1944年12月13日 |
名古屋市とマリアナ基地の間 |
以下の4機のB29が失われた。 (注)作戦任務第12号(目標:三菱重工業名古屋発動機製作所、第2目標:名古屋市街地、第73航空団から出撃90機、損失4機) |
B29(機体番号42−63430、第73航空団498爆撃群所属) サイパンへの帰途、海上に不時着。 |
機長のGeorge W.McCANDILAS大尉など11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−24687、ニックネーム「TOKYO LOCAL」、第73航空団500爆撃群所属) サイパンへの帰途、海上に不時着。 |
機長のCharles G.CRISE大尉など11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−63439、第73航空団499爆撃群所属) サイパン島に墜落。 |
11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−63447、第73航空団499爆撃群所属) 海上に不時着。 |
米軍が全員救助。 |
1944年12月18日午後 |
名古屋市とマリアナ基地の間 |
以下の4機のB29が失われた。 (注)作戦任務第13号(目標:名古屋−三菱重工業名古屋航空機製作所、第73航空団から出撃89機、損失4機) |
B29(機体番号42−24773、第73航空団499爆撃群所属) 三河湾佐久市島東方沖で墜落したと見られ、日本側は補助タンク、飛行服、救命具などを回収。 |
機長のLeo E.CONWAY中尉など11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−63413、ニックネーム「DIXIE DARLING」、第73航空団497爆撃群所属) |
機長のGranvill H.WALLING中尉など11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−24649、第73航空団498爆撃群所属) |
死者なし。 |
B29(機体番号42−24762、第73航空団500爆撃群所属) |
機長のLinden O.BRICKER大尉など7人は米軍が救助。4人死亡。 |
1945年12月22日 |
名古屋市とサイパン島の間 |
以下の3機のB29が失われた。 (注)作戦任務第14号(目標:名古屋−三菱重工業名古屋航空機製作所、第73航空団から出撃78機、損失3機) |
B29(機体番号42−24684、第73航空団499爆撃群所属) |
機長のJames H.DARDEN大尉など12人全員死亡。 |
B29(機体番号42−24733、第73航空団497爆撃群所属) 海上に不時着。 |
機長のJoseph L.HAMMILTON中尉など6人は米軍が救助。5人死亡。 |
B29(機体番号不明、第73航空団所属) マリアナ基地へ帰着して、損失と判定。 |
1945年1月3日午後3時頃 |
愛知県東加茂郡松平村(現・豊田市坂上町)大字?立場(そだめ)の山林 |
B29(機体番号42−24766、ニックネーム「THE LEADING LADY」、第73航空団500爆撃群所属)が墜落。 小牧基地から発進した陸軍飛行第55戦隊の代田実中尉操縦の飛燕の体当たり攻撃による。代田中尉はパラシュート降下したが、重傷を負い、翌日、名古屋海軍航空隊病院で死亡。 (注)作戦任務第17号(目標:名古屋市ドック地帯と市街地、第73航空団から出撃97機、損失5機) |
B29は、機長のWilbur E.HURLBUTT少佐など11人が墜落死。村人が現場付近で火葬して埋葬したが、戦後米軍対策として、遺灰を岡崎市欠町の公共墓地に納めて墓標を建てた。 Thomas H.HEDGES軍曹はパラシュート降下して森に逃げ込み、翌日、山狩りの豊橋憲兵分隊員らに捕まり、岡崎憲兵分隊・名 古屋憲兵隊を経て名古屋地区軍司令部に引き渡された。数日後、大阪の中部軍司令部を経て、東部軍司令部へ送られ、大森捕虜収容所に収容された。戦後米国へ帰還。 この墜落事件は多くの新聞の記事やニュース映画になり、「朝日新聞」(東京)1945年1月5日付、「伊勢新聞」1945年1月6日付など に記事と写真が掲載されている。現在、墜落現場には地元の人によって当時の出来事を説明した標示板が立てられている。 【地元の男性(当時19才)の話】 当日は見晴らしが良かった。16機ぐらいのB29の編隊が名古屋方面から飛行中、日本軍の戦闘機が編隊後方にいたB29に体当たりした。B29はしばらく飛行を続けたが、突然火を噴いて高度を下げ、旋回しながら墜落した。爆発はしなかったが、機体の一部は燃えて、機関砲弾がはじける音がしていた。あまり損傷のない10人の米兵の遺体が飛行機の残骸のそばに並べられ、後に火葬された。日本兵のパラシュートと米兵のパラシュートが1個ずつ降りて来るのが見えた。降下した米兵は、猟銃などを持った村人たちに追われて無抵抗で降伏した。大勢の人が墜落現場を見物に来た。B29のプロペラなどが地元の学校に保管されていたが、戦後になって米軍が来るというのでどこかに埋めて隠した。 |
1945年1月3日 |
名古屋市とサイパン島の間 |
以下の4機のB29が失われた。 (注)上記作戦の損失機5機のうちの4機 |
B29(機体番号42−63418、ニックネーム「JUMBO」、第73航空団497爆撃群所属) |
6人死亡。 |
B29(機体番号42−24626、ニックネーム「JOKERS WILD」、第73航空団497爆撃群所属) |
11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−24660、ニックネーム「MILLION DOLLAR BABY」、第73航空団500爆撃群所属) |
機長のJoe S.AMOS Jr.中尉など11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−24748、第73航空団498爆撃群所属) |
11人全員死亡。 |
1945年1月14日 |
名古屋市とサイパン島の間 |
