1944年6月16日午前2時頃 |
福岡県若松市(現・北九州市)大字高須松ヶ花の水田 |
B29(機体番号42ー6230、第58航空団468 爆撃群所属)が墜落。 (注)中国成都基地第20爆撃機集団の作戦任務第2号(目標:八幡製鉄所、第58航空団から出撃68機、損失7機) |
機長のDuehan D.IVANOVIC大尉など12人全員死亡。現場付近に火葬して埋葬。1946年8月に米軍が遺灰を回収。 |
1944年8月20日夕方 |
福岡県八幡市(現・北九州市)折尾町陣ノ原 |
B29(機体番号42−6334、第58航空団468爆撃群所属)が墜落。 B29は、山口県小月基地から発進した陸軍飛行第4戦隊の野辺軍曹と高木兵長搭乗の戦闘機屠龍の体当たり攻撃を受けて空中分解、墜落炎上。 (注)中国成都基地第20爆撃機集団の作戦任務第7号(目標:八幡製鉄所、第58航空団から出撃75機、損失14機) |
野辺軍曹と高木兵長は死亡。B29は機長のRobert S.CLINKSCALES中佐など11人全員死亡。墜落現場付近で見つかった死 者の灰が集められて、八幡市折尾町陣ノ原に埋葬。現在、現場付近に野辺軍曹と高木兵長の慰霊碑が建てられている。 |
1944年8月20日夕方 |
福岡県八幡市(現・北九州市)折尾町永犬丸殿問の山林(現・永犬丸小学校グランド) |
B29(機体番号42−6368、第58航空団468爆撃群所属)が墜落。 飛行機は、上記334号機の破片と衝突、機首を左右に振るように落下、爆発して3日間燃え続けた。 (注)上記作戦の損失機14機のうちの1機 |
機長のSTAUFFERなど6人死亡。このうち1人はパラシュートが開かず死亡、5人は機体とともに墜落死。遺体の肉片は警防団によって集められ、墜落現場付近に埋葬され、墓標が建てられた。1946年10月頃米軍が遺体を回収。 Walter A.DANSBY一等軍曹とIrving S.NEWMAN少尉の2人は、永犬丸の榊姫神社裏山付近にパラシュート降下して捕虜、西部軍司令部を経て東京の防衛総司令部へ送られた後、大森捕虜収容所に収容。また、Austin C. SHOTT少尉は翌日に付近の山中で捕まり、大船海軍捕虜収容所へ送られた後、12月に大森捕虜収容所に収容。この3人は戦後米国へ帰還。 副操縦士のJimmy WINE中尉は、山中にパラシュート降下して潜伏していたが、8月31日早朝に芦屋飛行場付近に現われ、飛行機を奪って逃亡しようとして発見され、銃撃戦で日本人3人を殺傷した末、ピストル自殺した(日本側によって射殺の可能性もある)。遺体は、芦屋町霧高共同墓地に埋葬され、墓標が建てられた。 Jack MOORE一等軍曹は降下時に重傷を負っており、小倉陸軍病院へ送られ、8月24日に死亡。 |
1944年8月20日夕方 |
福岡県小倉市(現・北九州市)菜園場の第二町内会 |
B29(機体番号42−6408、第58航空団468爆撃群所属)が墜落。 (注)上記作戦の損失機14機のうちの1機 |
Samuel M.HENRY二等軍曹、Samuel A.NIXON二等軍曹、Harrison ROBINS少尉の3人が墜落死。このうち2人は焼死しており、1人は小倉市日明上ノ原町に機体の一部とともに防火貯水池に墜落して溺死。彼らの遺体は小倉市の日明墓地に埋葬。 8人がパラシュート降下して捕虜。 このうち3人は、下関市彦島及び六連島付近に降下して捕虜になり、下関要塞司令部へ連行されたが、Edward S. ROBERT少尉は着陸時に重傷を負っており、翌日、下関陸軍病院で死亡。遺体は門司の捕虜収容所に引き渡され、門司市の大雄寺墓地に埋葬された。2人は小倉北方の海上にパラシュート降下して日本側に救助され、3人は八幡方面で捕まり、いずれも小倉憲兵隊へ連行。 以上の結果、下記7人が西部軍司令部を経て東京の防衛総司令部へ送られ、大森捕虜収容所に収容、戦後米国へ帰還。 Earnest A.PICKETT中尉(機長)、Robert C.ARMSTRONG二等軍曹、Richard R.BISHOP二等軍曹、 Robert M.HUMPHREY少尉、Charles KAZARIAN二等軍曹、Mark S.KENNARD少尉、 William R. REVITZ中尉。 Earnest A.PICKETT中尉の体験記は、『Proof Through The Night』として、2001年にアメリカで発行されている。 |
1944年8月20日夕方 |
長崎県壱岐郡初山村(現・郷ノ浦町)針崎山中 |
B29(機体番号42-24474、第58航空団462爆撃群所属)が墜落。 日本軍戦闘機の攻撃を受けて炎上しながら墜落した。 (注)上記作戦の損失機14機のうちの1機 |
1人が、海上に落下して死亡。2人がパラシュートが開かず墜落死。遺体は現場付近に土葬されたが、戦後火葬して壱岐郡初山村針崎の元陸軍墓地に埋葬。1946年6月に米軍が遺灰を回収。 8人が捕虜になったが、このうち機長のRichard H.CARMICHAEL大佐とJohn A.FISHER軍曹の2人は大船海軍捕虜収容所へ送られ、12月に大森捕虜収容所に収容。戦後米国へ帰還。 Paul M.CLARK少尉、Joseph B.DETERFA Jr.一等兵、Charles M.HOWARD伍長、Gerald B.LIVINGSTON軍曹、Edward A. PERRY少佐の5人が壱岐島で、Harold J.MANN少佐は付近の島で捕虜となり、西部軍司令部を経て東京の防衛総司令部へ送られた後、大森捕虜収容所に収容。戦後米国へ帰還。 |
1944年10月13日 |
沖縄県宮古島 |
空母エセックスから飛来したF6Fが不時着。 宮古島を攻撃中に、日本軍の対空砲火を受けて損傷。 |
F.G.ASHTON海軍少尉が捕虜になり、大船海軍捕虜収容所へ送られたが、翌年7月に病死、遺体は収容所に隣接する竜宝寺墓地に埋葬。 |
1944年11月21日午前10時頃 |
長崎県北高来郡小長井村(現・諫早市小長井町)小河原海岸沖1キロの有明海 |
B29(機体番号42−6279、第58航空団468爆撃群所属)が墜落。 大村基地の第352海軍航空隊の戦闘機の攻撃を受け、海面に垂直尾翼だけを出して墜落した。 (注)中国成都基地第20爆撃機集団の作戦任務第17号(目標:大村海軍航空廠、第58航空団から出撃109機、損失10機) |
機長のJoseph P.KILLEBREW大尉など11人全員死亡。このうち10人の搭乗員の遺体が引き上げられ、現場付近に埋葬。戦後、長崎市目覚町の外人墓地に移し、1945年9月に米軍が回収。 Norman E.STIFFLER一等軍曹は、右翼砲座を吹き飛ばされ、海上にパラシュート降下したが溺死。遺体は、12月に佐賀県藤津郡多良村の海岸に漂着、村人によって埋葬。 この迎撃戦で墜落死したゼロ戦の操縦士坂本幹彦中尉の遺体は、1945年1月に多良岳で発見され、1992年に、地元の人によって現場に慰霊碑が建立された。 また、1993年、小長井町の石材業馬渡廣雄さんは、私有地内にB29搭乗員11人の氏名を記した鎮魂碑を建立された。 |
1944年11月後半 |
福岡県大牟田市の三池港のはるか沖合 |
Paul H.SCOTT一等軍曹の遺体が漂流しているのが発見され、付近に埋葬。戦後、米軍が回収。 彼は、11月21日に中国成都基地より大村海軍航空廠を攻撃したB29(機体番号42−65204)の搭乗員で、日本軍機の攻撃を受けて機体が破損、機外へ投げ出された。他に2人負傷。 B29は成都基地へ帰着。 |
1945年1月3日 |
沖縄付近の海上 |
空母エセックスから飛来したF6F(機体番号70933)が墜落。 |
Herbert T.HOUSTON海軍中尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、6月に大森捕虜収容所へ移送。戦後米国へ帰還。 |
1945年1月6日午前9時頃 |
長崎県大村市の沖合30キロ |
B29(機体番号42−65254、第58航空団462爆撃群所属)が墜落。 日本軍機の攻撃を受け、煙を吐きながら墜落。 (注)中国成都基地第20爆撃機集団の作戦任務第25号(目標:大村海軍航空廠、第58航空団から出撃48機、損失2機) |
機長のJohn S.SLACK少佐など12人全員死亡。 |
1945年2月27日 |
沖縄県とサイパン島の間 |
B29(機体番号42−24777、第73航空団498爆撃群所属)が墜落。 沖縄爆撃の帰途、機械の故障により海上に墜落。 |
4人死亡。 |
1945年3月18日 |
大分県南海部郡佐伯湾 |
空母イントレピッドから飛来したF4U(機体番号82305)が墜落。 30機ほどの編隊で佐伯飛行場を攻撃中に、対空砲火を受けて撃墜された。 |
Loren F.ISLEY海軍少尉が死亡。 |
1945年3月18日 |
大分県沖の豊後水道 |
空母イントレピッドから飛来したFG1D(機体番号82720)が墜落。 30機ほどの編隊で佐伯飛行場を攻撃中に、対空砲火を受けて撃墜された。 |
Robinson W.HARRIS海軍少尉が死亡。 |
1945年3月18日 |
佐賀県有明海 |
空母ベニントンから飛来したF6F(機体番号72464)が墜落。 鹿屋東飛行場の攻撃に向かって損傷を受け、海上に不時着をはかったが爆発した。 |
Jack R.SISSION海軍中尉が死亡。 |
1945年3月18日午前10時頃 |
宮崎県東臼杵郡(現・日向市)富高海軍飛行場近くの細島付近 |
