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本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士

北部・東北軍管区

(注)北部軍管区は、北海道・樺太・千島を管轄。
   東北軍管区は、1945年2月に東部軍管区より分離・創設され、東北6県を管轄。

凡例

墜落した年月日 墜落した場所
墜落した機体・所属部隊・墜落の状況
乗員の状況
1943年9月11日 千島列島パラムシル島東方沖
B24(機体番号41ー23890、36爆撃中隊所属)が墜落。
機長のFrank T.GASH少佐など11人全員死亡。
1943年9月11日 千島列島パラムシル島
B25(機体番号42ー53345、77爆撃中隊所属)が墜落
機長のA.W.BERECEZなど全員死亡
1943年9月11日 千島列島パラムシル島
B25(機体番号42ー53349、77爆撃中隊所属)が墜落
機長のJ.D.HUDLLESONなど全員死亡
1943年9月11日 千島列島パラムシル島
B25(機体番号42ー53354、77爆撃中隊所属)が墜落
機長のQ.T.STANDIFORDなど全員死亡
1943年11月8日 千島列島パラムシル島とアリューシャン列島アッツ島の間
B24(機体番号42−0129)が墜落
機長のHarrell R.HOFFMANN大尉など10人全員死亡
1944年3月25日 千島列島とアリューシャン列島アッツ島の間
PV1(機体番号34641)が墜落
機長のWalter S.WHITEMAN海軍大尉など6人全員死亡
1944年5月6日 千島列島パラムシル島付近
PV1(機体番号48733)が墜落
機長のAlpheus A.WHEAT Jr.海軍中尉など5人全員死亡
1944年5月13日 千島列島シムシュ島
PV1(機体番号48934)が墜落
機長のHardy V.LOGAN Jr.海軍大尉など6人全員死亡
1944年7月8日 千島列島シムシュ島付近
B24(404爆撃中隊所属)が墜落
William V.CAVANADON伍長が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後、米国へ帰還。
1944年9月9日 千島列島パラムシル島付近
B25(77爆撃中隊所属)が墜落
Albert D.SCOTT少尉、William GZLLO少尉、Raynold P.JAKUSSI軍曹の3人が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られた後、GZLLO少尉とJAKUSSI軍曹は1945年1月15日に東京捕虜収容所に移送、SCOTT少尉は6月21日に東京捕虜収容所に移送。彼らは戦後、米国へ帰還。
1944年9月19日 千島列島シムシュ島付近
B25(77爆撃中隊所属)が墜落。
William A.DIXON少尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所を経て、1945年4月5日に東京捕虜収容所に移送。戦後、米国へ帰還。
1944年12月29日 千島列島パラムシル島のすり鉢飛行場
B25(機体番号43−36128、77爆撃中隊所属)が墜落。
機長のBANKER少尉など、搭乗員全員死亡。
1944年12月29日 千島列島パラムシル島のすり鉢飛行場
B25(機体番号43−36136、77爆撃中隊所属)が墜落。
機長のCOLLIER少尉など、搭乗員全員死亡。
1945年1月23日 千島列島シムシュ島とラパトカ岬の間の海峡
B24(機体番号42−41152、404爆撃中隊所属)が墜落。
パラシュート3個が開くのが見られたが、機長のCharles TALBOTなど搭乗員11人全員死亡。
1945年3月10日午前0時〜2時頃 宮城県刈田郡七ヶ宿村不忘山山腹
以下の3機のB29が相次いで墜落。
