死亡。
1945年7月18日 神奈川県横須賀市と空母インディペンデンスの間
TBM(機体番号68707)が墜落。
Harry PATTERSON中尉と、氏名不詳の2人が死亡。機体も遺体も発見できず。
1945年7月18日 神奈川県横須賀市と空母レキシントンの間
F4U(機体番号81535)が墜落。
Milton L. ADAMS海軍大尉が死亡。機体も遺体も発見できず。
1945年7月18日 千葉県ソサ郡キョウワ村の香取飛行場
空母ベニントンから飛来したFG1D(機体番号99321)が墜落。
Richard B.EASON大尉が死亡。
1945年7月19日午後3時頃 茨城県鹿島郡巴村(現・鉾田町)大字鳥栖本郷の百里が原飛行場付近の田んぼ
F6Fが墜落。
氏名不詳の1人が墜落死。現場付近に埋葬。参考人は鉾田警察署。
1945年7月20日午前0時45分頃 新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市横越町)字焼山の畑
B29(機体番号44−70116、第313 航空団6爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第278号(目標:新潟港と日本海沿岸各港への機雷投下、第313航空団から出撃31機、損失1機)
新潟港に機雷敷設中の8機のB29のうちの1機が高射砲弾を受けて火を吹き、積載物を落としながら墜落し、大きな閃光と爆発音と振 動が起こり、機体はバラバラになった。残骸は数時間燃え続け、機銃弾らしいものが小爆発を繰り返していた。
 Wails HAWKINS中尉、Clinton L.WRIDE中尉、Max A.ADAMS二等軍曹、Florie D.SPERO二等軍曹の4人が機体の後尾部とともに墜落死、村の家畜の墓に埋葬。戦後墓標を立て慰霊を装った。機体の残骸は、新潟市の白山公園に運ばれて市民に公開された後、新潟鉄工所で解体された。
 下記の7人が京ヶ瀬村などにパラシュート降下して、明け方までに警防団員や1993部隊の兵士に捕まり、トラックで新潟へ送られ、新潟警察署と新潟憲兵隊に収容された後、午後、新潟から列車で東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
 Robert J. BURKLE二等軍曹、Walter W. DICKERSON二等軍曹、Gordon P.JORDAN大尉、Robert A. GRANT軍曹、George F.McGRAW曹長、Walter S.WIERNICK二等軍曹、Paul A.TRUMP少尉。
 2000年に、横越町町史編纂室ではGeorge F.McGRAW曹長、Paul A.TRUMP少尉らと連絡を取り、また、墜落現場付近を探査して、B29の破片を発掘した。
  【地元の女性(1910年生)の話】
 亡くなった主人は区長をしていて、米兵の遺体の埋葬にあたったが、遺体を板に縄でくくりつけて運んで埋めたので、戦後米軍が発掘した時、「首に縄がかかっているのはなぜだ」と厳しく問いつめられた。米軍は10数回も家にやって来た。また墜落の翌朝、大勢の人が見物にやって来たが、京ケ瀬村から旧阿賀野川の湖化部を渡ろうとした満員の渡船が転覆し、10人ぐらいの溺死者を出すという事件が起こった。
1945年7月20日 茨城県日立市とサイパン島の間
B29(機体番号44−87652、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第278号、目標:日立市街地、参加部隊:第73航空団、出撃130機、損失2機のうちの1機
機長のWallace P.B.RINGHAM中尉など11人全員死亡。
1945年7月26日午前1時頃 神奈川県川崎市川崎区白石2丁目の日本鋳造株式会社白石工場
B29(機体番号42−63678、第315航空団502爆撃群所属)が墜落。
 川崎市を爆撃中に高射砲弾を受けて空中爆発して墜落、工場に火災を起こした。
 注)作戦任務第291号(目標:川崎石油コンビナート、第315航空団から出撃83機、損失1機)
機長のHenry G.DILLINGHAM大尉など11人全員死亡。
1945年7月28日午後0時30分頃 埼玉県南埼玉郡河合村(現・岩槻市)平林寺
P51(第21戦闘機群531中隊所属)が不時着。
 飛行機は、群馬県太田市付近の戦闘で損傷を受けた模様で、低空で飛来し、民家の屋根や立木と接触しながら、河合小学校の南側の野原に不時着した。
