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楽洋丸

楽洋丸(らくようまる)

所属 南洋海運
類別 貨客船
総トン数 9,418トン
速度 15.9ノット
出発地 シンガポール
目的地 日本内地
出発日 1944年9月6日
捕虜数 1,318(米1、英600、豪717)名
遭難地点 海南島沖
遭難日 1944年9月12日
捕虜死者数 1,161名
捕虜生存者数 157名
写真提供 日本郵船歴史博物館

「勝鬨丸」(第16船舶兵団司令官座乗。遺骨582柱、英捕虜、ボーキサイド6,000㌧)、「浅香丸」(便乗者593名、ボーキサイト)、「新潮丸」(便乗者573名、多量の燃料オイル)、「南海丸」(ボーキサイト6,500㌧、航空燃料ドラム4,000本)、「瑞鳳丸」(オイル8,000㌧)、「君川丸」(便乗者273名、ボーキサイト、航空燃料)、「楽洋丸」(米、英、豪捕虜、ボーキサイト)の7隻で構成するヒ-72船団は、海防艦「平戸」(第6護衛艦隊司令官座乗)、「御蔵」、「倉橋」、「11号」、駆潜特務艇「19号」、駆逐艦「敷波」の6隻に護衛されてシンガポールを出港した。「楽洋丸」の捕虜には、豪陸軍アーサー・ヴァーリー准将や米陸軍航空隊ハリー・メルトン大佐が含まれていた。「楽洋丸」と「勝鬨丸」の捕虜約2,200名は、出港まで36時間、暑い船倉に閉じ込められていた。豪軍捕虜があからさまに反抗したので、流血を避けるため、船長は一度に200名が甲板に上がることを許可した。

出港の翌7日正午、船団はコタバル東方150海里を通過後、シャム湾の中央部で北東に変針し、日本に向かった。8日の正午までに仏印(現・ベトナム)の南端沖合を通過し、11日9時過ぎ、マニラから日本に向かうマモ-03船団の「香久丸」「護国丸」「吉備津丸」が、海南島の東方約120海里においてこの船団に合流し、第6護衛艦隊司令官の指揮下に入った。護衛して来た海防艦「10号」「20号」と敷設艇「21号」は、任務を解かれてマニラに帰投した。船団が再編成され、「楽洋丸」は右列の後尾に位置した。

この頃、北緯18度、東経114度 付近の「コンボイ・カレッジ」と呼ばれるこの海域では、米潜「グローラー」「シーライオンII」「パンパニート」が哨戒中で、各艦長は真珠湾の潜水艦隊作戦士官から、ウルトラ情報(「冲鷹」の項を参照)で、重要な船団が9月6日シンガポール発日本に向かうと知らされていたが、作戦士官自身が捕虜の乗船について、何ら知らされていなかった。

9月12日1時55分、突如、船団護衛隊の旗艦「平戸」が「グローラー」の攻撃で轟枕し、船団は一時大混乱に陥ったが、ほどなくして正常の状態に復した。しかし、太陽が昇り始めたそのとき、「シーライオン」の発射した魚雷が先ず「南海丸」に命中した。そして5時31分、次の魚雷が「楽洋丸」の船首に命中、ゴムが詰まっている第一船倉を貫通した。その次の魚雷はまともに機関室に命中、主機、発電機などの補機類も停止、航行不能になった。排水ポンプも不作動になり、浸水のため船体は徐々に沈下した。もし魚雷が第二船倉に命中していたら、数百名の捕虜を殺傷したであろう。7時前、攻撃のために戻って来た「グローラー」の発射した魚雷が、駆逐艦「敷波」に命中した。「南海丸」は8時45分に沈没した。

「楽洋丸」の船上では、日本人は救命ボートを降ろし、彼らに続いてボートに乗ろうとした捕虜を蹴飛ばしながら先を急いだ。多数の者が、海に飛び込んだ。6時55分、「敷波」が沈んだとき、搭載していた爆雷が炸裂し、海中にいた多くの者が衝撃波で内臓裂傷を負った。事態は混乱を極め、双方では殺害事件が起きている。「楽洋丸」では多数の日本人が先に退去したので、捕虜の幾人かは警備兵に復讐した。10名あまりの捕虜が船首にいた船舶砲兵を襲った。ある捕虜は、海に飛び込む前に日本人をやっつけるのだと言って、金属棒を手にし、船橋に向かった。海中でも、大勢の捕虜に撲殺された者もいた。「楽洋丸」は、被雷後13時間経過した18時20分頃、海南島楡林東方海上(北緯18度32分、東経 114度29分)で沈没した。