 (注)作戦任務第40号(目標:東京市街地、第73・313・314航空団から出撃325機、損失14機)東京空襲へ向かったが、悪天候により進路を誤り、乱気流に巻き込まれた模様。
 戦後、地元の人たちにより、墜落現場付近に死亡した米兵の慰霊碑が建立された。
B29(機体番号42−63564、ニックネーム「CHERRY−THE HORISONTAL CAT」、第314航空団29爆撃群所属)
機長のFirman E.WYATT中尉など11人全員死亡。
B29(機体番号42−65310、第314航空団19爆撃群所属)
機長のSamuel M.CARR大尉など12人全員死亡。
B29(機体番号44−69747、第73航空団498爆撃群所属)
機長のHubert L. KORPSMEIER少尉など11人全員死亡。
1945年4月12日 福島県郡山市とグアム島の間
B29(機体番号44−69857、第314航空団330爆撃群所属)が墜落。
 (注)作戦任務第65号(目標:郡山化学工業会社、第314航空団から出撃85機、損失2機)
 郡山空襲の帰途、悪天候により墜落した模様。
機長のJames F.LAWRENCE中尉など6人が死亡。
1945年4月26日 千島列島の沖合
B24(機体番号41−23848)が墜落。
(不明)
1945年5月19日 千島列島シムシュ島
アッツ島から出撃したB25(機体番号42−36140、77爆撃中隊所属)が不時着。低空で偵察飛行中、エンジンとプロペラを破損、海岸の松林に不時着した。
Milton E.ZACK少尉、Walter BAILEY伍長、Robert L.TRANT伍長、Raymond B.LEWIS少尉、Edward N.BURROWS准尉、William BRADLEY伍長の6人が捕虜。
 彼らはパラムシル島へ移され訊問を受けたが、このうちLEWIS少尉、BURROWS准尉、BRADLEY伍長の3人は天領丸で北海道へ送られる途中、5月29日夜、サハリン東方で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、乗船が沈没して死亡。
 ZACK少尉は飛行機で、BAILEY伍長とTRANT伍長は船で北海道へ送られ、札幌月寒の北部軍管区司令部で訊問を受けた後、 苗穂の札幌刑務所に収容。戦後の9月11日、千歳でアメリカの第8軍に引き渡され、米国へ帰還。
1945年5月19日 千島列島パラムシル島付近
アッツ島から出撃したB25(機体番号43−36152、77爆撃中隊所属)が墜落。
機長のJohn DAUGHTREYなど全員死亡。
1945年7月14日午前6時10分頃 北海道函館港の沖合
空母ランドルフから飛来したSB2C(機体番号20692)が墜落。日本軍の対空砲火を受けて墜落した。
Charles E.MILNOR三等飛行兵曹が死亡。
 Warren F.LANGLEY海軍少尉は海上にパラシュート降下して捕虜。憲兵隊に引き渡され、札幌月寒の北部軍管区司令部で訊問を受けた後、苗穂の札幌刑務所に収容。戦後の9月11日、千歳でアメリカの第8軍に引き渡され、米国へ帰還。
1945年7月14日午前 北海道千歳郡樽前山
空母シャングリラから飛来したSB2C(機体番号21164)が墜落。
飛行機は、苫小牧〜室蘭間の鉄道を攻撃中に霧で視界を失い、樽前山の斜面に衝突した。
 Howard E.EAGLESTON海軍中尉は墜落時に死亡。Oliver B.RASMUSSEN一等飛行通信兵曹は、機体から投げ出されて生存。彼は山中に隠れて68日間生き延び、戦後の9月19日に下山して市民に発見され、苫小牧警察に保護された後、千歳の米軍に引き渡され、米国へ帰還。
1945年7月14日午前7時頃 北海道付近の海上
空母ヨークタウンから飛来した2機のF6Fが空中衝突して墜落。
Richard G. CROMMELIN海軍少佐が死亡。
1945年7月14日午前 北海道函館と空母ランドルフの間の海上
F6F(機体番号78255)が墜落。
Glen G. HAYNES海軍少尉が死亡。