操縦士のHenry J. KOKE少尉は飛行機から出て、竹槍などを持って近づいた住民にピストルを発砲した。近くの川通小学校や河合小学校などに駐屯していた兵士が駆けつけたところ、彼は操縦席内にもどり、いったん降伏の意志を示したが、部隊長が近づいていくと、また発砲した。そのため日本兵たちは威嚇射撃の後、彼を射殺した。河合村大字平林寺の共同墓地に埋葬。参考人は蓮田警察署。
1945年7月28日午後1時頃 東京都南多摩郡加住村(現・八王子市)戸吹イワノイリの森
P51(機体番号44−6391、第506戦闘機群457中隊所属)が墜落。
飛行機は、西多摩郡福生町の方向から150メートル位の高度で煙を吐きながら飛来し墜落、1時間以上にわたって燃え続けた。同行のP51がしばらく上空を旋回していた。
 Daniel W. JOSEPH少尉がパラシュート降下して捕虜。八王子、または立川憲兵分隊を経て、東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年7月28日 東京周辺
P51(機体番号不明、第21戦闘機群531中隊所属)が墜落。
Theodore H.FOX少尉が捕虜になり、東京憲兵隊へ送られたが、重傷により治療の見込みなしとして、8月3日に毒殺された。
1945年7月30日午前 栃木県河内郡横川村(現・宇都宮市)下栗
空母ワスプから飛来したF6F(機体番号79337)が墜落。
Leo H. AHERN海軍少尉が墜落死。横川村下栗モリコヅカに埋葬。参考人は横川村下栗役場。
 地元の人の話では、墜落現場は宇都宮東高校の西数百メートル付近で、遺体は火葬して宇都宮東高校付近にあった家畜の死体処理場に埋めた。戦後米軍が遺体の回収に来て、そのような場所に火葬した理由などを問いただしたが、特に村人が処罰を受けるということはなかったとのこと。
1945年8月2日午前1時20分頃 千葉県君津郡昭和町(現・袖ヶ浦市)坂戸市場の小櫃橋付近
B29(機体番号44−86344、第58 航空団462爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は、東京方面から火を吹きながら飛んで来て、空中爆発して二つに分解して墜落した。
 (注)作戦任務第306号(目標:八王子市街地、第58航空団から出撃180機、損失1機)
Newhorter LEMUEL軍曹が墜落死、現場付近に遺体を埋葬。
 11人が金田村(現・木更津市)付近の畔戸、高洲、牛込などの海岸にパラシュート降下。村民や木更津海軍航空隊の兵士たちが米兵を捕まえたが、そのうちの1人Charles R.HARLAN中尉は、畔戸砲台付近で海軍の兵士と争って軍刀で斬殺され、その場に埋葬された。また、海上に降下した米兵たちはゴムボートなどで海岸にたどり着いたが、その間、漁をしていた畔戸の55才の漁師1人をピストルで射殺した。
 捕まったWyatte J.GAY大尉(機長)、Jeremich J.BAKER二等軍曹、Albert R.BARMA一等軍曹、Frank M.BERNETT中尉、Kotlin D. COLLIER中尉、George A. J.DOLL少尉、Wortimer L. GREENWALD軍曹、Herbert F. RUTLER一等軍曹、Donaldson McDRALF中尉、Maurice R.LESORCART中尉の10人は、木更津海軍航空隊から横須賀を経て大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
 【地元の女性(当時17才)の話】
 海上にパラシュート降下して木更津市金田付近で捕まった3人が、金田村の役場(現在の公民館)に連れて来られて縛られており、村 人から罵声を浴びせられてひどく殴られていた。若い米兵は泣いていたのでかわいそうに思った。米兵に殺された漁師さんの遺族の方もおられる。
1945年8月3日 千葉県海上郡トミウラ村の沖合
P51(第15戦闘機連隊47中隊所属)が墜落。
Ralph D.HEINTZ中尉がゴムボートで海上を漂流中、5日に捕虜。アサヒ町の駐屯部隊から長生憲兵分隊に引き渡され、東京憲兵隊へ送られた。戦後米国へ帰還。
1945年8月3日正午頃 神奈川県中郡大磯町の沖合
P51(機体番号44−73369、第506戦闘機群458中隊所属)が墜落。
 調布飛行場を攻撃中に撃墜された。
Paul I.EWALT少尉は海上にパラシュート降下して溺死。パラシュートと遺体が海岸に漂着した。