空母エセックスから飛来したFG1D(機体番号57719)が墜落。 富高飛行場の日本軍機と交戦、撃墜された。 |
Warren O.SIGMAN海軍中尉が死亡。 |
1945年3月18日午後3時頃 |
宮崎県東臼杵郡(現・日向市)富高海軍飛行場近くの九州造船所沖 |
空母エセックスから飛来したFG1D(機体番号57625)が墜落。 富高飛行場の日本軍機と交戦、撃墜された。 |
William F.GARNER海軍中尉が死亡。 |
1945年3月18日 |
宮崎県の海岸沖20キロ |
空母エセックスから飛来したFG1D(機体番号57471)が墜落。 富高飛行場を攻撃中に損傷を受け、不時着をはかった。 |
James J.STEVENS海軍中尉が死亡。 |
1945年3月18日午前7時頃 |
宮崎県都城市の西都城飛行場付近の畑 |
空母サンジャシントから飛来したF6F(機体番号71583)が 墜落。 20機ほどの艦載機の編隊が都城を攻撃中、2番機が対空砲火により撃墜された。 |
Gordon E. SCHECTER海軍中佐が墜落死。遺体は焼け焦げ、頭部と手足はなかった。都城市の市営北墓地に埋葬し、戦後、十字架の墓標を建てた。機体の残骸は、神柱神社境内の日露大戦記念碑横に展示された。 |
1945年3月18日 |
宮崎市赤江町の海軍赤江飛行場(現・宮崎空港)付近 |
軽空母Cabotから飛来したF6F(機体番号70348)が墜落。 日本軍戦闘機の攻撃により撃墜された。 |
Frank WIER海軍中尉が死亡し、海軍守備隊の手で付近に埋葬された。 |
1945年3月18日午前7時頃 |
宮崎県児湯郡新田村(現・新富町)ノジの新田原飛行場兵舎南 |
空母エセックスから飛来したTBM3C (機体番号68388)が墜落。 10機ぐらいの編隊で新田原飛行場を攻撃中、墜落して炎上。 |
John L.KIERNAN海軍少尉の首のない遺体は機体の残骸の側にころがっており、William E.PARSONS三等飛行通信兵曹の遺体は機体の残骸の中で発見された。 |
1945年3月18日午前10時頃 |
鹿児島市田上町苅谷角通畑地 |
空母バターンから飛来したTBM(機体番号68439)が墜落。 鹿児島飛行場を攻撃中に煙を吐きながら墜落、バラバラになって炎上した。 |
James A. MARVIS海軍少尉とEdward H. HINTZ二等飛行射撃兵曹が死亡、遺体はほとんど原形をとどめなかった。田上町の警防団員らが鹿児島市の草牟田墓地に遺体を埋葬し、供養を行なった。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県出水飛行場付近の海岸 |
空母バターンから飛来したTBM(機体番号68423)が墜落。 対空砲火を受けて浅瀬に撃墜された。 |
David C.LOOMIS海軍少尉(操縦士)とGlen P.CAWLEY二等飛行通信兵曹は飛行機から脱出し、かけつけた出水飛行場の兵士に捕まった。彼らは22日に大船海軍捕虜収容所に送られ、6月末に大森捕虜収容所に移送、戦後米国へ帰還。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県出水郡阿久根町(現・阿久根市)沖 |
空母フランクリンから飛来したFG1D(機体番号82368)が墜落。 |
John P.STODD海軍少尉が捕虜となり、福岡の西部軍司令部を経て22日に東京の防衛総司令部へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県肝属郡吾平村(現・鹿屋市吾平町)上名大重橋県道付近の田んぼ |
空母ベニントンから飛来したF6F (機体番号71448)が墜落。 |
John B.CHANDLER海軍中尉が死亡。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県肝属郡(現・鹿屋市)串良町白塞水 |
米軍機が墜落。 |
氏名不詳の2人が墜落死。 |
1945年3月18日 |
鹿児島市と空母フランクリンの間 |
F4U(機体番号67694)が墜落。 鹿児島飛行場の攻撃に向かって未帰還となった。 |
Paul A.CASEBEER海軍少尉が死亡。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県鹿屋飛行場と空母ホーネットの間 |
F6F(機体番号71062)が墜落。 |
John P.WRAY海軍少尉が死亡。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県鹿屋市田崎矢柄堀の海軍航空隊基地(現・海上自衛隊航空基地)付近 |
空母ワスプから飛来したF4U(機体番号82645)が対空砲火を受けて墜落。 |
Harold KELLER海軍中尉が死亡。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県沖と空母ベローウッドの間 |
F6F(機体番号72867)が墜落。 |
Robert L.MOSHER海軍少尉が死亡。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県沖と空母ハンコックの間 |
SB2C(機体番号21332)が墜落。 |
R.E.GARDNER海軍大尉と氏名不詳の1人が死亡。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県沖と空母ハンコックの間 |
SB2C(機体番号19655)が不時着。 |
J.W.DRAGOES海軍大尉と氏名不詳の1人が死亡。 |
1945年3月18日 |
鹿児島県種子島イヌジョウ飛行場と空母ベローウッドの間 |
TBM(機体番号68487)が墜落。 |
Frederick C.TOTHILL大尉、 Howard B.JACQUES飛行通信兵曹、 Edward J.BURY二等飛行機関兵曹が死亡。 |
1945年3月18日 |
九州沖 |
FG1D(機体番号82334)が墜落。 |
Thomas L.PACE海軍中尉が死亡。 |
1945年3月18日 |
九州付近 |
空母ベニントンから飛来したSB2C−4(機体番号20555)が墜落。 |
Edward G.CURTIN二等飛行通信兵曹とCarlyle NEWTON中尉が捕虜。 大船海軍捕虜収容所へ送られ、6月末に大森捕虜収容所へ移送。戦後米国へ帰還。 |
1945年3月19日 |
鹿児島県肝属郡(現・鹿屋市)串良町有里 |
空母ベニントンから飛来したF6F(機体番号72004)が墜落。 鹿屋東飛行場を攻撃中に墜落。 |
Richard L.PIELFER海軍中尉が死亡。有里のゴンゲンサカに埋葬。 |
1945年3月19日 |
鹿児島県出水郡出水飛行場 |
空母ハンコックから飛来したF6F(機体番号70365)が墜落。 |
William H.BECK海軍中尉が死亡。 |
1945年3月28日午前3時頃 |
福岡県鞍手郡植木町(現・直方市植木)の中島橋下流の中州 |
B29(機体番号42−24864、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。 B29が低高度で南東方向へ飛行中、何機かの日本軍戦闘機の攻撃を受けて火の玉になって墜落、2日間燃え続けた。機体の残骸 は近くの小学校に集められた。 (注)上記作戦の損失機3機のうちの1機 |
8人が墜落死。遺体は現場付近で火葬、1945年11月に米軍が回収。 操縦士のAlbert H.ANDREWS少尉と機関士のFiske HANLEY少尉の2人がパラシュート降下して捕虜。飯塚警察署から西部軍司令部を経て、4月4日に東京の防衛総司令部に送られ、戦後米国へ帰還。 Fiske HANLEY氏は、戦後来日して姫路市などを訪れ、また、1997年にアメリカの出版社から回想記『Accused American War Criminal』を出版。 |
1945年3月28日午前1時頃 |
宮崎県東臼杵郡富島町(現・日向市)字庄手 |
B29(機体番号42−24916、ニックネーム「PEACE MAKER」、第313航空団6爆撃群所属)が墜落。 飛行機は対空砲火を受けたらしく、火を吹いて不動寺の手前に墜落。 (注)作戦任務第47号(目標:下関海峡、第313航空団から出撃102機、損失3機) |
下記11人全員がパラシュート降下し、そのうち7人が同日、2人が29日に、2人が30日に 日向市と門川町で捕虜となり、福岡の西部軍司令部を経て、4月4日に東京の防衛総司令部に送られ東京憲兵隊に留置、戦後米国へ帰還。 William C.GROUNDS中尉(機長)、Ollin W.WILLIAMS Jr.少尉、William J.C.LASILE少尉、Jack HOBBIE少尉、Neal R.COOPER曹長、Arvid A.McPHERSON二等軍曹、Harold P.PETERSON軍曹、Mayner B.HANKS 軍曹、Julian W.STEELE軍曹、Clarence L.PRESSGROVE軍曹、Warren R.THOMPSON軍曹。 機長のGROUNDS中尉は、帰国後再びB29の搭乗任務に着いていたが、1947年に墜落事故で死亡。 【当時19才の女性の話】 夜中に突然空がパッと明るくなり、パラシュートが何個か降りて来るのが見えた。大勢の人が武器になりそうな物を持って駈け集まった。捕まった米兵の1人が50人ぐらいの住民に取り囲まれ、後ろ手に縛られて殴られているのを見た。米兵の捜索は何日も続き、女性たちは炊き出しをした。 |