以下の5機のB29が失われた。 (注)作戦任務第19号(目標:名古屋−三菱重工業名古屋発動機製作所、第73航空団から出撃73機、損失5機) |
B29(機体番号42−24647、ニックネーム「HASTA LUEGO、第73航空団499爆撃群所属) |
機長のHenry A.MELLEN中尉など5人死亡、6人は米軍が救助。 |
B29(機体番号42−24807、第73航空団497爆撃群所属) |
機長のHarold F.SHERMAN大尉など11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−24763、ニックネーム「UNCLE TOM’S CABIN Ⅱ」、第73航空団498爆撃群所属) |
11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−24595、ニックネーム「PACIFIC UNION」、第73航空団497爆撃群所属) |
7人死亡。 |
B29(機体番号42−24609、第73航空団498爆撃群所属) |
1945年1月23日 |
名古屋市付近の沖合 |
B29(機体番号42−24785、第73航空団500爆撃群所属)が墜落。 (注)作戦任務第22号(目標:名古屋ー三菱重工業名古屋発動機製作所、第73航空団から出撃75機、損失1機) |
機長のFrank ROBERT少佐など11人全員死亡と思われるが、米軍は1人が捕虜になり、東京憲兵隊へ送られ、後に死亡した可能性もあるとしている。 |
1945年1月27日午後1時50分頃 |
静岡県富士宮市源道寺付近と富士郡鷹岡町付近 |
B29(機体番号42−63423、ニックネーム「WERE WOLFE」、第73航空団497爆撃群所属)が空中分解して墜落。 (注)作戦任務第24号(目標:東京中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃76機、損失9機) |
7人死亡、4人捕虜。⇒東部軍管区の項参照。 |
1945年2月14日 |
サイパン島 |
名古屋市爆撃のB29(Fー13ーA,機体番号42−93863)が墜落。 |
1945年2月15日 |
三重県尾鷲湾外の海上 |
B29(機体番号42−63499、ニックネーム「CORAL QUEEN」)が不時着。 (注)作戦任務第34号(目標:三菱重工業名古屋発動機製作所、第73・313航空団から出撃117機、損失1機) |
1945年2月16日 |
静岡県浜松市の浜松陸軍飛行場 |
空母ベニントンから飛来したF4U(機体番号82346)が墜落。 |
Robert M.CLES海軍少尉が死亡。 |
1945年2月17日 |
静岡県浜松市の三方ヶ原陸軍飛行場 |
空母ワスプから飛来したF6F(機体番号58197)が墜落。 |
Charles H.BUTLER海軍少尉が死亡。 |
1945年3月11日 |
名古屋市とグアム島の間 |
B29(機体番号42−24753、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。 離陸直後に海上に着水。 (注)作戦任務第41号(目標:名古屋市街地、第73・313・314航空団から出撃310機、損失1機) |
1945年3月19日 |
名古屋市とテニアン島の間 |
B29(機体番号42−24797、第313航空団505爆撃群所属)が墜落。 名古屋空襲の帰途、硫黄島の西80マイル付近の海上に墜落。 (注)作戦任務第44号(目標:名古屋市街地、第73・313・314航空団から出撃310機、損失1機) |
機長のWarren C.SHIPP中尉など11人全員死亡。 |
1945年3月25日午前0時半頃 |
名古屋市昭和区御器所町4丁目 |
B29(機体番号42−63526、第73航空団497爆撃群所属)が墜落。 飛行機は高射砲弾を受けて村雲小学校の北側の民家の上に墜落。 (注)作戦任務第45号(目標:三菱重工業名古屋発動機製作所、第73・313・314航空団から出撃249機、損失5機) |
機長のPaul W.SHAFFERATH中尉など搭乗員11人全員死亡、民家の家族のうち4人も死亡した。 日本軍は、1月に伊勢神宮が投弾を受けたこともあり、この戦果に喜び、中部軍参謀長の国武中将らが大阪から視察に訪れ、軍の戦果誇示のため、飛行機の残骸と米兵の遺体を公衆の面前にさらし、国防献金を呼びかけた。この間、多くの市民が遺体に暴行を加えた。戦後、米軍が遺体を回収に来た時、市民は恐怖におののいたという。 【現場近くの浄元寺住職(1928年生まれ)の話】 米兵の遺体は、機体の残骸とともに1週間ほど市民の前に晒され、大勢の人がそれを痛めつけた。その側には国防献金を呼びかける 4斗樽が置かれ、通行人がお金を寄付していった。その後、米兵の遺体は浄元寺墓地の脇に穴を掘って投げ込まれたが、戦後、米軍対策として、花を飾り墓標を立てて慰霊を装った。 |
1945年3月25日午前2時30分頃 |
愛知県愛知郡長久手村(現・長久手町)字ノダナ |
B29(機体番号42−63493、ニックネーム「STAR DUSTER」、第73航空団499爆撃群所属)が墜落。 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機 |
機長のCharles E.TIMMONS少尉など10人全員死亡。搭載していた爆弾が爆発したため、機体も遺体もバラバラになった。警防団によって拾い集められた8人分と推定される遺体を、長久手の公共墓地に埋葬。 【地元の男性(当時10代)の話】 墜落現場は、現在の名古屋の地下鉄藤ケ丘駅の東の名古屋市と長久手町の境界付近で、当時は田んぼと林だった。抱えていた爆弾が爆発したとのことで、数キロ離れた私の家でもドカーンという大きな爆発音がして、家の戸がはずれるほどだった。翌朝、工場への出勤の途中に現場を見てみると、大きな穴があいていた。日本軍機の体当たり攻撃によって撃墜されたと聞いた。 |
1945年3月25日午前0時半頃 |
名古屋市瑞穂区弥富町ナカシンデン3丁目 |