1945年8月5日 神奈川県小田原市の根府川海岸沖500メートル
P51(第506戦闘機群457中隊所属)が墜落。
Evelyn K.NEFF大尉が死亡、11月に遺体が海岸に漂着した。
1945年8月6日午前9時20分頃 千葉県東葛飾郡小金町大谷口の水田
P51(第506戦闘機群531中隊所属)が墜落。
Vincent A.GAUDIANI大尉が捕虜。柏憲兵分隊から東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年8月6日 神奈川県横浜市沖の東京湾
P51(機体番号44−63404、第15戦闘機群45中隊所属)が墜落。
Gerhard C. RETTBERG中尉が横須賀付近で捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年8月6日 神奈川県中郡大磯町西小磯の海岸
P51(第15戦闘機群47中隊所属)が墜落。
 相模飛行場を攻撃中に対空砲火を受けた。
Howard R.WEARVER中尉は30メートルほどの高度で脱出したが、パラシュートが開かず、浜辺に落下して死亡。
1945年8月6日 静岡県下田港付近
P51が墜落。
M.M.WITLAD少尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年8月8日午後 東京都北多摩郡谷保村(現・国立市)谷保
B29(機体番号44−87664、第314航空団29爆撃群所属)が墜 落。
 B29は高射砲弾を受けて2つに分解し、谷保の水田と多摩川の河原に墜落した。
 (注)作戦任務第320号(目標:中島航空機武蔵製作所と東京陸軍造兵廠、第314航空団から出撃69機、損失3機)
機長のJames L.SHUMATE大尉など10人が死亡、村民らの手で谷保の滝の院墓地に埋葬された。
 Lester O.MORRIS軍曹とSerafine MORONE軍曹はパラシュ−ト降下し、警防団員らに捕まり、立川憲兵分隊に連行された。
 MORRIS軍曹は翌日の夕方、東京憲兵隊へ移送され、戦後米国へ帰還したが、MORONE軍曹は午後2時頃、憲兵隊の近くの錦国民学校(現・立川市立第三小学校)の校庭へ引き出され、バスケットボールのポールに縛り付けられて約800人の公衆の面前にさらされた。憲兵の指揮下、集まった群衆が2時間にわたって次々に彼に暴行を加えた。この行為は空襲警報のために中止されたが、息も絶え絶えになったMORONE軍曹は、憲兵隊員によって担架で羽衣町の正楽院墓地へ運ばれ、首切り役を買って出た立川陸軍航空廠の将校によって斬首され、その場に埋められた。敗戦直後、憲兵隊は証拠隠滅を図り、遺体を掘り返して焼却した後、骨を再び同墓地に埋葬し墜落死に見せかけて慰霊を装ったが、住民の投書などから暴行と斬首の事実は米軍の知るところとなった。
 戦後の横浜裁判で、この事件を指揮した立川憲兵分隊長の矢島七三郎少佐は終身刑、補佐役の関昇准尉は懲役20年の判決を受けたが、処刑実行者の立川陸軍航空廠の将校の身元は判明しなかった。
1945年8月11日 静岡県賀茂郡下田村(現・下田市)の港外
PB4Y−2(機体番号59495)が墜落。
下田港沖合で、Richard W. COX Jr.三等飛行通信兵曹、Arthur R. DUGER三等飛行機関兵曹、Jack FRASHURE二等飛行通信兵曹,William R. LONG一等飛行兵曹、Karl C. GABER三等飛行通信兵曹、John B. RAINEY中佐、Paul  E. WILLIAMS一等飛行兵曹の合計7人が捕虜。彼らは大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年8月13日 千葉県ソサ郡キヨウワ村
空母ベニントンから飛来したF6Fが墜落。
Charles R.MOCKLEY海軍中尉が死亡。
1945年8月13日午後4時頃 千葉県館山市の館山桟橋の沖合50メートル
空母ヨークタウンから飛来したF6F(機体番号79496)が墜落。
 米軍機2機で館山基地を攻撃中に対空砲火を受けて墜落。
Wilson L. DOZIERNG海軍大尉が死亡。翌日、彼の遺体が海岸に漂着し、付近に埋葬されたが、戦後、改めて館山市の妙台寺墓地に埋葬。
1945年8月13日 千葉県館山市と空母ランドルフの間
F6F(機体番号77830)が墜落。
James H. McPHERSON海軍大尉が死亡。