1945年3月28日未明 |
福岡県とグァム島の間(北九州沖?) |
B29(機体番号44−69675、ニックネーム「BAD PENNY」、第313航空団6爆撃群所属)が墜落。 (注)上記作戦の損失機3機のうちの1機 |
機長のPaul A.STEEL中尉など11人全員死亡。 |
1945年3月29日 |
長崎県東彼杵郡上波佐見町字木場山の山林 |
米軍機が墜落。 |
氏名不詳の1人が死亡。東彼杵郡川棚町中組郷常在寺墓地に埋葬。 |
1945年3月29日 |
長崎県佐世保市沖と空母エセックスの間 |
F4U(機体番号82236)が墜落。 |
John K.KING海軍少尉が死亡。 |
1945年3月29日 |
鹿児島県鹿児島郡吉田村(現・鹿児島市吉田町)の森 |
空母インディペンデンスから飛来したF6F(機体番号72455)が墜落。 |
Ralph J.REEDER海軍中尉が死亡。吉田村の薩摩興業会社の山林に埋葬。戦後、村人が「米軍勇士」の墓標を立てた。 |
1945年3月29日 |
鹿児島県鹿屋市野里芝原の田んぼ |
空母ホーネットから飛来したF6F(機体番号70451)が墜落。 |
Wyman C.EDMUND海軍中尉が死亡。現場付近に埋葬、供養が行われた。 |
1945年3月29日午前10時頃 |
鹿児島県指宿郡山川村(現・指宿市山川町)福本鳥越の畑 |
空母カボットから飛来したTBM3(機体 番号23265)が墜落。 山川港を爆撃後、対空砲火により撃墜された。 |
Robert E.MAHONEY海軍中尉など3人が死亡。 |
1945年3月29日 |
鹿児島県鹿児島湾 |
空母ラングレーから飛来したF6F(機体番号72409)が墜落。 |
Louis L.DAVIS海軍中尉が死亡。 |
1945年3月29日 |
鹿児島県熊毛郡種子島と空母ラングレーの間 |
F6F(機体番号71749)が墜落。 |
James A.B.PENDIGER海軍少尉が死亡。 |
1945年3月29日 |
|
九州方面を攻撃中の空母バンカーヒルの艦載機TBM(機体番号68440)、TBM(機体番号68455)、SB2C(機体 番号20848)など5機が空中衝突等により墜落。 |
1945年4月2日 |
鹿児島県奄美大島付近 |
空母ホーネットから飛来したF6F(機体番号72901)が墜落。 船舶を攻撃中に撃墜された。 |
James H.CALES少尉が捕虜になり、佐世保海軍基地を経て、7月に大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年4月7日 |
鹿児島県沖と空母バンカーヒルの間 |
FG1D(機体番号76505)が墜落。 |
Andrew S.BEARWA海軍中尉が死亡。 |
1945年4月7日 |
鹿児島県沖と空母ホーネットの間 |
TBM(機体番号23448)が墜落。 |
1945年4月7日 |
鹿児島県沖と空母ベローウッドの間 |
TBM(機体番号68457)が墜落。 |
W.E.DELANEY中尉と他2人が死亡。 |
1945年4月7日 |
沖縄県沖と空母ベニントンの間 |
SB2C(機体番号20006)が墜落。 |
R.M.WAVE少佐とJack C. FULLER海軍少尉が死亡。 |
1945年4月11日 |
鹿児島県喜界島付近 |
空母エセックスから飛来したSB2C(機体番号20732)が墜落。 |
Arthur M.MATHENY三等飛行通信兵曹が死亡。Arthur L.THOMAS海軍少尉は捕虜となり、4月末か5月初めに喜界島海軍守備隊により斬首刑に処せられた。 戦後の戦犯裁判で、南西諸島航空隊司令部の木田達彦大佐は懲役40年、佐藤勇少佐は死刑、吉田政義大尉は懲役40年、処刑実行者の谷口鉄雄准尉は無期懲役となった。 |
1945年4月12日 |
鹿児島県喜界島南西5マイル |
空母ホーネットから飛来したF6F(機体番号77548)が墜落。 |
Raymond GROSSO海軍少尉がパラシュートで脱出したが、翌日死亡。 |
1945年4月15日 |
鹿児島県喜界島沖合1マイル |
空母ホーネットから飛来したF6F(機体番号58072)が墜落。 |
Williard S.SHASTEEN海軍少尉が死亡。 |
1945年4月15(16?)日 |
南九州 |
空母バンカーヒルから飛来したF4Uが墜落。 |
James C.DIXON中尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年4月15日午前9時頃 |
沖縄県石垣島の大浜海岸沖 |
空母マカッサルストレートから飛来したTBM(機体番号68767)が墜落。 |
パラシュート降下したVernon L.TEBO中尉、Warren H.LOYD一等飛行通信兵曹、Robert TUGGLE Jr.一等飛行機関兵曹の3人が日本海軍警備隊により捕虜。その夜、TEBO中尉とTUGGLE兵曹は斬首、LOYD兵曹は多数の日本兵により刺突演習の材料にされるなどにより惨殺された。 戦後2年目に事件が発覚し、石垣島海軍警備隊司令官井上乙彦大佐以下海軍兵士46人が戦犯として起訴され、41人が死刑判決を受けた。後、減刑により最終的には死刑7人、将校3人と一般兵29人が懲役5年〜無期懲役となった。 2001年、米軍飛行士慰霊碑建立期生会によって、石垣市字新川に3人の米兵の慰霊碑が建立された。 |
1945年4月16日正午ごろ |
鹿児島姶良郡の国分飛行場 |
空母イントレピッドから飛来したFG1D(機体番号87883)が墜落。 国分飛行場を攻撃中に撃墜された。 |
Ernest M.BAILEY海軍少尉は、機外に投げ出されて死亡。遺体は、飛行場西北に隣接する松木部落の墓地に埋葬。 |
1945年4月16日 |
鹿児島市田上町 |
空母ラングレーから飛来したF6F(機体番号78022)が墜落。 |
Myron PADDOCK海軍少佐はパラシュート降下して警防団に捕まったが、重傷を負っており、鹿児島県立病院に収容された。しかし、2日後に鹿屋の第五航空艦隊司令部に身柄を移され死亡。遺体は鹿屋市曽田の公共墓地に埋葬。 |
1945年4月16日午前11時頃 |
鹿児島県肝属郡(現・鹿屋市)串良町有里 |
空母バンカーヒルから飛来したF4U(機体番号57808) が墜落。 |
Ellis J.LITTLEJOHN海軍中尉が死亡。 |
1945年4月16日 |
鹿児島肝属郡(現・鹿屋市)串良町大塚山鳥越 |
空母エセックスから飛来したF6F(機体番号76642)が墜落。 |
パイロット1人が捕虜になり、鹿屋航空隊に送られたが、その後の処置は不明。 |
1945年4月16日 |
南九州 |
空母エセックスから飛来したFG1D(機体番号76430)が墜落。 |
James M.BOULDIN海軍少尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年4月16日 |
南九州 |
フィリピンミンドロ島基地所属の米軍機が墜落。 |
Thomas L.RAY二等軍曹とLouis L.Banker曹長が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年4月18日午前8時前 |
福岡県三井郡小郡村(現・小郡市)大字小郡 |
B29(機体番号42−65231、ニックネーム「GONNA MAKER」、第73航空団497爆撃群所属)が墜落。 大刀洗飛行場を爆撃したB29の編隊の最後尾機に、山口県小月飛行場を発進した陸軍飛行第4戦隊の屠竜2機が攻撃、1機は撃墜されたが、山本三男三郎少尉機はB29の右翼に体当たり、両方の機体は炎をあげてきりきり舞いしながら落下した。 山本少尉機は宝満川に墜落、山本少尉は瀕死の重傷を負い、大刀洗陸軍病院に運ばれる途中絶命した。 (注)作戦任務第76号(目標:大刀洗飛行場と大村飛行場、第73航空団から出撃21機、損失2機) |
B29は空中分解し、一部は民家に墜落、防空壕に入っていた家族など住民8人が死亡。搭乗員は全員墜落死、バラバラになった10 遺体が、小郡村の公共墓地に埋葬されたが、あと1名の遺体は見つからなかった。1946年5月に米軍が回収。 朝倉郡三輪町の大刀洗平和記念館には、このB29のプロペラボスカバーとエンジンの破片が保管されている。 |
1945年4月18日 |
福岡県大刀洗飛行場とサイパン島の間 |
B29(機体番号42−63519、第73航空団497爆撃群所属)が不時着。 (注)上記作戦の損失機2機のうちの1機 |
8人死亡。 |
1945年4月23日 |
沖縄県宮古島 |
空母サンチーから飛来したTBM(機体番号68688)が墜落。 宮古島の飛行場を攻撃中に対空砲火を受け、煙を吐きながら墜落して爆発した。 |
戦後の戦犯裁判で、28師団情報参謀の陸路富士雄中佐ら4人が有罪となった。 Joseph F. FLORENCE海軍少尉が捕虜となったが、7月11日に宮古島に駐屯していた28師団の兵士により処刑された。 |
1945年4月25日 |
沖縄県宮古島 |
空母スワニーから飛来したTBM(機体番号68451or68561)が墜落。 |
Frank COLLURA海軍中尉が死亡。 |
1945年4月26日 |