B29(機体番号42−65210、ニックネーム「FAY」第73航空団498爆撃群所属)が墜落。 飛行機は高射砲弾を受けて空中爆発し、機体も遺体もバラバラになった。。 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機 |
機長のFloid O.TOBEY Jr.中尉など11人全員死亡。1遺体のみ発見、他は不明。 |
1945年3月25日午前3時頃 |
愛知県東春日井郡守山町(現・名古屋市守山区)14丁目 |
B29(機体番号44−69748、第313航空団9爆撃群所属)が墜落。 飛行機は高射砲弾を受けて空中爆発し、地上に落下して激しく炎上した。 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機 |
機長のMurel W.HARDGRAVE中尉など11人全員死亡。7〜8遺体を守山町9丁目成願寺墓地に埋葬。 |
1945年3月25日 |
名古屋市とテニアン島の間の海上 |
B29(機体番号42−65241、ニックネーム「LIFE OF RILEY」、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機 |
機長のJack B.RILEY少佐など10人全員死亡。 |
1945年4月7日午前11時頃 |
愛知県愛知郡猪高村(現・名古屋市名東区猪高町)大字猪子石ヤワタ地区 |
B29(機体番号42−65350、ニックネーム「CITY OF MUNCIE」、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。 日本軍戦闘機の体当たり攻撃を受け、左翼がちぎれて墜落。 (注)作戦任務第59号(目標:三菱重工業名古屋発動機製作所、第313・314航空団から出撃194機、損失2機) |
機長のFrank A.CROWCRAFT中尉など8人が墜落死。愛知郡猪高村大字新田の南の丘、東春日井郡守山町9丁目の成願寺墓地、名古屋市千種区鍋屋上野町汁谷などに遺体を埋葬。 Melvin L.GREEN中尉、William E. PRICE軍曹、Siegel LEROY軍曹の3人が捕虜。彼らのうち1人は、猪高村猪子石にパラシュート降下して農耕部隊のメンバーに捕まった。1人は、千種区田代町鹿子殿にパラシュート降下して住民に捕まり、千種警察署に引き渡された。1人は、千種区田代町猫ケ洞の山にパラシュート降下して、4103部隊員に捕まった。 彼らは、東海軍司令部へ送られ、8日後、名古屋憲兵隊員によって東京へ護送され、大森捕虜収容所に収容、戦後米国へ帰還。 |
1945年4月7日午前11時頃 |
愛知県東春日井郡守山町(現・名古屋市守山区)大字瀬古 |
B29(機体番号44−69669、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。 (注)上記作戦の損失機2機のうちの1機 |
機長のWilliams S.BUTTERFIELD中尉など12人全員死亡。守山町9丁目の成願寺墓地に埋葬。 |
1945年4月12日 |
名古屋市とグアム島の間 |
B29(Fー13ーA,機体番号42−93850)が不時着。写真撮影飛行中の事故。 |
10人は米軍が救助、1人行方不明。 |
1945年4月22日正午過ぎ |
三重県度会郡豊浜村(現・伊勢市西豊浜町)大字野依の畑 |
P51が墜落。 明野飛行場を攻撃中に、対空砲火によって撃墜された。 |
Richard M.LONG少尉が死亡、現場付近に埋葬。「伊勢新聞」1945年4月24日付に関連記事と写真あり。 |
1945年4月24日午前 |
三重県南牟婁郡北輪内村(現・尾鷲市)の沖合約30キロ |
B29(機体番号42−63483、第73航空団499爆 撃群所属)が墜落。 飛行機は爆撃終了直後、日本軍戦闘機の攻撃を受けて墜落。 (注)作戦任務第96号(目標:日立航空機立川工場、第二目標:静岡、第73・313・314航空団から出撃131機、損失5機) |
10人がパラシュート降下し、そのうちの1人Jack M.KROPF軍曹 は、遠州灘を5日間漂流して日本海軍に救助され、大船海軍捕虜収容所に移送、戦後米国に帰還。他の搭乗員は行方不明。 また、5月11日、北牟婁郡九鬼村大字早田浦に、操縦士のRay P.ANTONUCCI中尉の死体が漂流しているのが漁師によって発見され、北輪内村大字三木浦に埋葬。 |
1945年4月24日午前 |
静岡県の沖合 |
B29(機体番号44−69897、第314航空団330爆撃群所属)が墜落。 目標を爆撃後、日本軍戦闘機2機の攻撃を受けて墜落。 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機 |
機長のHerbert R.WILLIAMS中尉など8人が機体とともに墜落死。 George R.FARMER少尉、Ronald F.HEEMAN少尉、Biden A.PETERSON二等兵の3人が、小笠郡横須賀町の海岸沖3000メートルを漂流中に、横須賀町の警防団員らにより捕虜。浜松憲兵分隊から名古屋の東海軍司令部へ送られて取り調べの後、5月4日に名古屋捕虜収容所鳴海分所へ送られた。終戦により、9月4日に静岡県新居町から米国へ帰還。 |
1945年4月24日 |
東京都北多磨郡砂川村(現・立川市) |
B29(機体番号42−24779、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機 ⇒東部軍管区の項参照 |
1945年4月24日 |
埼玉県入間郡高階村(現・川越市) |
B29(機体番号42−94026、第314航空団19爆撃群所属)が墜落。 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機 ⇒東部軍管区の項参照 |
1945年4月24日 |
硫黄島 |
B29(機体番号42−24853、第313航空団9爆撃群所属)が墜落。 (注)上記作戦の損失機5機のうちの1機 ⇒東部軍管区の項参照 |
1945年5月14日午前9時30分頃 |
名古屋市西区児玉二丁目の県立二商(現・西陵商業高校)付近 |