1945年8月13日午後5時40分頃 千葉県安房郡西岬村(現・館山市)坂田の沖合1キロ
PBYー5(機体番号434080)が墜落。
東京湾に墜落した艦載機の乗員の救助作業中に、厚木基地から発進した第302海軍航空隊の森岡寛大尉操縦の零戦の攻撃を受けて館山湾に墜落した。
 搭乗員7人のうち、Edmund L.ELIASON中尉、Lawrence H.CHANDLER Jr.少尉、Edwin E.BODLEY中尉、David A.KRESSLER二等軍曹、Philip W.CARTER伍長の5人の遺体が、8月23日から9月22日にかけて付近の海岸に漂着。住民からの通報を受けて米軍が回収した。Vernon R.RADMALL軍曹の遺体は行方不明。Roger E.RAGAIN軍曹は、機体から脱出して泳いでいるところを救助されて捕虜になり、横須賀海軍防備隊を経て大船海軍捕虜 収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。
1945年8月13日 霞ヶ浦付近
空母シャングリラから飛来したFG1D(機体番号83444)が墜落。
John H. CHAPMAN海軍少尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所に送られ、戦後米国へ帰還。
1945年8月14日 東京湾
空母ベニントンから飛来したTBM(機体番号69272)が不時着。
 東芝工場を攻撃に向かった。
Lee M. PASLEY海軍中尉とJohn B. McCARTHY二等飛行通信兵曹が捕虜。大船海軍捕虜収容所に送られ、戦後米国へ帰還。
1945年8月15日午前10時頃 千葉県長生郡西村(現・長南町)大字佐坪小字永沼の水田
イギリス空母インディファティーカブルか ら飛来したシーファイヤー戦闘機(894飛行中隊所属)が墜落。
 茂原海軍基地を飛び立った田村薫上飛曹操縦のゼロ戦と空中戦になり、双方墜落した。
Fred HOCKLAY海軍少尉が同郡東村小生田にパラシュート降下して警防団員らにより捕虜。彼は東村国民学校に駐屯していた教育隊に引き渡された後、午後(玉音放送の後)、リヤカーで睦沢町岩井の妙勝寺に置かれていた第147(護北)師団426歩兵連隊駐屯地を経て、一宮町の一宮国民学校に置かれていた426歩兵連隊司令部へ送られた。夜になって、連隊の兵士によって、一宮市街地の南の山中へ連行され、処刑された。
 戦後、香港でのイギリスの戦犯裁判で、処刑を示唆した147師団参謀の平野昇少佐と、それを受け入れた426連隊長の田村禎一大 佐が絞首刑、処刑実行者の426連隊の藤野政三大尉が懲役15年の判決を受けた。
1945年8月15日午前10時頃 千葉県長生郡土睦村(現・睦沢町)
イギリス空母インディファティーカブルから飛来したアベンジャー 哨戒機(機体番号JZ482, 894飛行中隊所属)が墜落。
John F. BONASS海軍中尉が土睦村原に墜落死、長生郡一宮町の実本寺に埋葬。
 L.BALDWINとA.SIMPSONはパラシュート降下したが死亡。
1945年8月15日 横浜市磯子区沖の東京湾
米軍機が墜落。
2遺体が回収されたが、機体と遺体の特定はできなかった。
1945年8月15日午前9時頃 横浜市戸塚区名瀬町の農家の畑
空母ヨークタウンから飛来したF6F(機体番号77458)が墜落。
 厚木基地から発進した第302海軍航空隊の森岡寛大尉操縦の零戦との空中戦で撃墜された。
Eugine E. MANDEBERG海軍少尉はパラシュート降下したが、死亡。妙法寺墓地に埋葬。
1945年8月15日午前 神奈川県厚木飛行場と空母ヨークタウンの間
F6F(機体番号78065)が墜落。
Joseph G. SHALOFF海軍中尉が死亡。機体も遺体も発見できず。
1945年8月15日午前 神奈川県厚木飛行場と空母ヨークタウンの間
F6F(機体番号78244)が墜落。
Wright C.HOBBS海軍少尉が死亡。機体も遺体も発見できず。
1945年8月15日午前 神奈川県厚木飛行場と空母ヨークタウンの間
F6F(機体番号79592)が墜落。
Howard M. HARRISON海軍大尉が死亡。機体も遺体も発できず。
1945年8月?日 千葉県香取郡香取飛行場
P51が墜落。
日時不明 千葉県沖の東京湾
F4U(機体番号82505)が墜落。
Edward H. ROHRIOT海軍中尉が死亡。
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