1945年7月14日 北海道沖と空母バターンの間の海上
F6F(機体番号78012)が墜落。
John W. WRIGHT Jr.海軍中尉が死亡。
1945年7月14日午前 北海道沖と空母バターンの間の海上
TBM(機体番号68908)が墜落。
Clifford L.FLUITT海軍中尉、Robert J.THOMAS三等兵曹、William R.BROWNING三等兵曹の3人が死亡。
1945年7月15日午後1時40分頃 北海道小樽湾
空母ベニントンから飛来したTBM3が不時着。
港湾施設等を攻撃中、自機の投下した爆弾の破片で損傷し、海岸から約10マイル沖の海上に不時着した。搭乗員3人は、僚機の投下した救援物資を受け取り、救命ボートで留萌沖の海上を漂流中、20日に漁船に発見され、Joseph C.DORICH三等飛行通信兵曹が漁民と争って殺害された。彼の遺体は8月15日に増毛海岸に漂着した。Ernest J.DAVIS Jr.三等射撃兵曹とClifford S.MEHELICH少尉は、海岸にたどり着き、山中に逃げ込んだ後捕虜。21日に札幌月寒の北部軍管区司令部を経て、苗穂の札幌刑務所に移送。戦後の9月11日、千歳でアメリカの第8軍に引き渡され、米国へ帰還。
1945年7月15日昼頃 北海道小樽湾
空母ヨークタウンから飛来したF6F(機体番号78090)が墜落。
Herman B. CHASE海軍中尉はパラシュート降下したが行方不明。
1945年7月15日昼頃 北海道小樽湾
空母ヨークタウンから飛来したFG1D(機体番号86125)が墜落。
Robert G. SHEPHERD海軍少尉が死亡。
1945年7月15日昼頃 北海道小樽湾付近
空母ヨークタウンから飛来したF6F(機体番号88052)が墜落。
Maurice D. SPRINGER海軍少尉はパラシュート降下したが行方不明。
1945年7月15日 北海道寿都港
空母シャングリラから飛来したFG1D(機体番号76692)が墜落。
John S. WEEKS海軍中尉が死亡。
1945年7月17日午後10時頃夜 福島県東白河郡豊田村(現・矢祭町)大字下奥河内字追分の国有林
空母ボノム・リチャードから飛来したF6F(機体番号78757)が墜落。
Henry A. SCHRWEID海軍少尉が死亡。
1945年7月 青森県三沢飛行場
米軍の艦載機が墜落。
1945年8月9日 青森県大湊市
SB2C(機体番号68138)が墜落。
Ernest G. PORUPUSKY海軍中尉とRichard J. RAYMONDが死亡。
1945年8月9日午後2時頃 青森県大湊湾
空母エセックスから飛来したSB2C(機体番号65221)が墜落。
Paul BACCI海軍少尉とWilliam M.DRISCOLLが死亡。遺体は回収できず。
1945年8月9日午前 宮城県牡鹿郡女川港の沖合
イギリス空母フォーミダブルから飛来したF4Uが墜落。湾内に停泊中の日本の艦艇を攻撃中に対空砲火により撃墜された。
カナダ人パイロットのRobert.H.GRAY大尉が死亡。
 女川町では、1989年に崎山公園に慰霊碑を建立して、カナダとの交流活動を行っている。
1945年8月9日午後 宮城県牡鹿郡女川港の沖合
イギリス空母インディファティーカブルから飛来したシーファイアが墜落。
James CROSSMAN少佐が海上にパラシュート降下し、漁船に救助されて捕虜。女川憲兵分隊、石巻憲兵分隊を経て仙台の東北軍管区司令部へ送られたが、終戦により、17日に東京の大森捕虜収容所に移送、イギリスへ帰還。
1945年8月9日 宮城県仙台市の東方沖
空母エセックスから飛来したFG1D(機体番号88329)が墜落。
William H.HARRIS中尉が死亡。遺体は回収できず。
1945年8月9日午後 福島県田村郡守山町(現・郡山市)大字正直
イギリス空母ヴィクトリアスから飛来したF4U(機体番号225)が墜落。郡山飛行場への機銃掃射と写真撮影任務中に撃墜された。