B29(機体番号44−70017、 第314航空団19爆撃群所属)が墜落。 (注)作戦任務第174号(目標:名古屋北部市街地、第58・73・313・314航空団から出撃524機、損失11機) |
11人の搭乗員のうち、機長のKenneth W.CLEWETT中尉など7人が墜落死。このうち1人は北区上飯田町のホリ産業株式会社 の構内に落下。2人は西区児玉町の児玉消防署前の空き地に落下。1人は児玉町の女子師範学校付属中学校(現・天神山中学校)の東北隅に降下したが、パラシュートが開かなかった。彼らの遺体は西区新福寺町の円福寺墓地に埋葬。その他の搭乗員の遺体は識別不能であった。 Elton V.KEIN少尉、Keith H.CARRIER少尉、George R.GRANZIADEL Jr.伍長、Joseph R.SHELTON伍長の4人がパラシュート降下して捕虜。 彼らは、名古屋市西区天神山町二丁目で1人、北区辻町二丁目で1人、北区上飯田町ハタエで2人が捕まり、愛知県西警察署や北警察署へ連行された後、東海憲兵隊司令部を経て東海軍司令部へ送られたが、7月11日に東海軍司令部で軍律裁判にかけられ、無差別爆撃を理由に死刑宣告され、12日に東春日井郡小幡ケ原陸軍射撃場で斬首された。戦後、遺体が掘り返されて焼かれ、遺灰が名古屋市昭和区興正寺に納められた。 |
1945年5月14日午前8時過ぎ |
伊勢湾 |
B29(機体番号44−69966、第58航空団462爆撃群所属)が墜落。日本軍戦闘機の攻撃により被弾、津市上空で火を吹き、旋回しながら伊勢湾に墜落。 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機 |
11人の搭乗員のうち、Paul R.LABADIE伍長は行方不明。 Theodore C.RAYNOLDS少尉は、捕獲された経緯は不明だが、東京へ送られ、5月26日の東京陸軍刑務所の火災で死亡。 Robert C. ORR少尉とLioyd O. MILLERは伊勢湾にパラシュート降下して、2時間後に日本海軍の警備艇に救助され、大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 下記7人は伊勢湾周辺で捕虜になり、東海憲兵隊を経て東海軍司令部へ送られた。 Dean N.SHERMAN中尉(機長)、Benjamin W.BRITCHARD伍長、 Norman SOLOMON少尉、Evan I.HOWELL伍長、Carl H.NANSEN伍長、Edward P.JENTREY伍長、Jerry W. JOHNSON伍長。 <上記のうち氏名不詳の1人> 三重県津市郊外の安東村の森に降下。津連隊司令部の兵士らが住民の協力を得て逮捕、津憲兵分隊に引き渡した。 <上記のうち氏名不詳の2人> 愛知県知多郡内海町沖の伊勢湾を漂流中、漁民が救助、四日市憲兵分隊に引き渡した。 <上記のうち氏名不詳の2人> 三重県河芸郡豊津村の伊勢湾の海岸で、豊津村の漁師たちが救助、津憲兵分隊に引き渡した。 <上記のうち氏名不詳の1人> 三重県河芸郡白塚村の海岸沖を漂流中、白塚村の漁師たちが救助、津憲兵分隊に引き渡した。 <上記のうち氏名不詳の1人> 愛知県知多郡師崎町沖の伊勢湾を漂流中、師崎町の漁師たちが救助、半田警察署から河和憲兵分隊に引き渡した。 これら7人の捕虜は、7月11日に東海軍司令部で軍律裁判にかけられ、無差別爆撃を理由に死刑宣告され、12日に東春日井郡小幡ケ原陸軍射撃場で斬首された。戦後、遺体が掘り返されて焼かれ、遺灰が名古屋市昭和区興正寺に納められた。 |
1945年5月14日 |
名古屋市とマリアナ基地の間 |
以下の9機のB29が失われた。 (注)上記作戦の損失機11機のうちの9機 |
B29(機体番号42−24492、ニックネーム「DEACON’S DISCIPLES」、第58航空団40爆撃群所属) 海上に墜落したものと思われる。 |
機長のWilliam D.DONELAN中尉など11人全員死亡。 |
B29(機体番号42−24793、ニックネーム「COUNTRY GENTLEMAN」、第313航空団505爆撃群所属) 燃料切れで海上に不時着。 |
5人死亡、6人は米軍が救助。 |
B29(機体番号44−69926、第73航空団499爆撃群所属) 出撃途中に硫黄島付近の海上に墜落。 |
2人はパラシュート降下したが行方不明。10人は米軍が救助。 |
B29(機体番号42−93885、第73航空団497爆撃群所属) 海上に不時着。 |
全員米軍が救助。 |
B29(機体番号44−69773、第314航空団39爆撃群所属) 海上に不時着。 |
2人死亡、10人は米軍が救助。 |
B29(機体番号42−94013、第314航空団29爆撃群所属) グアム島に墜落。 |
機長はFrederick J.BEDFORD。7人死亡。 |
B29(機体番号不明、第313航空団所属) 硫黄島付近の海上に不時着。 |
全員米軍が救助。 |
B29(機体番号不明、第313航空団所属) 硫黄島に不時着時、事故で破損。 |
死者なし。 |
B29(機体番号不明、第314航空団所属) 硫黄島付近の海上に墜落。 |
全員パラシュートで脱出して米軍が救助。 |
1945年5月15日 |
伊勢湾 |
空母イントレピッドの艦載機が墜落。 |
O.N.BURNETT三等航空下士官が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年5月17日 |
名古屋市とマリアナ基地の間 |
以下の3機のB29が失われた。 (注)作戦任務第176号(目標:名古屋南部市街地、第58・73・313・314航空団から出撃516機、損失3機) |
B29(機体番号44−70010、第314航空団330爆撃群所属) 海上に墜落。 |
2人死亡、他は米軍が救助。 |
B29(機体番号42−24801、第58航空団462爆撃群所属) 基地付近での事故。 |
死者なし。 |
B29(機体番号44−70002、第58航空団444爆撃群所属) 基地付近での事故。 |
5人死亡、6人は米軍が救助。 |
1945年5月29日午前10時過ぎ |
静岡県志太郡東川根村(現・本川根町)藤川 |