12日の19時頃までに、日本側は救助しようと意図した者全員の救助を終えた。このとき、海中には約1,200名の捕虜がいたが、護衛艦が遭難現場を離れるとき、捕虜が浮かんでいる海面の真中を通過したので、幾人かの捕虜が推進機に巻き込まれて死傷し、他の者は溺死した。

話を7時頃に戻す。「敷波」が沈没した後、「グローラー」と「シーライオン」の攻撃で混乱した「香久丸」「護国丸」「吉備津丸」は、散り散りになって、海南島を目指した。「勝鬨丸」「浅香丸」「瑞鳳丸」「新潮丸」と護衛艦2隻は、米潜水艦の追跡をかわすために北上した後、海南島の楡林に向けて変針しようとしたとき、今度は「瑞鳳丸」が「パンパニート」の攻撃を受けて被雷し、22時50分、遭難通報を送信した。遭難地点は、北緯19度23分、東経111度50分である。「勝鬨丸」にとっても、事態は急変した。3本の魚雷のうち、左急旋回でかわし切れなかった1本が左舷7番船倉に命中、船板の合せ目が水線上で剥がれた。瞬時にして他の船倉や機関室にも浸水。機関が停止し、23時15分、「総員退去」が命じられた。やがて「勝鬨丸」は大きく傾き、23時37分に沈没した。船員の死亡者は12名であったが、便乗者と捕虜計476名が死亡した。

13日朝、「日章丸」「春日丸」海防艦「11号」駆潜艇「19号」が海南島から救援に赴き、「勝鬨丸」の生存者を救助した。マモ-03の護衛を解かれた3隻も、ヒ-72の遭難海域に急行するように指令された。「楽洋丸」の生存者のうち、ローランド・リチャーズ軍医大尉注1) たちの乗った4隻のボートと、ヴァーリー准将やメルトン大佐たちの乗った7隻のボートは、お互いの視界内に留まる範囲で漂流していた。14日朝、日本の海防艦が現れ、前者157名は、彼らの予期に反して、海防艦「10号」に救助されたが、後者はリチャード軍医の証言では、救助される前に砲声を聞いた。ヴァーリー准将やメルトン大佐、彼らと一緒にいた者を、それ以後見かけることはなかったという。

船団攻撃後、「グローラー」は任務を解かれて帰投の途につき、「シーライオン」と「パンパニート」が、数日、海南島付近の海域を哨戒することになった。15日午後、「パンパニート」は難破船の漂流物を発見し、調査のために接近すると、遭難者が筏に乗って漂流しているのが分かったので、武器庫から小火器を持ち出し、捕虜にする用意をした。撃沈した船舶の遭難者の取扱については決められた方針がなく、艦長の選択次第注2)であった。彼は「日本人を射殺したい者は、軽機関銃を持って、甲板に上がって来い」というと、多数の者が軽機関銃を手にして、上がって来た。「パンパニート」が数個の筏に近づくと、15名ばかりが乗っていて、豪軍の「坑夫帽」をかぶった者もいた。彼らは懸命に手を振り、叫んでいた。

「お前たち、一体誰だ」と尋ねると、「豪軍、英軍の捕虜だ。助けてくれ」と答えた。艦長は、それでも不審だったので用心して「英語の話せる奴を一人連れて来い」と叫ぶと「この馬鹿野郎。俺たちみんな英語を話すぞ」と憤然というので、「彼らを救助しろ」と命令し、救助が始まった。「パンパニート」は漂流物を徹底的に捜して捕虜を救助し、無線封止を破って約30海里北東にいた「シーライオン」を呼び出し、救助の支援を要請した。「シーライオン」は、全速で現場に到着し、救助を開始した。