鹿児島県熊毛郡種子島西之表町(現・西之表市)古田番屋峰 |
P51(機体番号44−63399、第15戦闘機群45中隊所属)が墜落。 |
Emerson L.CYPHERS少尉が死亡。 |
1945年4月27日 |
鹿児島県出水市とサイパン島の間(アグリハン島付近) |
B29(機体番号42−24698、第73航空団498爆撃群所属) が墜落。 (注)作戦任務第108号(目標:出水飛行場、第73航空団から出撃22機、損失1機) |
搭乗員はパラシュート降下、機長のJack J.BOOZER大尉など11人は米軍が救助、1人死亡。 |
1945年4月27日 |
鹿児島県肝属郡(現・鹿屋市)串良町沖の志布志湾 |
B29(機体番号44−69888、第314航空団39爆撃群所属)が墜落。 機長のBenjamin L.POWELL中尉など8人が死亡。 (注)作戦任務第113号(目標:串良飛行場、第314航空団から出撃19機、損失1機) |
他の3人は米軍の潜水艦が救助。 |
1945年4月28日 |
宮崎県宮崎郡の沖合 |
B29(機体番号42−24699、ニックネーム「SALVO SALLY」、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。 宮崎飛行場を爆撃した直後に対空砲火を受け、海岸の沖合20数キロの日向灘に墜落。 (注)作戦任務第115号(目標:宮崎飛行場、第73航空団から出撃20機、損失1機) |
Jack B.CANNON一等軍曹は海上にパラシュート降下して漂流、翌日米軍の潜水艦ガトーが救助。 機長のWilliam W.CANADA大尉など11人は死亡した模様。 |
1945年4月28日 |
鹿児島県国分飛行場とテニアン島の間 |
B29(機体番号42−24840、第313航空団9爆撃群所属)が墜落。 (注)作戦任務第116号(目標:国分飛行場、第313航空団から出撃20機、損失1機) |
William J.SUMMY少尉はパラシュート降下したが死亡、他の10人は米軍が救助。 |
1945年4月28日 |
鹿児島県肝属郡(現・鹿屋市)串良町とグァム島の間 |
B29(機体番号44−69895、第314航空団39爆撃群所属)が墜落。 (注)作戦任務第119号(目標:串良飛行場、第314航空団から出撃23機、損失2機) |
機長のAlexander ORIONCHECK中尉など全員死亡。 |
1945年4月29日午前7時20分頃 |
鹿児島県肝属郡百引村(現・鹿屋市輝北町)唐鎌 |
B29(機体番号42−65295、第73航空団498爆撃群所属)が墜落。 海軍笠の原基地から発進した岩下邦雄大尉操縦の零戦の空対空三号爆弾の攻撃を受けたものと思われ、百引村唐鎌の民家の畑に 墜落、爆発炎上した。 (注)作戦任務第121号(目標:都城飛行場、第73航空団から出撃23機、損失2機) |
機長のHarry J.WIDOWS少尉など11人全員死亡。遺体はひどく焼けていたので識別困難だったが、現場付近で9遺体分が拾い 集められ埋葬された。 輝北町教育委員会は1995年3月に墜落現場に記念碑を建立、同年10月には、鹿屋基地からこのB29を迎撃した黒田昭二元飛長が慰霊に訪れた。現在、輝北町の歴史民俗資料館には、このB29の機関砲などが保存されている。 |
1945年4月29日朝 |
宮崎島県南那珂郡(現・日南市)細田村の沖合 |
B29(機体番号42−24611、ニックネーム「LITTLE JOE」、第73航空団498爆撃群所属)が墜落。 目標を爆撃直後に日本軍機の攻撃を受けて海上に墜落。 (注)上記作戦の損失機2機のうちの1機 |
機長のFrancis J.WOODOCKなど5人が機体とともに墜落死、他の5人は海上にパラシュート降下して米軍に救助された。 Billy J.BROWN二等軍曹は、海上を漂流中に日本海軍の警備艇に発見され捕虜になり、福岡の西部軍司令部に収容。6月20日に福岡高等女学校校庭で処刑。 |
1945年4月 |
鹿児島県沖 |
F4Uが墜落。 |
氏名不詳の海軍中佐が死亡。 |
1945年5月4日 |
大分県大分市とグァム島間の硫黄島付近 |
B29(機体番号44ー7004、第314航空団39爆撃群所属)が墜落。 (注)作戦任務第140号(目標:大分飛行場、第314航空団から出撃22機、損失1機) |
機長のSmith L.EDWARD中尉など7人死亡、4人は米軍が救助。 |
1945年5月5日午前 |
大分県竹田市大字平田折立 |
B29(機体番号42−65305、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。 長崎県大村基地を発進した第343海軍航空隊の粕谷欣三兵曹操縦の紫電改の体当たり攻撃を受けた。粕谷兵曹は大分県直入郡宮城村に墜落死。 (注)作戦任務第145号(目標:太刀洗飛行場、第314航空団から出撃11機、損失2機) |
米兵は、熊本県阿蘇郡産山村大字大利で、1人は墜落死、1人は強く抵抗したため射殺された。宮地町のフルクミ公共墓地に2遺体を埋葬。また、阿蘇郡南小国村字星和で、1人は村民に追われて自殺、1人は射殺された。南小国村星和字星和とフククボの中間に2遺体を埋葬。参考人は宮地警察署長。これら4人の死者は、Howard SHINGLEDECKER少尉、Charles KEARNS中尉、Robert JOHNSON伍長、Leo OEINCK伍長と推定される。1946年7月に米軍が遺体を回収。 7人が捕虜になり、西部軍司令部に収容。このうち機長のMervin S. WATKINS大尉は尋問のため東京へ送られ、戦後米国へ帰 還。他の6人Dale E. PLANBECK少尉、John C.COLEHOWER伍長、Leon E.CZARNECKI伍長、Teddy J.PONZCA軍曹、Robert B.WILLIAMS伍長、Wiliam R.FREDERICKS少尉は、5月17日から6月2日にかけて4回にわたって九州大学医学部で生体解剖実験で殺害された模様。 戦後の戦犯裁判で、西部軍と九州大学医学部の関係者23人が死刑を含む有罪とされた。 事件の33回忌にあたる1977年の5月5日、死亡した日米の飛行士を慰霊する「殉空の碑」が地元の人々によって墜落現場に建てら れ、毎年慰霊祭が行われている。 |
1945年5月5日午前 |
宮崎県延岡市沖の海上 |
B29(機体番号42−93953、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。 長崎県大村基地を発進した第343海軍航空隊の鴛渕孝大尉指揮の紫電改12機の攻撃を受けて、煙を吐きながら海中に墜落。 (注)上記作戦の損失機2機のうちの1機 |
機長のRalph E.MILLER中尉など6人が機体とともに墜落死。 5人が東臼杵郡北川村(現・北川町)と延岡市の境界付近の山林にパラシュート降下して捕虜。このうちClark B.BASSETT Jr.伍長は、北川村大字長井上安山林に降下したが、重傷を負っており、その夜、憲兵隊へ連行された直後に死亡。延岡市山下町上ノ坊善正寺墓地に埋葬。1946年9月に米軍が遺体を回収。善正寺の住職(当時旧制中学3年)の話によると、米兵の遺体はあまり損傷はなくきれいで、墓地に土葬した。戦後、彼の両親が寺を訪ねて来て遺体を引き取ったとのこと。 Jack M.BERRY少尉、Jack V.DENGLER軍曹、Merlin R.CALVIN兵卒、Irving A.CORLISS伍長の4人は、延岡警察署のグランドで目隠し姿で市民にさらされた後、都農憲兵分隊を経て西部軍司令部に送致。6月20日に福岡高等女学校校庭で処刑、または九州大学医学部での生体解剖事件で殺害されたものと思われる。 【北川町の女性(1922年生まれ)の話】 当日は勤労動員で用水路の補修工事に出ていた。B29が1機だけ飛んで来て、北川町の黒原峠の上空で日本軍の戦闘機2機と空中戦になった。戦闘機がB29にもつれるように攻撃をかけていると、B29は火を吹いて低空を東の方へ飛んで行き、海の方へ落ちたようだ。その途中、落下傘が開き、1人は北川小学校の裏山付近の木に引っかかった。その米兵は相当な重傷で、在郷軍人が手当をしてやっていたが、後に死んだと聞いた。他の4人は北川町と延岡市の境界付近の山中に降下して地元の人たちに捕まった。彼らは長井の方へ連れて来られており、大勢の人が殴りかかろうとするのを、年輩者が制止していたが、見ていてかわいそうだった。 |
1945年5月7日午前9時頃 |
大分県南海部郡明治村(現・佐伯市弥生町)宇藤木の山林 |
B29(機体番号44−69887、第313航空 団505爆撃群所属)が墜落。 長崎県大村基地を発進した第343海軍航空隊の菅野直大尉指揮の紫電改部隊の攻撃を受けて炎上、墜落。 (注)作戦任務第153号(目標:大分飛行場、第313航空団から出撃10機、損失2機) |