B29(機体番号42−24894、第58航空団40爆撃 群所属)が墜落。 B29の大編隊が村の上空を東へ通過し終わるころ、愛知県清洲飛行場から発進した陸軍飛行第5戦隊所属の河田清治少尉と土山茂夫兵長搭乗の屠竜が体当たり攻撃。B29は黒煙を吐きながら空中分解して、主要部は徳谷神社付近の山林に落下、積んでいた焼夷弾が散らばり、民家数軒が炎上した。 (注)作戦任務第186号(目標:横浜市街地、第58・73・313・314航空団から出撃510機、損失7機) |
機長のMansel R.CLARK中尉など9人が機体とともに墜落死、現場付近に埋葬され、戦後米軍が回収。体当たりした日本兵2人も本城山付近に墜落死した。 Richard M.HURLEY少尉とElgio L.ROBERTSON軍曹の2人がパラシュート降下して捕虜。 HURLEY少尉は墜落現場付近で無抵抗で捕まったが、ROBERTSON軍曹は村の東方の平栗付近の山中に降下して逃走。東川 根村の警防団員や在郷軍人らが追跡したところ、ピストルを1発発射したが、大勢に包囲され、猟銃の威嚇射撃を受けて投降した。 彼らはいったん村役場に拘留された後、夕刻に、鉄道で静岡憲兵分隊金谷支隊に護送、さらに翌朝、静岡憲兵分隊員によって東海軍司令部へ護送された。彼らは6月28日頃、愛知県瀬戸市赤津町(?)宮地の山中で東海軍により斬首刑に処せられた。 戦後の1950年、小学生たちがこのB29の焼夷弾の不発弾を拾って遊んでいて爆発、1人が死亡、2人が重傷を負う事件があった。 |
1945年6月5日午前10時頃 |
三重県度会郡島津村(現・南島町)大字古和浦の山 |
B29(機体番号42ー63451、第58航空団444 爆撃群所属、ニックネーム「BLACK JACK TOO」)が墜落。 神戸空襲の帰途、紀伊半島上空で、三重県明野教導飛行師団の五式戦闘機部隊の攻撃を受けた。 (注)作戦任務第188号(目標:神戸市街地、第58・73・313・314航空団から出撃530機、損失11機) |
射撃手のJoseph W.ROMANELLI軍曹は日本軍戦闘機の銃撃により機内で重傷を負っていて、機体とともに墜落死。 6月10日 に遺体が発見されたが、既に腐乱していた。島津村大字古和浦の共同墓地に埋葬。 機長のWoodrow B.PALMER中尉など10人がパラシュート降下して捕虜。 このうち7人の飛行士は、降下と同時に相次いで土地の人々に捕まり(1人はひどく負傷していた)、村役場に拘留された。宇治山田の 神宮皇学館大学構内に置かれていた153師団(護京師団)司令部から将校が派遣され、憲兵隊員や吉津警察署員らの助けを得て、彼 らをトラックで師団司令部へ連行した後、宇治山田憲兵分隊に拘留した。翌日、憲兵隊員が警護して、彼らを(1人はひどく負傷していた ので除いて)列車で東海軍司令部へ送った。重傷の1人は頭蓋骨骨折により、同日に153師団司令部医務室で死亡、宇治山田市の公共墓地に埋葬。 残る3人の飛行士のうち1人は、6月7日の早朝、島津村の棚橋竈に現れたところを村民たちが捕まえ、村役場に拘留した。また、そこ に駐屯していた海軍の兵士が、午前10時頃古寿恵山を彷徨っていた他の2人を捕まえた。これらの3人の飛行士は、宇治山田憲兵分 隊鵜方支隊の隊員によって、列車で宇治山田憲兵分隊に送られ、翌8日に東海軍司令部へ送られた。 これら9人の飛行士は6月28日頃、愛知県瀬戸市赤津町(?)宮地の山中で東海軍により斬首刑に処せられた。 【南島町古和浦の複数の人の話】 当日、何機かのB29が村の上空を西北から熊野灘の方へ飛んでいた。そのうちの1機が火を吹き、3つか4つに分解して墜落した。パラシュートも見えた。飛行機は神戸を空襲して損傷を受けたものと聞いた。機体の一部は、古和浦漁港のすぐ側の神社のあたりに落ちた。そこには御木本真珠の出張所があって、漁業組合長の一家が住んでおられたが、墜落によって奥さんと姉さんと子供さん2人が亡くなった。米兵を捕まえるために大勢で山狩りをした。当時の村役場は、今は南島町役場の支所になっている。死んだ米兵の遺体を埋めた公共墓地は、今は違う場所に移転している。このあたりでは、戦時中はそれ以外に大きな被害はなかったが、昭和19年の東南海地震の津波で26人が死亡する被害が出た。 |
1945年6月5日午前9時頃 |
三重県名賀郡名張町(現・名張市)青蓮寺大谷の森林 |
B29(機体番号44−69665、第58航空団468 爆撃群所属)が墜落。 神戸空襲の帰途、三重県明野教導飛行師団の五式戦闘機部隊の攻撃を受けて墜落した。 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機 |
<死亡搭乗員2人> 機長のRobert L.ARNOLD大尉は、焼死して丸裸の状態で名張町夏見の水田(百合ケ丘字上出)に落下、現場付近に埋葬された。戦後、米軍が遺体を回収。 Glenn C.HUBNSTOCK二等軍曹は、機体とともに墜落死、残骸の近くで手足のちぎれた胴体だけの遺体が見つかり、現場付近に埋葬された。1946年4月に米軍が遺体の回収に来た時、地元の人々は花で飾った墓標を作り、慰霊を装った。 <三重県側で捕まった捕虜搭乗員6人> Vincent L.GARMAN中尉、Harry F.FOLGAR中尉、Melvin WOLF准尉、Charles L.VREMLAND二等軍曹、Joseph E.McDANIEL軍曹、Theodore J.MAINIERO伍長の6人は、名張町青蓮寺、錦生村龍口、滝川村柏原、長坂、赤目口などにパラシュート降下し、15時頃までに警防団員や住民に捕まり、名張警察署へ連行された。名張警察署で尋問の後、近鉄電車で津憲兵分隊へ護送され、さらに翌日、東海軍司令部に送られた。 彼らは7月14日頃、東海軍司令部の第二兵舎裏で斬首刑に処せられた。戦後、遺体が掘り返されて焼かれ、遺灰が名古屋市東区新 出来町の陸軍墓地に納められた。 名張市青蓮寺の地蔵院には、墜落時に寺に飛び込んで来たB29の破片が残されていて、住職が供養を続けておられ、2006年には、地元の人の協力を得て、墜落現場に慰霊碑を建立された。 【墜落現場付近の女性(当時20才)の話】 墜落の当日は自宅にいて仕事をしていた。上空をB29がグルグル旋回しながら高度を下げ、火に包まれながら頭上スレスレに山の方 へ飛んで行って墜落した。