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りすぼん丸

りすぼん丸

所属 日本郵船
類別 貨客船
総トン数 7,053トン
速度 12ノット
出発地 香港
目的地 門司
出発日 1942年9月27日
捕虜数 英1,816名
遭難地点 上海南方舟山列島東方
遭難日 1942年10月1日
捕虜死者数 842名
捕虜生存者数 974名
写真提供 日本郵船歴史博物館

香港で降伏した英軍捕虜を門司に輸送する途中、10月1日7時10分、米潜「グルーパー」の魚雷が右舷石炭庫に命中、炸裂したが、捕虜の死傷者はなかった。甲板にいた捕虜は、即座に船倉に追いやられ、ハッチは防水シートで覆われて、警備兵が増員された。その後、「グルーパー」は攻撃を繰り返すが、当時、アメリカの魚雷は欠陥品が多く、効果がなかった。被雷後、日本側と捕虜側に感情のもつれが生じた。食糧も飲料水も枯渇し、捕虜は船倉内に閉じ込められたままで空気も汚濁したので、改善を申し出たが、受け入れられなかった。

この日、遅くなって駆逐艦「栗」と「豊国丸」が救助に駆け付けた。機関が停止したままなので、乗船中の内地に帰還する日本軍兵士778名を「豊国丸」に移乗させ、「りすぼん丸」を浅海まで曳航することが決まった。捕虜については、捕虜の輸送は自分の責任とする輸送指揮官と、人命を尊重する船長との間で意見が対立し、指揮官は、船長が干渉すべきでないと主張した。船内の状況は次第に悪化した。船倉では浸水が始まったが、体力の消耗した捕虜では、排水用の手押ポンプが使えなかった。

2日の夜明け、「りすぼん丸」は突然傾斜し、沈没の危険に瀕した。船長は、総員退去を要請したが、指揮官はこれを拒否した。船倉内では、捕虜は、彼ら自身で事態を解決すべきときが来たと考え始めていた。捕虜の一人が梯子を登り、隠し持っていた肉切ナイフでハッチを覆っている防水シートを切り裂いて甲板に出た。捕虜の将校は、船倉からでることを日本側と交渉する意図で船橋に歩いて行ったが、警備兵が発砲し、彼は重傷を負った。このとき、彼らには船がすでに最後の状態になっているのが分かった。

「りすぼん丸」の船尾が沈んで浅瀬に着底した。捕虜はパニックになって、甲板に殺到し、海中に飛び込んだ。それを警備兵が上から射撃した。後部にいた捕虜は、海水が充満してきたので、最も危険な状態にあった。彼らは、将校の命令に従って、静粛に脱出した。船が沈み、開口部から船内に海水が奔流し始めた。日本側の巡視艇、多数の中国人のジャンクやサンパン(港内の交通船)が来て、遭難者を救助した。  約200名の捕虜が、近くの島に泳ぎ着いた。彼らは次の数日間、日本の駆逐艦が来て収容するまで、中国人の世話になった。3名の捕虜は中国人に匿われ、重慶に脱出させてもらった。

10月5日までに、捕虜は上海の埠頭に集められ、日本への移動を続行することになる。当初の1,816名の捕虜うち、842名が溺死するか、射殺された。重傷病者35名を上海に残置し、3名は隠れたままで、残り936名が「真盛丸」で日本に移送された。門司に到着するまでに、5名が死亡した。

10月8日の朝日新聞夕刊は「英俘虜千八百名の乗船米潜水艦盲襲撃沈す 東シナ海でりすぼん丸遭難」と報道した。海外放送でも喧伝し、プロパガンダに利用している。