機長のRichard A.GRAY中尉など10人が墜落死。このうち6人ほどの焼け焦げた遺体が現場付近で見つかった。墜落現場に隣接する大野郡川登村(現・臼杵市野津町)大字西神野字山ノ口に、GUSTAVSON中尉など3人がパラシュートが開かず落下、即死し、飛行服の姿のままで埋葬された。また、隣接する北海人郡南津留村(現・臼杵市)大字東神野で1人が墜落死。 Robert J.ASPINALL曹長がパラシュート降下して捕虜。佐伯を経て福岡の西部軍司令部に送られ、6月20日に福岡高等女学校校庭で処刑されたと思われる。 1971年、このB29のエンジン1基が本匠村風戸の番匠川で見つかり、佐伯市の日本文理大学付属高校の背後の濃霞山登山口の防空壕跡に保存されている。 【地元の複数の人の話】 飛行機は煙を吐きながら高度を下げ、空中で2つに割れてキリキリ舞いしながら山に墜落した。米兵の1人はパラシュートが開かず、胸 に手を当てて地べたに伏せた格好で死んでいた。木にパラシュートが引っかかって死んでいる米兵もいた。何人か捕虜がいたようで、佐伯へ連行されたと聞いた。付近の村から女性たちも高い山を登って墜落現場へ見物に行った。戦後、米軍が遺体を回収に来た。機体の残骸は馬車で運び出した。 |
1945年5月7日 |
大分県大分市の沖合 |
B29(機体番号42−65253、ニックネーム「MARYANNA」、第313航空団505爆撃群所 属)が不時着。 長崎県大村基地を発進した第343海軍航空隊の菅野直大尉指揮の紫電改部隊の攻撃を受けた。 (注)上記作戦の損失機2機のうちの1機 |
機長のAndrew PEN中尉など2人死亡、他の10人は米軍の潜水艦が救助。 |
1945年5月7日午前10時20分頃 |
大分県下毛郡山口村(現・中津市三光町)の八面山北斜面中腹 |
B29(機体番号42−63549、 ニックネーム「EMPERO’S EXPRESS」、第313航空団505爆撃群所属)が墜落。 山口県小月飛行場を発進した陸軍飛行第4戦隊の村田勉曹長操縦の屠竜の体当たり攻撃による。村田勉曹長は墜落死。 (注)作戦任務第154号(目標:宇佐飛行場、第313航空団から出撃11機、損失1機) |
機長のJames W.McKILLIP中尉など8人が墜落死。このうち5遺体は機体の残骸の中で、2遺体は機外で見つかったが、あと1遺 体は確認できなかった。1946年10月に米軍が遺体を回収。 下記の3人がパラシュート降下して捕虜。 Edgar L.McELFRESH曹長、Ralph S.ROMINES軍曹、Otto W.BAUMGARTEN軍曹。彼らは中津憲兵分隊から西部軍司令部に送られ、6月20日に福岡高等女学校校庭で処刑された。 1970年に、三光村の楠木正義氏らの尽力により、墜落現場に村田曹長とB29搭乗員の慰霊碑が建てられ、毎年、日米合同の慰霊祭が開催されている。付近は村の手で平和公園として整備され、記念館にはB29の残骸の一部なども展示。 |
1945年5月10日 |
鹿児島県喜界島付近 |
空母シャングリラから飛来したFG1D(機体番号67876)が墜落。 |
David C.KINCANNON海軍大尉が海上にパラシュート降下して捕虜。後に日本海軍の飛行場設営隊により斬首された。 戦後の戦犯裁判で、処刑命令者の佐藤勇少佐は懲役20年、実行者の大島宗彦大尉は懲役7年となった。 |
1945年5月11日午後2時45分頃 |
九州西方海上 |
PBM飛行艇(機体番号59031)が墜落。 長崎県大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改の攻撃を受けた。 |
機長のDick SIMS大尉など乗員5人は米軍が救助。 |
1945年5月13日 |
大分県南海部郡佐伯湾 |
空母エセックスから飛来したSB2C(機体番号20975)が墜落。 |
Paul O.COBURN海軍少尉とRobert J.MELINSKY三等飛行通信兵曹が死亡。 |
1945年5月13日 |
大分県南海部郡佐伯飛行場 |
空母エセックスから飛来したSB2C(機体番号20839)が墜落。 |
Joseph M.EARDLEY飛行通信兵曹とD.R.BENY少佐が死亡。 |
1945年5月13日 |
大分県南海部郡佐伯飛行場 |
空母モントレーから飛来したTBM(機体番号68849)が墜落。 |
Albert F.POWERS海軍少尉と他2人が死亡。 |
1945年5月13日早朝 |
鹿児島県鹿屋飛行場 |
空母ベニントンから飛来したF4U(機体番号82594)が墜落。 |
Robert B.HAMILTON海軍少尉が死亡。 |
1945年5月13日 |
鹿児島県鹿屋飛行場 |
空母ホーネットから飛来したSB2C(機体番号21043)が墜落。 |
J.D.WALKER海軍中尉と他1人が死亡。 |
1945年5月13日 |
鹿児島県鹿屋飛行場の西3キロ付近 |
空母ホーネットから飛来したTBM(機体番号23542)が墜落。 鹿屋飛行場を攻撃中にエンジンに対空砲火を受けて撃墜された。 |
Thomas C.DURKIN海軍大尉、Cecil W.STEWART二等飛行射撃兵曹、Thomas J.TINDAL一等飛行通信兵曹の3人が捕虜。鹿屋の第五航空艦隊司令部から大船海軍捕虜収容所に送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年5月13日朝 |
鹿児島県姶良郡加治木町(現・加治木市)付近 |
空母ベローウッドから飛来したF6F(機体番号72525)が墜落。 |
Russel E. STEPHENS海軍中尉が捕虜。鹿屋の第五航空艦隊司令部から大船海軍捕虜収容所に送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年5月13日午前8時30分頃 |
鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)付近の海岸 |
空母ベニントンから飛来したF6F(機体番号72448)が墜落。 長崎県大村基地を発進した第343海軍航空隊の市村悟郎中尉操縦の紫電改によって撃墜された。 |
Philip PERABO Jr.海軍中尉が海上に降下、海岸に泳ぎついて捕虜。鹿屋の第五航空艦隊司令部から大船海軍捕虜収容所に送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年5月14日 |
大分県の海岸沖1マイル |
空母バターンから飛来したTBM(機体番号68714)が墜落。 宇佐飛行場を攻撃中に撃墜された。 |
6月3日、大分県西国東郡香々地町見目の堀切海岸に、George T.WYDENFREAR三等飛行通信兵曹の遺体が漂着。腰の周りは焼けて頭部は骨だけであった。香々地町見目の鼻田に埋葬。もう1人の搭乗員Thomas F.HENRY海軍少尉は行方不明。 |
1945年5月14日午後1時頃 |
宮崎県児湯郡富田村(現・新富町)越馬場の民家横の雑木林 |
F6F(機体番号77880)が墜落。 新田原飛行場を攻撃中に対空砲火により撃墜された。 |
Robert L.WELY海軍少尉が死亡。富田村日置の岩脇浜墓地に遺体を埋葬。 【地元の男性の話】 墜落現場は、JR日向新富駅の東北500メートル付近の線路沿いで、墜落時には付近が燃えた。米兵の墓地には墓標が立てられ、戦後、遺体の回収に来た米軍はそれを見て喜んだ。 |
1945年5月14日 |
鹿児島県喜界島 |
F4Uと思われる艦載機が墜落。 |
Richard M.DAY海軍少佐が死亡。
|
1945年5月15日午後0時43分頃 |
長崎県北松浦郡宇久島の西方沖 |
PBM5飛行艇(機体番号59042)が墜落。 沖縄県慶良間列島から飛来して日本の船舶を攻撃中に、大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改に撃墜された。 |
数日後、Richard F.MOREY海軍少尉など3人の遺体が木場海岸に漂着、漁民たちによって埋葬された。 機長のMarvin HART大佐など搭乗員10人は米軍の潜水艦が救助。 |
1945年5月15日午後0時50分頃 |
長崎県北松浦郡宇久島の西方沖 |
PBM5飛行艇(機体番号???)が墜落。 上記の飛行艇とともに日本の船舶を攻撃中に、大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改に撃墜された。 |
機長のIrving E.MARR中尉など搭乗員8人全員死亡。 |
1945年5月16日午後1時頃 |
宮崎県児湯郡新田村(現・新富町)ノジの新田原飛行場付近 |
空母ベニントンから飛来したF6F(機体番号77943)が墜落。 15機ぐらいの編隊で新田原飛行場を攻撃中、対空砲火を受けた。 |
HESSEL海軍少佐が死亡、現場付近に埋葬。 |
1945年5月23日 |
鹿児島県とグァム島の間 |
B29(機体番号42−150784、ニックネーム「CITY OF DALLAS」)が墜落。 |
1945年5月23日 |
福岡県とテニアン島の間 |
B29(機体番号42−63509、ニックネーム「LONG WINDED」)が墜落。 高射砲弾を受け、足摺岬沖約30キロ付近の海上に墜落。 (注)作戦任務第180号(目標:下関海峡、第313航空団から出撃32機、損失1機) |
機長のJoseph R.LEWIS中尉など8人が死亡。他の3人は米軍が救助。 |
1945年5月27日深夜 |
福岡県門司市(現・北九州市門司区)大里奥田の黒甲の谷 |
B29(機体番号44−69811、第313航空団9爆撃群所属)が墜落。 飛行機は、高射砲弾を受けて火の玉になって墜落。 (注)作戦任務第185号(目標:関門海峡、第313航空団から出撃11機、損失1機) |