まるで自分の真上に落ちそうで、頭を抱えて地面にはいつくばっていた。本当に恐ろしかった。 【墜落現場付近の男性(当時14才)の話】 当時、高等小学校の2年生で母親と一緒に畑で仕事をしていた。その日は快晴で非常に見通しがよかった。編隊から離れた1機のB29が大きく孤を描くように旋回しながら落ちて来た。墜落直前には火は吹いておらず煙を吐いていた。大勢の人が現場に集まって来て、私も見に行こうとしたが、大人の人に制止された。現場は山に上る途中の松林で、かなり広い範囲が燃え、戦後も長い間焼け跡になっていた。機体が燃えている時は機銃弾が破裂するパチパチという音がしていた。機体の残骸は山道をふさぐように散乱しており、タイヤなども見えた。遺体があったかどうかは知らない。後に現場付近で機銃弾を拾って遊んでいたこともある。戦後になっても飛行機の破片がたくさん残っていたが、朝鮮戦争のころ金属が高く売れたので、業者らが来て根こそぎ回収して持って行った。 【名張市龍口の男性(当時16才)の話】 当時、名賀農学校(現・名張高校)の生徒で、6月5日には、名張市西原の丘陵地で開墾作業をしていた。B29の編隊に日本軍の戦闘機が攻撃をかけ、1機のB29が編隊から遅れた。3回ぐらい旋回している時、パラシュートがいくつか開いた。 その日、帰宅すると、父親がパラシュート降下した米兵の1人を捕まえたと聞いた。父親は、家の北側数百メートルの山中(龍口大字マツガ谷)で山仕事をしていて米兵を発見、作業道具の刃物類を奪われると危ないと思って、夢中で米兵に飛びかかっていった。くんずほぐれつの格闘となったが、父親が米兵の急所をつかむと、米兵は抵抗をやめ、立ち上がって敬礼して降伏の意思表示をしたので、一緒にふもとへ下りて警察に引き渡した。父親はその手柄によって日本側の何かの機関から感謝状をもらったが、すぐ終戦になり、こんなものを持っていると危ないと思って焼き捨てた。米兵の虐待・虐殺のうわさはこの付近では聞かない。 【名張市龍口の男性の話】 私の家は、忍術で有名な百地三太夫の家系だ。B29が墜落した日、家の裏の田んぼに米兵の1人がパラシュート降下した。父親は、家の天井にかけてあった先祖伝来の槍を持って飛び出した。米兵が田んぼの中でパラシュートがからまってもがいているのを、近所の人たちと協力して捕まえ、駐在所に連絡した。辺鄙な所なので、最寄りの駐在所へ往復するだけでも数十分はかかったと思う。 父親は、日本側の何かの機関から感謝状をもらったが、敗戦時に焼き捨てた。家には先祖代々の日本刀などが大量にあったが、武器をもっていると占領軍に罰せられると思って、いくつかを残して全部捨てた。金属の道具類は、戦時中の金属供出で出してしまったが、鎧・兜は溶かしにくいので出さずにすんだ。米兵のパラシュートの布は戦後も残っていたが、少しずつ使っていって無くなった。 【名張市赤目町長坂の女性(当時29才)の話】 主人は出征中に戦死した。B29の墜落の時には田んぼ仕事をしていた。自宅から少し西へ入った谷のあたりから米兵が出て来て捕まり、家の前の黄龍橋の石柱に縛りつけられた。米兵は大柄でカーキ色の服を着ていた。大勢の人が集まって来て米兵をたたいた。滝川小学校(現・赤目小学校)の生徒たちも来てたたいていた。米兵はじっとうつむいていた。付近一帯で山狩りが行われ、猟銃を撃った人もあったらしいが、米兵が殺されたという話は聞かない。戦後になって皆が、「こういうことは誰にも言うな」と言っていた。 <奈良県側で捕まった捕虜飛行士3人> ⇒中部軍管区の項参照 Roy M.YOUNG中尉、とTheodore F.LADD二等軍曹は、奈良県宇陀郡三本松村大字龍口にパラシュート降下して住民に捕まり、三本松駅から榛原警察署へ連行され、奈良憲兵分隊員により大阪の中部憲兵隊司令部へ送られた。 Kenneth L.KIRKLAND二等軍曹は、パラシュート降下した後、山中を一昼夜彷徨し、翌日、奈良県宇陀郡曾爾村長野の森で住民に捕まった。曾爾村警防団に警護されて、トラックで名張駅へ行き、榛原警察署員に引き渡された後、奈良憲兵隊員により大阪の中部憲兵隊司令部へ送られた。 |
1945年6月5日午前9時頃 |
三重県紀伊長島町沖の熊野灘 |
B29(機体番号42−24742、ニックネーム「T−SQUARE 31」、第73航空団498爆撃群所属)が墜落。 神戸空襲の帰途、紀伊半島上空で、三重県明野教導飛行師団の五式戦闘機部隊の攻撃を受けてエンジンを損傷、編隊から遅れた ところを、さらに追尾して来た日本軍戦闘機の体当たり攻撃を受けて海上に墜落した。 (注)上記作戦の損失機11機のうちの1機 |
機長のBudawei ALEXANDER中尉など7人が死亡、他の搭乗員4人は米軍の潜水艦が救助。 |
1945年6月5日午前 |
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兵庫県で3機、京都府で2機、硫黄島で3機のB29が失われた。 (注)上記作戦の損失機11機のうちの8機 ⇒中部軍管区の項参照。 |
1945年6月9日午前1時50分頃 |
三重県志摩郡大王崎沖 |
P51(機体番号44−63987、第21戦闘機群531中隊所属)が墜落。 |
David C.FULLER少尉はパラシュート降下したが死亡。 |
1945年6月9日 |
三重県志摩郡鳥羽町と硫黄島の間 |
P51(機体番号44−63944、第15戦闘機群72中隊所属)が墜落。 |
Garland R.COTTLE中尉が死亡。 |
1945年6月20日未明 |
静岡市 |
静岡市を空襲中の2機のB29(機体番号44−69881、第314航空団29爆撃群所属)とB29(機体番号42−65373、第314航空団39爆撃群所属)が空中衝突。1機は静岡市安西5丁目と田町5丁目に分解して墜落、もう1機は静岡市向敷地の 河原と山林に分解して墜落。 (注)作戦任務第212号(目標:静岡市街地、第314航空団から出撃137機、損失2機) |
