江ノ浦丸 |
江ノ浦丸(えのうらまる)
所属 | 日本郵船 |
類別 | 戦時標準船2A型 |
総トン数 | 6,968総トン |
速度 | 10ノット |
出発地 | フィリピン・サンフェルナンド |
目的地 | 日本 |
出発日 | 1945年12月24日 |
捕虜数 | 「鴨緑丸」の生存者約1,235名 |
遭難地点 | 台湾高雄港内 |
遭難日 | 1945年1月9日 |
捕虜死者数 | 約400名 |
捕虜生存者数 | 約930名 |
写真提供 |
1月9日11時 頃、またもや米艦載機の空襲があり、爆弾が第1船倉の外側で炸裂し、捕虜約330名(292名は前方船倉、約40名が後方船倉)が即死した。第2船倉ではハッチのカバーが船倉内に落ち、数名が圧死または重傷を負った。当初、遺体は荼毘に付す予定であったが、連日の空襲のため土葬にすることが決まり、1月11日~13日の間に、犠牲者は中洲の墓地に埋葬 注1) された。
14日早朝、「鴨緑丸・江ノ浦丸」の生存者、推定930名が「ぶらじる丸」に乗船し、他の数隻の輸送船とこれを護衛する艦艇で船団を構成して高雄を出港し、中国大陸沿いに北上迂回、黄海を横切って朝鮮に向かった。「ぶらじる丸」は1月29日門司港に到着しが、生存者は、出発時の約半数(おそらく425~450名)に過ぎなかったという。そして、次の数週間以内に100名以上の捕虜が死亡することになった。
注1:1946年5月、高雄市の反対側の中州において、米陸軍の遺骨収集専門チームが311柱の遺骨を収集した。
注2:それぞれの出来ごとに関係する捕虜の人数については諸説紛々としているので「鴨緑丸」などについては、最も信憑性が高いと思われるFather Found, Duane Heisinger 著を参考にした。