Charles PALMER軍曹が捕虜になり、同日西部軍司令部へ送られ、6月20日に福岡高等女学校校庭で処刑された。 機長のStanley C.BLACK大尉など、他の10人は墜落時に死亡。機体の残骸の中の遺体や、パラシュートが開かず墜落死した遺体があり、集まって来た人々がそれをつついたりした。遺体は奥田の杉林、風師山の山腹、粟島神社の背後などに埋葬。1946年6月に米軍が遺体を回収。 2002年に、「北九州の戦争を記録する会」によって、このB29の破片と思われる金属片が山中で発見された。 |
1945年5月28日 |
鹿児島県奄美大島加計呂麻島付近 |
戦艦ニューヨークの偵察機(機体番号5548)が燃料切れで不時着。 |
翌朝、日本軍によりWilliam K.KELLER中尉とRuben MIXON中尉が捕虜。KELLER中尉は6月15日頃大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。MIXON中尉は7月末頃、加計呂麻島で衰弱死した。 |
1945年6月2日 |
鹿児島県鹿児島湾 |
空母シャングリラから飛来したF4U(機体番号82789)が墜落。 大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改との空中戦で撃墜された。 |
Paul CHERNOFF海軍中尉が死亡。 |
1945年6月2日 |
鹿児島県鹿児島湾 |
空母シャングリラから飛来したF4U(機体番号82298)が墜落。 指宿の水上機基地を攻撃中、対空砲火を受けた。 |
Roy A.FULLER海軍中尉が死亡。 |
1945年6月2日 |
鹿児島県肝属郡根占町(現・南大隅町)川北狩倉野原 |
空母シャングリラから飛来したFG1D(機体番号76540)が墜落。 指宿の水上機基地を攻撃中、大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改との空中戦で撃墜された。 |
Harold L.KENEDY海軍中尉が死亡。 |
1945年6月2日午前 |
鹿児島県指宿郡と空母シャングリラの間 |
F4U(機体番号82751)が墜落。 指宿の水上機基地を攻撃中、大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改との空中戦で撃墜された。 |
Wallace ATKINSON海軍中尉が死亡。 |
1945年6月2日 |
沖縄県沖と空母シャングリラの間 |
FG1D(機体番号76528)が墜落。 指宿の水上機基地を攻撃中、大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改との空中戦で撃墜された。 |
Charles N.KIRKHAM海軍中尉が死亡。 |
1945年6月2日 |
沖縄県沖と空母シャングリラの間 |
F4U(機体番号82371)が墜落。 発艦時に事故を起こした。 |
William H.MARR海軍中尉が死亡。 |
1945年6月3日午前9時30分頃 |
鹿児島県川辺郡知覧町付近 |
空母シャングリラから飛来したFG1D(機体番号82753)が墜落。 長崎県大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改との空中戦で撃墜された。 |
Sigure LOYDAL海軍中尉が死亡。 |
1945年6月3日 |
鹿児島県日置郡阿多村白川字長倉山林内 |
空母シャングリラから飛来したF4U(機体番号88042)が墜落。 大村基地を発進した第343海軍航空隊、および知覧基地を発進した陸軍飛行第244戦隊との空中戦で撃墜された。 |
John H.SHROFF中尉が海上を漂流中に漁船に救助され捕虜。15日に東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年6月3日 |
南九州 |
空母シャングリラから飛来したF4U(機体番号82636)が墜落。 大村基地を発進した第343海軍航空隊、および知覧基地を発進した陸軍飛行第244戦隊との空中戦で撃墜された。 |
Edward DIXON Jr.中尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年6月4日 |
鹿児島県鹿屋市付近 |
戦闘機が墜落。 |
John J.McSACHERN少尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年6月8日 |
沖縄県西表島沖 |
FG1D(機体番号87913)が墜落。 |
Logan M.WHITE海軍少尉が死亡。 |
1945年6月8日 |
沖縄県石垣島付近 |
イギリス空母ビクトリアスから飛来したF4U(機体番号JT418、1836中隊所属)が墜落。 |
Donald.CAMERON海軍中尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後ニュージランドへ帰還。 |
1945年6月8日 |
沖縄県宮古島付近 |
空母スワニーから飛来した艦載機が墜落。 |
Maxwell F.DENMAN飛行兵曹(海軍中尉?)が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年6月12日 |
鹿児島県鹿屋市高須町付近の畑 |
空母シャングリラから飛来したF4U(機体番号82436)が墜落。 |
墜落現場近くの丘に氏名不詳の1遺体があり、供養が行われた。 |
1945年6月20日 |
福岡県京都郡小波瀬村興原海岸 |
米軍機の墜落によるとみられる氏名不詳の1遺体が漂着。小波瀬村の公共墓 地に埋葬。 |
1945年6月27日 |
大分県速見郡北杵築村ミゾエの海岸 |
氏名不詳の1遺体が漂着。ゴムボートで漂流中餓死した模様。東国東郡奈 狩江村大字守江の神場で火葬。 |
1945年6月下旬 |
鹿児島県油津南方海面 |
F4Uが墜落。 |
氏名不詳の1遺体が発見された。 |
1945年7月1日 |
福岡県とマリアナ基地の間 |
B29(機体番号44−69990、第314航空団19爆撃群所属)が墜落。 (注)作戦任務第243号(目標:下関市街地、第314航空団から出撃141機、損失1機) |
搭乗員11人のうち9人は米軍が救助、2人は死亡。 |
1945年7月1日 |
鹿児島県と沖縄県の間 |
F4Uと思われる艦載機が墜落。 |
Norman HOMRICH海軍少尉が死亡。 |
1945年7月1日 |
鹿児島県熊毛郡種子島付近 |
F4Uが墜落。 |
Sheperd S. SAMUEL海軍中尉が捕虜。12日に東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年7月4日 |
鹿児島県と沖縄県伊江島の間 |
P47(機体番号44ー88292、第507戦闘機群465中隊所属)が墜落。 九州の写真撮影の護衛飛行中にエンジンから火を吹いた。 |
Lanhan C.CONNALLY大尉はパラシュートで脱出したが死亡。 |
1945年7月6日 |
福岡県と沖縄県伊江島の間 |
P47(機体番号44ー457921)が墜落。 |
Marshall C.BLACKWOOD少尉が海上にパラシュート降下したが死亡。 |
1945年7月7日午前 |
長崎県五島列島宇久島の沖合 |
沖縄基地から発進したPB4Yー2が墜落。 2機で偵察飛行中、日本軍艦艇の対空砲火を受けた。 |
機長のRobert J.BREWER海軍大尉など8人が機体とともに墜落死。 David C.DAVIS海軍中尉、Frank R.GARDNER一等飛行通信兵曹、Jack R.LEWIS二等飛行機関兵曹、Theodore KALMUCK一等水兵、George E.DACIER二等飛行機関兵曹の5人が海上を漂流中に漁船に救助され、平村役場へ連行された。 7月11日に、佐世保海軍基地から大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年7月8日 |
長崎県五島列島宇久島付近 |
P47(機体番号44−87901、第318戦闘機群333中隊所属)が墜落。 |
Billy D. HOLT少尉が宇久島監視哨の部隊員に捕まり、7月11日に佐世保海軍基地から大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米 国へ帰還。 |
1945年7月9日 |
長崎県西彼杵郡と沖縄県伊江島の間 |
P47が墜落。 |
Joseph B.LAWHAN准尉が死亡。 |
1945年7月10日午前0時15分ごろ |
福岡県門司市(現・北九州市)部崎の沖合 |
B29(機体番号42−93939、第314航空団6爆撃 群所属)が墜落。 (注)作戦任務第256号(目標:下関海峡・新潟・七尾、第313航空団から出撃31機、損失1機) |
搭乗員12人のうち、機長のRobert R.SCHMIDTなど11人死亡。このうち溺死したAndre JACQUES軍曹とRobert STRIKLAND軍曹の2遺体が門司市部崎に漂着、現場付近に埋葬。1946年6月に米軍が回収。 Jack J. ROY軍曹が関門海峡付近で駆逐艦冬月に救助され捕虜。西部軍司令部へ送られ、8月10日に油山で処刑された。 |
1945年7月10日 |
鹿児島県ウジ群島付近 |
P51(機体番号44−63883、ニックネーム「BLONDIE & THE FLYING WEB−FOOT」) が不時着。 |
Elmer R.ZIEGLER准尉が死亡。 |