69811機は機長のWalde C.EVERDON中尉など12人全員死亡、65373機は機長のDonald G.HOPKINS中尉など11人全員死亡。静岡市沓谷の公共墓地に8人分ぐらいの遺体を埋葬。 戦後、墜落現場となった魚長料理店の親戚の伊藤福松さんという篤志家が、B29の搭乗員の水筒を保管、また、慰霊碑を自分の屋敷の敷地内に建立された。現在は、賎機山公園の山頂に移されて、戦災犠牲者の慰霊碑と並んで建てられており、市内の医師の菅野寛也さんが中心になって、毎年慰霊祭を続けておられる。 【静岡市安西五丁目の女性(当時35才)と静岡市千代の男性(当時15才)の話】 6月19日深夜から20日未明にかけて大空襲があった。焼夷弾がふりそそぐ中で、1機のB29が墜落するのが見えた。胴体部分は、最 初15センチぐらいの十文字に見え、キリキリ舞しながら次第に大きくなって、安西五丁目の魚長料理店へ火を吹きながら墜落した。墜落現場は2〜3時間ぐらい猛火に包まれていた。尾翼部分は田町の安倍川の河原近くに落ちた。空襲が終わった後、米兵の黒焦げの遺体が安倍川の方へ引きずられて行き、皆が石を投げたり棒でたたいたりしていた。このB29と空中衝突したらしい別の1機が静岡市向敷地の河原と山林に分解して墜落した。 |
1945年6月22日午前9時頃 |
三重県桑名郡長島村(現・長島町) |
B29(機体番号42ー24882、第313航空団504爆撃群所属)が墜落。 大垣市上空付近で対空砲火による損傷を受け、さらに、桑名市上空付近で日本軍機と空中戦の末墜落。 (注)作戦任務第219号(目標:川崎航空機岐阜工場−各務原、第313航空団から出撃21機、損失1機) |
<死亡搭乗員2人> Jack E.MERRILL二等軍曹は、桑名郡長島村の長良川の西岸に墜落して溺死。戦後、四日市市の石原産業四日市工場に収容されていた連合軍捕虜が、彼の遺灰を本国へ持ち帰った。 氏名不詳のもう1人は、弥富町の木曾川の尾張大橋下流付近で溺死。名古屋市東区新出来町の名古屋陸軍墓地に遺体。 <捕虜搭乗員9人> 氏名不詳の2人は、桑名郡長島村に降下して住民に捕まり、桑名警察署に連行され、四日市憲兵分隊員により、トラックで東海憲兵隊を経て東海軍司令部へ送られた。 氏名不詳の5人は、愛知県海部郡弥富町鯏浦(3人)、鍋田村大字中山(1人)、市江村本田(1人)で捕虜。弥富警察署の警察官や住民が協力してパラシュート降下した飛行士を捕まえ、弥富警察署へ連行、築地憲兵分隊員が捕虜と、溺死した飛行士の遺体を受け取り、東海憲兵隊を経て東海軍司令部へ送った。 George N.DAVIS軍曹とWalter S.ROGER少尉の2人は愛知県海部郡永和村の善田新田にパラシュート降下。農作業をしていた農夫らが2人を捕まえ、愛知県津島警察署に引き渡した。飛行士たちはかなり負傷しており、警察署で津島病院の医師が呼ばれて応急手当を施した後、築地憲兵分隊員らが、トラックで東海憲兵隊を経て東海軍司令部へ連行。 これら9人の捕虜は7月14日頃、東海軍司令部の第二兵舎裏で斬首刑に処せられ、戦後遺体が掘り返されて焼かれ、遺灰が名古屋 市東区新出来町の陸軍墓地に納められた。
【長島町殿名の男性(当時小学生)の話】 B29が墜落したのは長島村の押付という所で、現在の国道1号線沿いの長島農協のある所だ。1機だけ南から北へ低空で飛んで来て、村の上空で旋回して田んぼに墜落、炎上した。捕虜が近くの深行寺に連れて来られた。深行寺にパラシュートが干してあったのも見た。飛行機の残骸はかなり後まで残っていた。朝鮮戦争のころ、それらを集めて屑鉄屋に売りに行ったのを覚えている。伊勢湾台風の時もこわかったが、B29の墜落の時は本当に恐ろしかった。 【長島町西外面の男性(当時17才)の話】 墜落したのは田植えの頃で、午前11時頃だった。B29は火を吹いており、日本軍の戦闘機が追尾していた。大勢の人が竹槍や農作 業の道具などを持って集まったが、憲兵がいち早く駆けつけて来て人々を寄せつけなかった。このあたりでは捕虜が2人捕まった。 もう1人は長良川に降下して、パラシュートがからまって溺死した。 |
1945年6月23日 |
三重県河芸郡上野村大字千里の海岸 |
金髪で身長180センチぐらいの米兵の遺体が漂着。上野村大字千里の浜の森の中に埋葬された。戦後、米軍が調査したが身元は判明しなかった。 |
1945年6月26日午前9時30分頃 |
三重県一志郡倭村(現・白山町)の惣谷(現・近鉄東青山駅北側の四季の里付近) |
B29(機体番号44−69873、第314航空団19爆撃群所属)が墜落。 12機編隊で目標に向かう途中、伊丹基地から発進した陸軍飛行第56戦隊の中川裕少尉操縦の飛燕の体当たり攻撃を受け、黒煙を 吐きながら空中分解して墜落。中川少尉機は、現在の白山町の白山台団地付近に墜落。遺体は近くの真光寺に埋葬され、また延寿寺では、今も中川少尉の慰霊を行っている。白山町の郷土資料館には、このB29と飛燕の破片が展示されている。 (注)作戦任務第231号(目標:川崎航空機岐阜工場、第314航空団から出撃35機、損失1機) |
B29は、機長のBenjamin G.KORDUS大尉など10人が死亡。墜落時に現場で8遺体見つかり、さらに10月に、山仕事の村の婦人がもう1遺体(認識票からRobert GAFFNCY軍曹と判明)を発見した。いずれも発見場所に埋葬。さらに1946年1月に、倭村の農夫が1遺体を発見して警察に通報し、津市の米CICが回収した。 Lester J.SHELTERS二等軍曹が倭村惣谷付近の森にパラシュート降下して捕虜。 現場付近に駐屯していた大阪の特別守備隊第一大隊や警防団などが彼を捜索していたところ、不通になった電車から降りた大阪府 警の巡査(19才)が彼を捕まえ、村役場へ連行した。集まった群衆は、飛行士に激しく罵声を浴びせ、殴りかかろうとする者もあったが、 警官らに制止された。飛行士はケガをしていたので村役場で応急手当をした後、近くの榊原陸軍病院で治療を受けた。その後、久居警 察署の警官がトラックで彼を津憲兵隊へ引き渡し、翌日、津憲兵隊員により東海憲兵隊を経て東海軍司令部へ送られた。 彼は7月14日頃、東海軍司令部の第二兵舎裏で斬首刑に処せられ、戦後、遺体が掘り返されて焼かれ、遺灰が名古屋市東区新出来町の陸軍墓地に納められた。 |
1945年6月26日 |
名古屋市とテニアン島の間の海上 |
以下の2機のB29が墜落。 (注)作戦任務第229号(目標:愛知航空機永徳工場、第313航空団から出撃67機、損失2機) |