Sydney NEWTON海軍中尉が死亡、正直の除古共同墓地に埋葬。
1945年8月10日 青森県の沖合
空母エセックスから飛来したFG1D(機体番号76752)が墜落。
Clinton E. WEAR海軍中尉が死亡。遺体は回収できず。
1945年8月10日 青森県大湊湾と空母タイコンデロガの間
F6F(機体番号78998)が墜落。
Wiliam L. PETERSON海軍中尉が死亡。
1945年8月10日 青森県大湊軍港と空母タイコンデロガの間
F6F(機体番号78990)が墜落。
Granville W.COWAN海軍中尉が死亡。
1945年8月10日午前 福島県田村郡宮城村大字高倉字作田権現堂
空母ワスプから飛来したF6F(機体番号79301)が墜落。
Warren S.ANDERSON中尉はパラシュートが開かず死亡。
1945年8月10日午後2時頃 福島県郡山市下八木八ケ作
イギリス空母フォーミダブルから飛来したF4Uが墜落。郡山飛行場を攻撃中に撃墜された。
Leslie A.MAITLAND海軍中尉が死亡。
1945年8月10日午前 福島県岩瀬郡西袋村(現・須賀川市)西川
イギリス空母インディファティーカブルから飛来したファィアーフライが墜落。郡山飛行場を攻撃中に、対空砲火を受け、翼がちぎれた。
Burn F.O’NEILL海軍少尉とThomas L.DARBY海軍少尉が田んぼにパラシュート降下して捕虜。須賀川憲兵分隊、郡山憲 兵分隊を経て、仙台の東北軍管区司令部へ送られたが、終戦により、17日に東京の大森捕虜収容所へ移送、ニユージランドへ帰還。
1945年8月10日 福島県田村郡滝根村(現・田村市滝根町)の神俣駅付近の畑(現・滝根運動場)
イギリス空母インプラカブルから飛来したTBF(機体番号JZ136)が不時着。
Victor H.SPENCER海軍中尉とJack ROGERSON下士官は機体から脱出して逃走したが、2日後に双葉郡川内村上川内付近の山中で発見され、警防団員に包囲され捕虜。川内村の国民学校に駐屯していた日本軍部隊に引き渡され、トラックで原町憲兵隊へ送られたが、その途中、この英軍機部隊の機銃掃射を受けて被災した(18戸焼失、3人死亡)川内村の住民らが捕虜に襲いかかろうとする一幕もあったという。彼らは仙台の東北軍管区司令部へ送られたが、終戦により、17日に東京の大森捕虜収容所に移送、イギリスへ帰還。
1945年8月10日 福島県郡山市とイギリス空母インディファティーカブルの間
ファィアーフライ(機体番号979)が墜落。
T.A.G.MacBRIDE海軍中尉とG.D.ROBERTS海軍中尉が死亡。
1945年8月10日 山形県北村山郡福原村(現・尾花沢市)大字毒沢の雑木林
空母ハンコックから飛来したF4Uが不時着。尾花沢飛行場を攻撃中に被弾。
John M.PETERSON海軍少尉が住民に捕まり、仙台の東北軍管区司令部へ送られた後、17日に東京の大森捕虜収容所に移送され、戦後米国へ帰還。
1945年8月28日午後5時頃 秋田県南秋田郡戸賀村(現・男鹿市)男鹿真山
B29(機体番号44−69998、第73航空団497爆撃 群所属)が墜落。
 秋田県大館市の捕虜収容所に救援物資を空輸中の3機のB29のうちの1機が、悪天候により事故を起こした。
機長のJohn M.CRIPPS中尉など11人が死亡したが、Norman H.MARTIEN Jr.軍曹は生存しており、12時間後に地元住民により救助された。1964年、地元住民によって墜落現場付近に供養塔が建てられ、さらに、1990年、アメリカからMARTIEN夫妻が招かれ、男鹿市の加茂青砂小学校に「平和の碑」が建立された。
1945年9月4(18?)日午前 福島県石城郡磐崎村(現・いわき市)湯ノ岳中腹
B29が墜落。常磐炭鉱の捕虜収容所に救援物資を空輸中の操縦ミスによる。
搭乗員13人全員死亡。
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