1945年7月10日 |
鹿児島県奄美大島付近 |
P47(第507戦闘機群464中隊所属)が墜落。 |
Frank J.COLLINS少佐は脱出して救命ボートで漂流、徳之島で捕虜になった。 |
1945年7月10日 |
鹿児島県奄美大島付近 |
P47(第507戦闘機群464中隊所属)が墜落。 上記のFrank J.COLLINS少佐の救助活動を援護中に、日本軍機の攻撃を受けた。 |
Neal T.McGINNIS准尉が死亡。 |
1945年7月10日 |
鹿児島県姶良郡と沖縄県の間の海上 |
B25(機体番号44−30344、第41爆撃群所属)が墜落。 |
機長のwilliam L.CHASE中尉以下5人全員死亡。 |
1945年7月12日 |
沖縄県嘉手納飛行場 |
F4Uと思われる艦載機が墜落。 |
Paul H.BROWN海軍大尉が死亡。 |
1945年7月15日午前11時30分頃 |
鹿児島県徳之島の南西2マイルの海上 |
P47(第507戦闘機群463中隊所属)が墜落。 伊江島から福岡県板付飛行場の攻撃に向かい、撃墜された。 |
John R.RANGER中尉が死亡。 |
1945年7月16日午後2時頃 |
宮崎県南那珂郡栄町(現・南郷町)外之浦 |
F4U(機体番号80941)が墜落。 10機ほどの米軍機が外之浦港を機銃掃射中、1機が対空砲火を受けて海岸沿いの集落に墜落、民家7戸を焼いた。 |
William A.EVERETT海軍中尉が死亡。 機体の残骸や焼け跡の瓦礫は、外之浦港に駐屯していた海軍の特攻艇部隊がはしけに積んで海上に投棄した。戦後、米軍が遺体の回収に来た時、南郷町の墓地には町長らの手で「無名戦士の墓」という墓標が建てられていた。 |
1945年7月17日昼頃 |
鹿児島県種子島マスダ飛行場 |
FG1D(機体番号87908)が墜落。 |
William C.MADDOX海軍少尉が海岸付近で捕虜になったが、火傷のため死亡。 |
1945年7月24日 |
大分県南海部郡水の子島の沖合 |
空母ベニントンから飛来したFG1D(機体番号88062)が墜落。 長崎県大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改との空中戦で撃墜された。 |
Rodney C.TABLER海軍中尉が死亡。 |
1945年7月24日 |
大分県南海部郡水の子島の沖合 |
空母ベニントンから飛来したFG1D(機体番号88224)が墜落。 長崎県大村基地を発進した第343海軍航空隊の紫電改との空中戦で撃墜された。 |
Robert J.SPECKMANE海軍少尉が死亡。 |
1945年7月25日 |
福岡県筑上郡築城飛行場と沖縄県伊江島の間の海上 |
B24(機体番号44−40559、ニックネーム「KUUIPO」、第494爆撃群所属)が墜落。 |
機長のJohn C.ANDERSON中尉など9人が死亡。他の2人は米軍が救助。 |
1945年7月26〜27日 |
福岡県八女郡横山村(現・八女市上陽町)の上横山と下横山の境界付近の森 |
B29(機体番号42ー94098、第314航空団19爆撃群所属)が墜落。 (注)作戦任務第295号(目標:大牟田市街地、第314航空団から出撃130機、損失1機) |
搭乗員11人のうち2人は機体とともに墜落して焼死。 パラシュート降下した9人のうち1人は山狩りの警防団員に取り囲まれ、ピストルを発射し警防団員1人に重傷を負わせたが、日本刀で手首を切られたうえ、竹や棒で殴り殺され、現場付近に埋葬された。 残りの8人のうち5人は同日に、2人は翌日に、1人は約10日後に捕虜。この中には、James E.NEWITT中尉(機長)、Louis W.NELSON大尉、Charles S.APPLEBY准尉、Fan THORNTON二等軍曹、Frederick A.STEARNS伍長などが含まれている。彼らは久留米憲兵分隊を経て西部軍に収容され、8月10日または15日に油山で処刑された。 |
1945年7月26〜27日 |
愛媛県佐多岬沖1キロの海上 |
B29(機体番号42−94041、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。 深夜に北方から低空で飛来、海に突っ込み炎上した。 (注)作戦任務第296号(目標:下関海峡・羅津・福岡・新潟・舞鶴・深川・仙崎、第313航空団から出撃30機、損失3機) |
搭乗員12人のうち、機長のBommer L.GUY中尉など5人死亡、6人は米軍が救助。 Byron H.BROWER伍長は泳いでいるところを、愛媛県西宇和郡三崎村の警官と住民に捕まり、松山憲兵分隊を経て、西部軍司令部へ送られ、8月10日または15日に油山で処刑された。 |
1945年7月26〜27日 |
福岡県とマリアナ基地の間 |
以下の2機が失われた。 (注)上記作戦の損失機3機のうちの2機 |
B29(機体番号42−24918、第313航空団504爆撃群所属) マリアナ基地への帰途、四国南方80キロの海上に不時着。 |
4人死亡、7人は米軍が救助。 |
B29(機体番号不明) 硫黄島に破損着陸した。 |
1945年7月28日 |
長崎県西彼杵郡面高(現・西海町)ホンゴウアブラテ海岸沖 |
P51が墜落。 佐世保軍港を攻撃した飛行機が海上に墜落。 |
Stewart B.SMITH大尉が死亡、8月20日に遺体が海岸に漂着した。 |
1945年7月28日 |
鹿児島県鹿屋市鹿屋航空基地 |
P51(機体番号44−72114)が墜落。 |
Bernard B.KANE中尉が死亡。 |
1945年7月28日 |
鹿児島県鹿屋市付近 |
P47(507戦闘機群463中隊所属)が墜落。 対空砲火の直撃をうけた。 |
Walter T.FREDERIK中尉が死亡。 |
1945年7月29日 |
鹿児島県と沖縄県伊江島の間 |
B25(機体番号43−27879)が墜落。 |
機長のNathan J.MAGER中尉など3人は米軍が救助、他の3人は死亡。 |
1945年7月30日午後0時30分頃 |
大分県南海部郡東中浦村(現・佐伯市鶴見町)大島字木山 |
B25(機体番号44−31207、第345爆撃群所属)が墜落。 飛行機は鶴御崎のレーダー基地を攻撃中、佐伯沿岸防備隊の対空砲火を受けて墜落、爆発した。 |
Curtis O.MIDDLETON少尉など5人全員死亡。墜落現場に焼け焦げた遺体。 |
1945年7月30日午後2時頃 |
鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)向田町(御陵下町?)旭絹織川内工場 |
B25(第38爆撃群所属)が墜落。 飛行機は川内川にかかる橋を攻撃中、日本軍の対空砲火を受けて墜落した。 |
機長のJack R.DISHINGER少尉など5人全員が死亡。遺体は翌日火葬され、福昌寺に遺灰が納められた。 |
1945年7月30日 |
鹿児島県日置郡串木野町(現・いちき串木野市)の沖合 |
P51(機体番号44−88268、第15戦闘機群47中隊所属)が墜落。 |
Walter H.PURCELL大尉が死亡。 |
1945年7月30日 |
鹿児島甑列島の沖合 |
P47(第507戦闘機群464中隊所属)が墜落。 海岸付近の船舶を機銃掃射中に対空砲火を受け、低空で海中に突っ込んだ。 |
Willis E.BEAR少尉が死亡。 |
1945年7月30日 |
九州と沖縄県の間 |
F4Uと思われる艦載機が墜落。 |
Kennie D. WARD海軍少尉が死亡。 |
1945年7月30日 |
九州沖 |
F4Uと思われる艦載機が墜落。 |
Joyce W. FULLERTON海軍少尉が死亡。 |
1945年7月31日午後0時30分頃 |
宮崎県宮崎郡佐土原町の沖10キロの日向灘 |
P51(機体番号44−13138、ニックネーム「MARTHASU」) が不時着。 |
George A.HUCK少尉が海上にパラシュート降下して漂流中に日本軍に捕まり、西部軍司令部へ送られ、8月10日、または15日 に油山で処刑された。 |
1945年7月31日 |
長崎県南松浦郡福江島(現・福江市)崎山鼻の海上 |
B24(機体番号44−50958、第30爆撃群所属)が墜落。 沖縄の読谷基地から長崎の爆撃に向かい墜落した。 |
2人が機体とともに墜落死。 Weldon W. DYESSR中尉(機長)、Robert J. STUDER少尉、Nathaniel HOFFMAN少尉、Serge S. DAVIDSON 少尉、Charles S. ENSLEY少尉、Aubrey B. DIXON軍曹の6人が捕虜になり、8月4日に福岡の西部軍司令部へ送られ、8月10日、または15日に油山で処刑された。 |
1945年8月1日 |
大分県南海部郡東上浦村最勝海浦の海岸沖 |
氏名不詳の1遺体が漂着。遺体はかなり腐敗していた。東上浦村大字津井公園に埋葬。 |
1945年8月4日 |
鹿児島県鹿屋市と沖縄県伊江島の間 |
P61(機体番号42−39891)が墜落。 |
Henry L.CURLEY少尉、Chestr A.PORRETTA少尉、Arthur C.BEAUDEAN伍長が死亡。 |
1945年8月5日 |
鹿児島県志布志町新町市街地 |
F6K5(機体番号44−11922)が墜落。 |
John N.BURRUD大尉が死亡。 |
1945年8月6日 |
長崎県対馬と沖縄県伊江島の間 |