B29(機体番号44−69936、第313航空団504爆撃群所属) |
機長のWilliam F.PITTS大尉など4人死亡、他の8人は米軍が救助。 |
B29(機体番号44−70109、第313航空団504爆撃群所属) |
機長のEdwin B.CROWE大尉など4人死亡、他の7人は米軍が救助。 |
1945年7月9日 |
グアム島とロタ島の間 |
B29(機体番号42−63747、第315航空団502爆撃群所属)が不時着。 (注)作戦任務第260号(目標:岐阜市街地、第314航空団から出撃135機、損失1機) |
全員米軍が救助。 |
1945年7月15日 |
愛知県知多郡河和町(現・美浜町)の河和飛行場付近 |
P51(第15戦闘機群47中隊所属)が墜落。 河和飛行場を攻撃中に撃墜された。 |
Jule C.MITCHELL Jr.中尉が死亡。 |
1945年7月15日 |
愛知県岡崎市付近 |
P51(第15戦闘機群78中隊所属)が墜落。 岡崎飛行場を攻撃中に撃墜された。 |
Paul E.CHISM少尉が捕虜。大船海軍捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還。 |
1945年7月15日 |
愛知県岡崎市の岡崎飛行場付近の沖合 |
P51(第15戦闘機群47中隊所属)が墜落。 岡崎飛行場を攻撃中に撃墜された。 |
Ronald E.JOHNSTON少尉が死亡。 |
1945年7月16日 |
三重県安濃郡長野村(現・津市美里)大字桂畑の森 |
P51(機体番号44−63983、第506戦闘機群457中隊所 属)が墜落。 伊勢湾上空で、檜与平大尉指揮の明野教導飛行師団の日本軍戦闘機キ84、キ100の編隊の攻撃を受けた。 |
John W.BENBOW大尉が死亡、現場付近に埋葬。 |
1945年7月19日午前10時頃 |
岐阜県稲葉郡那加町(現・各務原市)各務原西飛行場の中央滑走路 |
P51(機体番号44ー64015、 第15戦闘機群司令部所属)が墜落。 高射砲弾を受けて炎上、墜落。 |
Julian E.Thomas中佐はパラシュート降下したが、火傷により間もなく死亡。稲葉郡蘇原町の六軒墓地に埋葬。 |
1945年7月20日正午頃 |
愛知県碧海郡矢作町(現・岡崎市)大字シモササキ |
P51(機体番号44ー73371、第15戦闘機群78中隊所属)が墜落。 |
Jack H.COLLIE中尉が死亡。碧海郡矢作町ニシホンゴウのレンゲ寺に埋葬。 |
1945年7月20日正午頃 |
愛知県碧海郡安城町(現・安城市)三平の田んぼ |
P51(第15戦闘機群45中隊所属)が墜落。 |
Joe D.WALKER大尉が死亡。現場付近に埋葬。 |
1945年7月20日 |
浜松付近の沖合 |
P51(機体番号44−63948、第21戦闘機群531中隊所属)が墜落。 |
Anthony T. FALGIATORE中尉が死亡。 |
1945年7月24日午前11時30分頃 |
静岡県浜名郡新居町と弁天の間の国道の橋の上 |
空母レキシントンから飛来したF4U(機体番 号81319)が墜落。 |
Ralph E.BOGGS海軍中尉が死亡。新居町の没手に遺体。 |
1945年7月24日 |
静岡県浜松市の浜松飛行場 |
空母レキシントンから飛来したF4U(機体番号81088)が墜落。 |
Thomas BRETT海軍中尉が死亡。 |
1945年7月24日 |
三重県志摩郡浜島 |
艦載機が墜落。 |
氏名不詳の飛行士が死亡。 |
1945年7月25日午前5時30分頃 |
静岡県浜名郡新居町中之郷役手の火葬場(現在の新居中学校の隣)付近 |
B17改造の救助機(機体番号42−3882)が墜落。 前日に日本の沖合で行方不明になったP51乗員の捜索活動のため、硫黄島基地を発進し、低空で侵入して来たところを高射砲弾で撃墜された。 |
機長のWilliam C.MOTSINGER中尉など10人全員死亡。現場付近に遺体を埋葬。 |
1945年7月25日午前7時頃 |
三重県名賀郡猪田村(現・伊賀市)東猪田の田んぼ |
F4U(機体番号81058)が墜落。 |
Edward H. DODGE海軍少尉が死亡。猪田村の大恩寺の公共墓地に埋葬。 【現場近くの男性(当時10代)の話】 数機の米軍戦闘機が付近を機銃掃射中に、1機が墜落して爆発し、大音響がして田んぼに大きな穴があいた。墜落現場は大恩寺の 東側(小字干物屋)の民家の裏だ。飛行士の遺体は大恩寺の墓地に土葬した。戦後、米軍が遺体の回収に来て、村人に命じて腐乱した遺体の肉片の一片まで集めさせて持ち帰った。 |
1945年7月28日 |
静岡県小笠郡の大井海軍飛行場 |
空母レキシントンから飛来したF4U(機体番号81396)が墜落。 対空砲火により撃墜された。 |
Robert T. CUNNINGHAM海軍少尉が死亡。 |
1945年7月30日午前8時20分頃 |
静岡県榛原郡勝俣村(現・榛原町)字大林2丁目 |
F4U(機体番号81279)が墜落。 大井海軍飛行場を空襲した戦闘機の編隊が西から東へ飛行中、そのうちの1機が空中爆発した。 |
Edd W. GARRISON海軍少尉が死亡。 |
1945年7月30日 |
静岡県浜松市の三方ヶ原陸軍飛行場 |
空母レキシントンから飛来したF6F(機体番号77626)が墜落。 |
Lawson H. BAYLIES海軍中尉が死亡。 |
1945年7月30日 |
静岡県小笠郡の大井海軍飛行場と空母レキシントンの間 |
F4U(機体番号81595)が墜落。 |
Alfred L. MORRIS海軍少尉が死亡。 |
1945年8月14日 |
愛知県イツミ郡フタガワ町と硫黄島の間 |
P51(機体番号44ー63505、第15戦闘機群78中隊所属)が墜落。 |
Philip SCHLAMBERG中尉は海上に降下した模様。 |
1945年8月29日 |
富山市下奥井18の立山重工業会社 |
TBMと思われる艦載機が墜落。 終戦後、立山重工業会社に設置されていた捕虜収容所に救援助物資を空輸中に事故を起こした。 |
搭乗員3人のうち、Paul H. HENDERSONが死亡。 |