18時35分、「パンパニート」は無線で真珠湾にある太平洋艦隊潜水艦隊司令部に状況を報告して、夜になるまで捜索・救助活動を続け、73名(1名死亡)を救助した。「シーライオン」も54名(4名死亡)を救助し、潜水艦隊司令部に連絡すると、「パンパニート」と供にサイパンに急行するよう指令された。潜水艦隊司令部は、新たに「バーブ」と「クイーンフィッシュ」に、直ちに遭難現場急行するように指令したが、この2隻は現場まで後150海里の海域で、ヒ-72よりも5日遅れてシンガポールを出発した護衛空母「雲鷹」に警備された船団ヒ-74に遭遇し、「雲鷹」と他の1隻を撃沈したが、現場への到着は、貴重な時間を費やしたため、数時間遅れた。

17日午後、「バーブ」と「クイーンフィッシュ」は捜索・救難を始めたが、接近する台風のため、海が荒れて困難を極めた。しかし、17日一杯と18日にかけて、この2隻は遭難海域を隈なく捜し、合計32名(2名死亡)を救助した。19日朝には台風のため、2隻は救助作業を打ち切ってサイパンに向かった。

潜水艦の艦長が受けたウルトラ情報では、船舶の積荷を明らかにしていなかった。しかし、太平洋地域情報統合センターでは、すべてが分かっていた。9月5日までに、船舶の名称、積荷、目的地、毎日の正午到着予定地点に関する通信を傍受、解読していたのである。Death on the Hellships, Gregory Michno著, p211

大局的見地に立てば、連合軍捕虜2,200余名の生命は、燃料、オイル、多量のボーキサイトを運ぶ数隻の船舶に値しなかったのであろうか。

「勝鬨丸」と「楽洋丸」の物語は、ここで終るが、2隻に乗っていた捕虜のその後について略述すると、ヒ-72の生存者は、海南島の楡林に連れて行かれた。ここで船団は「浅香丸」「香久丸」「護国丸」「吉備津丸」を5隻の海防艦が護衛して門司に向かう船団と、「新潮丸」に駆潜艇1隻と特設捕獲網船「開南丸」が護衛して高雄に向かう船団に再編成された。「吉備津丸」には、「楽洋丸」の捕虜176名、「勝鬨丸」の捕虜520名と、ヒー72の遭難者約1,000が乗船し、16日夕刻、楡林を出港した。当初、捕虜は満タンになったタンカー「新潮丸」の露天甲板に乗船することが予定されていたが、これでは雷撃されれば一溜まりもないと猛烈に抗議して、「吉備津丸」に変更された一幕もあった。

2隻の米潜水艦の生存者救助作業を妨げた台風に、この船団も翻弄された。荒天の中で、二つの船団は離れ離れになった。20日10時頃澎湖島の南30海里に到達したとき、中国本土から飛来した B-24 に攻撃され、「吉備津丸」を除くほとんど全部の船舶が損傷したので、同船は予定を変更し、20日午後基隆に寄港して「香久丸」の到着を待った。「吉備津丸」は、修理を終えて基隆に回航された「香久丸」と船団を組み、海防艦3隻に護衛され、25日昼過ぎに基隆を出港、門司に向かった。27日深夜、九州南端西において、護衛艦が米潜「プライス」の雷撃で轟枕したので、船団は高速で各個の行動を取り、「吉備津丸」と「香久丸」は、前後して28日朝、門司港に到着した。

注1:リチャーズ軍医は、戦後豪州で産業医、スポーツ医として名を成した。彼から米潜水艦が我が物顔に猛威を振るっていた危険な海域で、身の危険をも顧みず、艦を停止して救助してくれた日本の海防艦の艦長や家族にお礼を言いたいので、是非捜して欲しいと当研究会に依頼があった。調査の結果、その艦は海防艦「10号」、艦長は一ノ瀬志朗少佐(神戸高等商船出身)と判明したので、読売新聞大阪本社・社会部に依頼して、2008年7月20日の「泉」欄に掲載してもらったが、本人や家族からは連絡がなく、また、「泉」欄担当記者もかつて、一ノ瀬艦長が日本水産在籍中の住所まで足を運んでくれたが、住所の近所でも分からなかった。リチャーズ医師は、一ノ瀬艦長のために記念碑のようなものを作りたいとのことである。

注2:無制限潜水艦戦闘の限界は、潜水艦乗組員には曖昧模糊だった。このような事態(小型木造船の破壊など)は、無制限戦闘の限界の全権を付与された者として、個々の潜水艦艦長に任されていたのである。Execute against Japan, Joel Ira Holtwitt著、p171