P51(機体番号44−63205)が不時着。 |
Richard J.MILLER少尉が死亡。 |
1945年8月6日 |
鹿児島県屋久島付近の沖合 |
P51(機体番号44−14958、第15戦闘機群47中隊所属)が墜落。 |
Ned H.BALDWIN中尉は、アメリカの潜水艦に救助された。 |
1945年8月6日午前10時45分頃 |
長崎県対馬上県郡豊崎村(現・対馬市)浜玖須の山中 |
B25(機体番号44−30941、第345爆撃群所属)が墜落。 |
機長のHarry E.TYREE中尉など5人全員が死亡。 |
1945年8月7日 |
大分県速見郡豊岡町大字豊岡の沖合 |
艦載機が墜落。 |
この操縦士とみられる1遺体が、8月10日に豊岡の海岸に漂着。遺体は裸で両足がなく、多くの打撲傷がみられた。 |
1945年8月7日午前11時頃 |
熊本県荒尾市原万田字宇根および松原付近の田んぼ |
B24(機体番号44−41494、第11爆撃群所属)が墜落。 数機編隊で大牟田市の三井三池染料会社を空襲中に高射砲弾を受けて空中分解した。 |
機長のJohn H.MORGAN中尉など10人全員死亡。大牟田市の藤田公共墓地に埋葬。参考人は荒尾警察署長。 この墜落時、B24の搭載していた爆弾が大牟田市藤田町一帯に落下して爆発、住民、通行人、道路工事の朝鮮人人夫など約00人が死亡する惨事となった。1995年、町内会の人々によって「藤田町被爆戦没者之碑」が藤田町公民館に建立され、死亡した住民全員の氏名と「朝鮮人数名」、「米軍飛行兵数名」という文字が刻まれている。 |
1945年8月7日正午頃 |
熊本県八代郡(現・八代市)鏡町 |
B24(機体番号44−31300、第345爆撃群所属)が墜落。 |
Robert C.NEAL中尉(機長)、Louis J.WINIECKI Jr.中尉、Richard N.LANE中尉、Robert W.COULET二等軍曹、William COHEN二等軍曹の5人全員がパラシュート降下して捕虜となり、翌日福岡の西部軍に送致。その途中、荒木駅の南300メートルで米軍機の機銃掃射を受け、日本の憲兵1人が死亡、捕虜1人が負傷。 彼らは8月10日、または15日に福岡市南郊の油山で処刑された。 |
1945年8月7日午前11時頃 |
鹿児島県川辺郡知覧町の知覧飛行場 |
B25(機体番号42−64934、ニックネーム「SLEEPY TIME GAL」)が墜落。 |
機長のFrank H. MAVRI中尉など5人全員死亡。 |
1945年8月8日 |
長崎県壱岐島東方の日本海 |
B29(機体番号42−6352、第313航空団9爆撃群所属)が墜落。 (注)作戦任務第319号(目標:八幡市街地、第58・73・313航空団から出撃245機、損失4機) |
1人死亡。10人が脱出して漂流中、14日に島根県沖で捕虜。中国憲兵隊司令部へ送られ、戦後米国へ帰還。 ⇒中国軍管区の項参照。 |
1945年8月8日午前 |
福岡県沖約20マイルの日本海 |
P47(機体番号44ー88017、第318戦闘機群19中隊所属)が墜落。 八幡空襲のB29の編隊を護衛中、機体に損傷を受けた模様。 |
Lioyd G.HENLEY Jr. 大尉が日本軍に捕まり、福岡の西部軍司令部へ送られ、8月15日に油山で処刑された模様。 |
1945年8月8日午前 |
福岡県沖の日本海 |
P47(機体番号44ー88111、第318戦闘機群所属)が墜落。 八幡空襲のB29の編隊を護衛中撃墜された。 |
Josse B.HILL准尉は米軍の飛行艇に救助された。 |
1945年8月8日午前 |
佐賀県東松浦郡姫島の沖合 |
P47(機体番号44ー87890、第318戦闘機群333中隊所属)が墜落。 八幡空襲のB29の編隊を護衛中、機体に損傷を受けた模様。 |
Harley C.KEMPTER少尉が死亡。 |
1945年8月8日午前 |
有明海 |
P47(機体番号44ー88158、第318戦闘機群333中隊所属)が墜落。 八幡空襲のB29の編隊を護衛中、機体に損傷を受けた模様。 |
Churchill A.MARVIN少尉が死亡。 |
1945年8月8日 |
鹿児島県と沖縄県の間 |
PB4Yー2(機体番号59556)が墜落。 |
1945年8月8日 |
沖縄県と台湾の間 |
PBM5(機体番号59154)が墜落。 |
1945年8月8日 |
沖縄県と台湾の間 |
PBM5(機体番号59023)が墜落。 |
1945年8月9日 |
大分県速見郡豊岡町沖の別府湾 |
B25(機体番号44−31054、第38爆撃群所属)が墜落。 別府湾に停泊中の空母海鷹を低空で攻撃中、甲板上の支柱に接触した。 |
機長のEdwin H.HAWES大佐など6人全員死亡。 8月14日、豊岡町大字豊岡の海岸沖に、氏名不詳の1遺体が漂着。また翌日、氏名不詳で准尉とみられる2遺体。これらは、いずれも豊岡町大字平道の公共墓地に埋葬。また、8月15日に大分県別府市照波園の海岸沖に、氏名不詳の腐乱した1遺体が漂着。さらに翌日、別府市亀川町古市の海岸沖100メートルで、氏名不詳の腐乱した2遺体を発見。いずれも別府市野口原市営墓地に埋葬。 これらは、いずれも上記墜落機の搭乗員とみられる。 |
1945年8月10日 |
熊本県玉名郡玉名町(現・玉名市)大字永徳寺の田んぼ |
P47(機体番号44−88196、第507戦闘機群465中隊所属)が墜落。 熊本へのナパーム弾攻撃作戦中に撃墜された。 |
Earl G.GRAHAM Jr.少尉が死亡、現場付近に遺体を埋葬。 |
1945年8月10日 |
熊本県菊池郡水原村(現・菊池市)大字原字木護の官有林内 |
P61(機体番号42ー39588、第418夜間戦闘機 中隊所属)が墜落。 |
Raymond A.COZZA少尉(操縦士)と、Robert H. O’DELL准尉が死亡。黒焦げの機体の側にあったバラバラの2遺体を現場付近に埋葬。 |
1945年8月10日午前11時頃 |
長崎県対馬下県郡(現・対馬市)仁位村 |
B25(機体番号44−31065、第345爆撃群所属)が墜落。 日本海軍の駆逐艦の対空砲火を受けた。 |
機長のGeorge H.VINCENT少尉など5人全員が死亡。下県郡奴加岳村大字佐保浦に遺体を埋葬。 |
1945年8月11日 |
宮崎県宮崎郡と沖縄県伊江島の間 |
2機のP51(機体番号44ー15008、ニックネーム「PRETTY CAROLINA MOONSHINE」と、機体番号44ー63294,ニックネーム「SPIKE SURG IN VIRGIN」)が墜落。 |
搭乗員はアメリカ海軍の救助飛行機が救助。 |
1945年8月12日 |
長崎県対馬と沖縄県伊江島の間 |
B25(機体番号44−31297、第345爆撃群所属)が墜落。 |
機長のEugine J.PARKER大尉など5人全員が海上で死亡。 |
1945年8月12日 |
福岡県久留米市と沖縄県伊江島の間 |
P38(機体番号44ー25242)が不時着。 |
Walter J.SYKES Jr.中尉は海上にパラシュート降下したが死亡。 |
1945年8月12日 |
宮崎県児湯郡美々津町の沖合約3キロ |
P38(機体番号44−27142)が墜落。 写真偵察任務を兼ねた米軍機の数機編隊が、門川町から美々津町付近の鉄道・駅・港湾などを低空で機銃掃射中、1機が左エンジンに対空砲火を受けて海上に落下、激しく黒煙を吹き上げた。 |
Robert O.HOCHULI少佐が死亡。 |
1945年8月14日午前11時頃 |
熊本県天草郡楠浦村(現・本渡市)大字船津海岸沖 |
P51(機体番号46−6335)が墜落。 |
Charles L.BURMAN中尉が死亡。楠浦村字実ケ浦共同墓地に埋葬。 |
1945年8月14日 |
鹿児島県沖 |
戦闘機(第58戦闘機群310戦闘機中隊所属)が墜落。 |
1945年8月14日 |
九州沖 |
P47(第507戦闘機群465中隊所属)が墜落。 海岸付近を哨戒飛行中、日本軍戦闘機(飛燕?)2機の攻撃を受け炎上、海中に突っ込んだ。 |
William L.McDANIEL少尉はパラシュート降下して捕虜になり、福岡の西部軍司令部へ送られ、翌日午後に油山で処刑された。 |
1945年8月30日 |
宮崎県西臼杵郡高千穂町五カ所の祖母山 |
B29(機体番号44−61554、第58航空団40爆撃群所属)が墜落。 福岡県の捕虜収容所に救援物資を空輸中に事故。12人全員死亡。 |
米軍は熊本県阿蘇郡野尻村(現・高森町)大字津留のコウロギ千穂らの案内と通訳で遺体の回収にあたった。 1995年8月、地元の人々の尽力により、このB29と、終戦直前に高千穂町小河内で墜落事故を起こした日本軍戦闘機隼の操縦士徳 義仁軍曹を慰霊する「平和祈念碑」が五カ所高原の三秀台に建立され、以後日米の交流が行われている。 |
1945年9月4日 |
長崎県西彼杵郡香焼島(現・長崎市香焼町)の対岸の山中 |
B29(機体番号44−61666)が墜落。 香焼島川南造船所の福岡捕虜収容所第2分所に救援物資を投下中に事故。 |
F/O Glen Holmは 村人によって救助され、米国に帰還。その他の13人は墜落死し、第2分所の解放された捕虜たちによって火葬され、位牌が長崎市の大浦天主堂に納められた。 |
1945年9月18日 |
大分県佐伯市大字海崎霞ケ浦の海岸沖 |
Arudamilidy?の遺体が漂着。佐伯市海崎の観潮寺に埋葬。 |